第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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 教室の前のドアがガラリと開いた。教室に残っていた数人が、一斉にそちらを見る。ポロシャツ姿の教師が立っていた。 「お前らあ、そろそろ帰れー」 「はあーい」  生徒たちは立ち上がり、おのおの鞄を手に取る。 「ほら、用のあるやつも切り上げて帰れー」  それほどやる気などない調子で、教師は生徒たちに声をかけていく。 「日野原も」 「はい」  椅子に座ってノートを広げていた妙子にも、教師は通りがかりに声をかけていった。  妙子は素直にノートを閉じ、鞄に入れた。ふと見ると、教室にはもう妙子しかいない。教師が去り際、戸締り見ておいてくれ、と言って教室を出て行った。 「…はい」  教師の背中を見送ると、妙子はいったん鞄を置き、窓に近づいた。ひとつひとつ、戸締りをしていく。ベランダへ出るガラス戸の鍵も、閉まっているのを確認した。 「…」  ガラス戸の向こうにグラウンドが見える。野球部の練習も終わっているようだった。  妙子は軽く息を吐いた。  土曜日の会食以来、なるべく独りにならないようにしている。八王子がなにか言いたそうにこちらをチラチラ見るからだ。なにを言いたいのか、だいたいの見当はついている。だからこそ、それとなく八王子を避けていた。  それにしても、と妙子は思う。 (自分の姉の、しかも結婚相手の名前くらい、きいてるもんじゃないかしら)  八王子と彼の姉の楓は、歳が離れているものの、とても仲の良い姉弟に見えた。会話も良くしているようだったし、楓があえて伝えていなかったとも思えない。 (まあ、言ったつもりになっていたのかもしれないけど)  妙子は鞄を取ると、教室を出た。  廊下を歩きながら、窓の外を見やる。まだ、薄明るい。だいぶ日が伸びてきたな、と思った。  妙子は無意識に、スカートのポケットに入れている小瓶をまさぐっていた。夕暮れ時は、逢魔が刻。  人気のなくなった昇降口で靴を履き替え、表に出る。頬にふわりと風が当たった。  校門へ向かおうと、一段、階段を下りようとした足が止まった。ギクリ、とする。二段ほど下に、座り込んでいる人影。  人影が、こちらの気配に気づいたのか、顔を上げて振り向いた。 「――八王子」  妙子は内心、しまった、と苦々しく舌打ちした。  立ち上がった八王子は、怒った顔を妙子に向けてきた。 「妙子、遅い!なんで部活やってる俺より遅いの!」  怒る八王子に怯むことなく、妙子は階段を一歩降りる。そして八王子の横に並んだ。 「俺は腹減ったあ!」  噛み付いてくる八王子を、妙子は一瞥した。 「…勝手に待ってただけじゃない」  文句を言われる筋合いはない、と小さくつぶやくと、八王子を置いて歩き出した。八王子が慌てて後を追う。 「そ、そうだけどっ。でも、やっぱ遅いよ、妙子。あんまり遅いの危ないよ」 「はいはい」 「ちょっと、待ってってば」  八王子は、すっと伸びた妙子の腕をつかんだ。  つかまれた勢いに押され、妙子は諦めて立ち止まった。八王子がそばに立つ。並ぶと、運動部らしい体躯が際立つように感じた。 「なに?」  妙子は八王子を見上げた。難しそうな顔をして、八王子が見下ろしている。 「聞いときたいことが、いろいろあって」 「…」 「それで待ってた。昼間、たいてい誰かと一緒で、全然つかまらないし」  意図的にそうしていたのだから当然、とは返さないでいた。 「でも、なんでこんな遅いかなあ」  7時半過ぎてるよ、と八王子がぼやく。話が細切れに飛ぶのは、八王子の癖みたいなものである。頭に浮かんだことをそのまま口にしているのだ。  妙子はそのぼやきにも応えず、ただやや視線をそらすと、帰りながら聞くわ、と八王子を促して再び歩き出した。 「なあ、妙子、なんで教えてくんなかったの、姉ちゃんのこと」  とうとうきたか、と妙子は思った。が、表情には出さないで、しれっと答えた。 「この間も言ったでしょ、確信なかったのよ」 「嘘だぁ。絶対わかってただろ。昇降口で、姉ちゃんいるか、って聞いてきたじゃん」 「そりゃね、確かめようとは思うもの、私だって」 「ほら」 「でも」 「でも?」 「できれば違ってて欲しかったのよ」  妙子は目を伏せた。どこかつらそうな声音に、八王子は気をそがれたように黙った。 「…なにかあった?」  クラスメイトの姉だから黙っていた、というだけでは済まない何かがあるように思えた。八王子は、じっと妙子を見た。  妙子は歩みを止め、隣に立つ八王子を見上げる。八王子は心配そうな目で、こちらを見ていた。 「――」  妙子がなにか言おうと口を開きかけたその時。 「ちょおっといいかしらあ?」  女の、やけに鷹揚とした声が二人の会話を遮った。八王子と妙子が、お互い一瞬目を合わせ、そして声のしたほうを振り向いた。  正門のところに、スラッとした立ち姿の華やかな美人がいた。  あごのラインでそろえた、ミディアムの髪が一筋、頬にかかって色っぽい。キリッとした目元。自信に満ち溢れた口かど。ふいに、愛想のいい笑顔を向けてきた。 「お取り込み中悪いんだけど、話、聞かせてもらえないかしら?」  そして、カツカツとパンプスのかかとを鳴らせながら、その美人―夏澄は二人に近づいてきた。  妙子と八王子はまるで気圧されたかのように、夏澄がやってくるまで突っ立っていた。夏澄は、二人の数歩手前で止まると、腰に手を当て妙子を眺める。 (まったく。なんでこんなに出てくるのが遅いのよ)  そう、夏澄は妙子が出てくるのを待っていたのである。  昼間、吉河がおさめた手形の写真の中にまぎれていた少女(それは妙子だった)が、ひどく気になっていた夏澄は、校門近くにハイエースを停めさせ、下校する生徒たちから探し出そうと待機していたのだ。あの彼女は、ナニカを知っている。夏澄の女の勘、というやつである。  夏澄はある時期から、自分の勘を絶対的に信じるようにしていた。そしてその信頼は、常に裏切られなかったのである。だから今回も、夏澄は自分の勘を信じた。  この学校に漂う、得体の知れない気配。自分と近しい何か。 (なにかが呼んでいる?)  彼女に会ったほうがいい。  夏澄は帰りたがる吉河を黙らせ、ひたすら待ち続けた。ようやく彼女が門のあたりに現れた時には、日がすっかり落ちていたというわけである。 「か、夏澄さーん」  カツカツ、と少女のもとに歩み寄ってしまった夏澄を、吉河が慌てて追っていった。  夏澄は、極上の笑みを浮かべようとし、すぐにそれを引っ込めてしまった。  夏澄と妙子の視線が絡む。妙子は驚いたように目を見開き、夏澄はなぜか眉根を寄せた。 「あなた…」  夏澄がつぶやいた。何かを感じたらしい。そして、妙子の後ろにぼうっと立つ八王子にも気づき、今度は呆れたように口を開けた。 「あなた達…」  妙子は苦虫をかみつぶしたような顔になって、夏澄を見返した。  そんな妙子とぼけっとした八王子を交互に見やると、夏澄はにやっと口角をあげた。 「なかなか面白そうじゃない」  ふーん、と腕を組んだ。  妙子が口を開いた。 「――どなたですか」  夏澄は妙子を見た。 「ああ、ごめんなさい。私、夏澄かれん。ちょっとこの学校で起きた不可思議な出来事について、聞きたいんだけど、いいかしら?」 「…なんのことです?」 「あの化け物のことじゃないの?」  耳打ちしてきた八王子を妙子はキッと睨んだ。空気読みなさいよ、と小声で小突く。状況把握がいまいち遅れている八王子は目を白黒させるだけだった。夏澄がますますにやりとした。 「やっぱりなにか知ってそうね、あなた」  夏澄は妙子から視線をはずさない。妙子もその視線をまっすぐ受け止めていた。 「なんのことですか」 「私の勘が言ってるのよ。そっちの彼も、どうやらなにか知ってそうだし。さすが私」  最後は自分に言いながら、夏澄は八王子にぐいっと顔を寄せた。高いヒールのせいか、あまり身長差を感じない。ふわりと香水の甘い香りがした。八王子は思わずドキリと顔を赤らめた。 「やだ、初々しい反応。お姉さん、いじめたくなっちゃう」  ますます顔を近づけてきた夏澄に、八王子がたじたじとなって一歩後ずさる。ひー、と声なき悲鳴をあげるが、そこは健全な青少年、視線が外せない。 「…バカ王子が」  そんな八王子の様子に、呆れた妙子は小さく毒づいた。 「名前は?」 「え、は…八王子、颯摩」 「八王子くんか。部活は?運動部っぽいわねぇ」 「あ、はい、野球部、です」 「なに正直に答えてんのよ」 「え、だって訊かれるから」  妙子はこめかみを押さえた。八王子は素直すぎる。そしてこの女はどうも苦手だ。そう、恐らく――。  妙子は夏澄の顔を睨むように見た。夏澄は余裕たっぷりに見返す。  バチッ、と火花が散ったんじゃないか、と八王子は思った。二人の剣呑な様子。いったいどうしたというのだろう。夏澄の挙動と妙子の言動に、なにやらビクついてしまう八王子であるが、隣りに立つ妙子を、こっそり盗み見た。  八王子の目元が、わずかに引き締まった。 (妙子、緊張してる?いや、怖がってる?)  でも、なぜ?  妙子がはっと、視線を変えた。妙子のその変化に驚いた八王子が声をかけようとした、その時―。   ☆  ☆  ☆
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