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「家でテレビ見ながらダラダラやろうと思ってたのに、お前のせいで帰れねえじゃねえか」
「ごめんなさい……でも、嬉しいです」
自然と笑みが零れる。先生と、今日はまだ一緒に居られる時間がある、そう思うと。先生は俺を見上げ、舌打ちして課題に視線を落とした。
「お前そんな顔してもでかいから可愛くねえぞ」
どういう顔をしたのか分からないが、僕の気持ち悪い感情が表に出ていたのだろう。
「……背高くて、すみません」
「はいはい、嫌味」
先生が首から下げていた眼鏡を掛ける。レンズに茶の色が付いているので、目元が暗くなり表情が分かりづらくなる。
「風岡くん、私服に着替えるの、忘れずにね」
引き戸を開けて外に出ると、先生はそう僕に声を掛けた。柔らかな声色。だがそこに感情がないことを僕は知っている。「はい」と答えて、化学準備室を出た。彼が眼鏡を掛けている時のやり取りは、ただの先生と生徒のものになる。
学校を出て、僕は電車で三駅先にある自宅に帰った。高級住宅街の真ん中にある、誰も居ない家。玄関の鍵を開けて、ローファーを脱いでフローリングの床を踏みしめる。冷蔵庫の音が聞こえてきそうなくらい、しんと静まり返っている。
二階に上がって角にある自分の部屋に入ると、クローゼットから適当にシャツとスキニーパンツを取って、ボストンバッグに詰めた。そしてそのまま玄関に戻り、靴箱から取り出したスニーカーに履き替え、鍵を掛けて家を出る。
また電車に乗って学校の最寄り駅前にある塾に着いたのは、授業が始まる数分前だった。
塾が終わったのは、いつもと同じ九時。僕は塾の近くにあるインターネットカフェに入り、シャワー室を借りて身体を洗う。特に下半身を丁寧に。
私服に着替え、制服を皺にならないように畳んでバッグに入れる。そして最寄り駅のロッカーに荷物を預けて、電車に乗り、繁華街のある駅に向かった。
電車に揺られて、線路沿いに等間隔に並んでいる電灯をぼんやりと眺める。窓の外に広がる景色は、もう何度も見たはずだけれど、少しも馴染めなかった。
今まで先生に「愛されている」なんて思ったことは無かった。彼は初めから僕の我儘に付き合ってくれているだけなのだから。
遠く流れていく景色に、先生と僕の関係が始まった頃のことに思いを馳せた。
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