第四章 カノジョの未来、彼女の願い

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 川を大きく波たたせ、山の木々をなぎ倒すかのように揺らした水の結界の爆風は、岸辺の石や砂、妖したちすら吹き飛ばした。  八王子やグラン、夏澄も例外なく飛ばされた。  やがて爆風は静まったが、すぐに動き出す生き物はなく、川の流れる音だけが遠慮がちに静けさに支配された岸辺に響いた。  八王子は、もと居た位置から20~30メートル山の方へ飛ばされ、うつ伏せに倒れていた。  その指がピクリと動いた。わずかに砂利を引っ掻く。 「く・・・」  八王子の体はボロボロだった。爆風に飛ばされたせいだけではない。青年によって最大級の力を放った後なのだ。すべてのエネルギーを使い果たし、体はもう悲鳴を上げることすらできないほど疲労困憊していた。  少し離れたところで倒れている、夏澄とグランも同じ状態だった。二人とも意識は戻っていたようだが、目を開けることもできないほど消耗していた。  八王子は、気力だけで片目を開け、爆風の中心を見ようとした。 「たえ・・・こ」  水蒸気のような、土煙のような靄がまだ漂っていたが、ゆっくりと消えていく。  徐々に浮かび上がるシルエット。 (・・・そん、な)  八王子は驚愕した。  爆風の中心点に立っていたのは、アレだった。体のあちこちから血を流し、辛うじて立っているという様子ではあったが、だが、アレだった。  消えていなかった。  八王子が息を飲んだ気配を察して目を開けた夏澄やグランも、アレが立っているのを目にし、愕然とした。 (なんてこと)  夏澄は身を起こそうとした。が、腕に全く力が入らない。指を動かすのも自分の意志でできているのか、覚束ない。口惜しさに歯ぎしりした。アレが襲ってきても、対抗できないのは明らかだった。 (妙子は?)  アレはじっと立ち尽くしている。その視線は足元だ。  妙子が、仰向けに倒れていた。 「妙っ・・・」  八王子ははじかれたように起き上がったものの、体に激痛が走り、再びその場に倒れ込んでしまった。それでも顔を上げ、痛みに呻きつつ、妙子を見た。  妙子は目を閉じている。わずかに口は開いているが、呼吸をしているのかわからない。胸のあたりから脇腹にかけては、服が真っ赤に染まっていた。  アレが、そんな妙子を見下ろしている。表情なく、ただ見下ろしている。  妙子の瞼がピクリと動いた。そして、自分を見下ろしている気配と影に気づいたのか、うっすらと目を開いた。やがて自分を覗き込むように見つめているのがアレだとわかると、かすかにほほ笑んだ。  "少女"のほうだ。  妙子の中に、再び"少女"が戻っていた。  アレを見て、なにか言おうとして口を動かした。が、声になるほど動かない。少女はゆっくり瞬きをした。  そんな彼女の胸に、滴が落ちた。  アレの両目から落ちたもの。涙。一つ落ちると、また一つ落ちる。ぼたぼたと、堰を切ったように落ち始める。  そんな自分の状況に、アレ自身が戸惑っているようだった。自分の目から溢れる滴を手のひらで受け止め、呆然としている。その間も涙は止まらない。  人型の妖しである。"涙"というもののことは知っている。対峙した人間たちの目から流れていくのを何度も見てきた。恐怖、絶望、諦観、悲観。ただ、どうやって流れるものかは知らなかった。こんな風に、自分の意思とは関係なく流れていくものなのか。どうしたら止まるのか。  感情が、涙とつながっていることを知らない。  アレは縋るように少女を見た。  その少女が虫の息であり、腹から流れ出ている血の匂いにも気づくと、さらに涙が溢れ頬を流れ落ちる。 「ああ・・・ああ・・・」  アレが少女の傍らで、ガクリと膝をついた。  少女が死んでしまう。  自分を見てくれなくなる。  声を聞けなくなる。 「こ、わ、い・・・」  感情の奥のほうが激しく揺れていた。呻いて、暴れている。 「か、な、し、い・・・」  少女が消えてしまう。  恐怖と悲しみ。  初めて触れる感情に、アレは慄いた。  少女の腕が動いた。  溢れ出る涙を拭いもせず少女の顔を見続けるアレのほうへ、少女は片腕をゆっくりと伸ばした。  アレが、伸ばされた手に自分の顔を近づけた。  触れてくれ、と言わんばかりの幼い仕草に、少女の目元がまた柔らかになる。  少女の手がアレの頭に触れた。そうして、優しく、ゆっくり、アレの頭をなで、頬を伝う涙を拭った。  アレはされるがまま、時折小さく呻く。  少女は愛しい子供を見るように、アレを見つめていた。  アレが視線を上げて少女を見た。 「・・・ひとりは、イヤだ」  少女はほほ笑んだ。 「大丈夫」  弱々しい声ではあったが、確信のこもった声音だった。アレの耳に、少女の声が沁み込んでいく。 「大丈夫、明るいところよ」  アレが少女をもう一度見た。 「お前が、いるところ?」 「私もいる、ところ」  少女の指が、アレの頬をなでた。  アレはその指の感触を味わうかのように目を閉じた。流れる涙は、先ほどよりも減っている。  アレの体がぽうっと白く光り始めた。あの日、少女がアレを封印しようとした時のように白く光り出す。  あの日と違うのは、アレが穏やかに受け入れているということ。  少女の言葉を聞いて、安心して身を委ねようとしている。 「明るいところ。お前がいるところ」  目を開いたアレは、子どものような澄んだ瞳をしていた。  少女ははっとした。数多の同類を喰らって強くなった妖しなのに、こんなに素直な表情ができるようになるのか。 (私はどこまで驕った人間だったのだろう・・・)   妖しに同情したくせに、妖しに執着されたら怯え、あげく、危害を加えられる前にと騙すように封印した。あの頃の自分にとって、最善のことをしたと思っていたけれど、本当は何もかも自分勝手に突っ走っただけだ。  しかも、何十年もあとの世代まで巻き込んだ。  こんな自分に、アレは今、素直に従おうとしている。 (私の方が、よっぽど妖しね)  アレの体が白く、淡く光って、どんどん輪郭がぼやけていく。  少女はもう一度、アレの頬に触れた。 「・・・行ってらっしゃい」  アレは軽く首を傾げたようだった。  そしてそのまま、キラキラと光の粒となると、夜空へと昇り、まるで溶けるように消えてしまった。  少女はそれを見届けると、すーっと瞼を閉じた。力尽きたように腕がばたりと投げ出され、動かなくなった。  いつの間にか、横たわる少女のそばに青年が立っていた。  実体はない。半分透けている。  少女が動かなくなったのを確かめると、八王子の方へ顔を向けた。 「くぅ・・・」  八王子は動かなくなった少女を凝視したまま、絶望的な表情を浮かべ、体を起こそうと気力を振り絞っているところだった。  青年がいることに気づくと、彼を見た。  青年は、わずかにほほ笑んだように見えた。  そして、彼もすーっと溶けるように消えてしまった。 「うそ、だろ・・・」  八王子は本能でヤバイと察した。  妙子の気配まで消えようとしている。  存在感が失われていく。  魂というものがあるのなら、それが手の届かないところへ行こうとしてる。 「妙子っっ!!」  疲労も吹っ飛んだ。八王子は横たわる妙子に、転げそうになりながら駆け寄った。 「妙子、妙子」  呼びかけるが反応はない。 「妙子っっっ」  ひたすら呼び続けた。   ☆  ☆  ☆
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