第四章 カノジョの未来、彼女の願い

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 白い世界だ。  真っ白で、上下がわからない。遠近感もつかめない。  そもそも止まっているのか、上っているのか、落ちているのかすらもわからない。 (ここ、知ってる)  にいるのか。  にいるのか。  妙子にはもう、どうでもよいような気分だった。 (疲れた)  自分にできることはもうない。力も使い果たした。  にいるということは、そういうことだ。  どのくらいぼうっとしていただろうか。  水の跳ねる音がして視線をあげると、目の前に人がいた。  カノジョだった。  一瞬、鏡があるのかと思った。顔立ちは似ていないのに、どこか似ている。  妙子が、カノジョとまともに顔を合わせるのは、実はこれが初めてだった。妙子にとってカノジョは、いつか自分を乗っ取る者で、意識を蝕もうとする、そういった存在だ。  カノジョにしてみても、妙子は"器"でしかない。顔や人格は意味のないものであった。  妙子と少女。  彼女とカノジョ。  二人は共生していたが、そのくせ決して、互いに交わろうとは思わない存在だった。  少女は、どこか緊張した面持ちで立っていた。  妙子は不思議そうに少女を見たが、まずは確かめておきたいことを訊いた。 「終わったの?」  少女はしっかりと頷いた。  妙子はようやくほっとできた。先ほどまでの疲れさえ、心地よい疲労感に変わった気がした。 「そう。よかった」 「アレは光りになって消えた。だからきっと大丈夫。次は妖しにはならない。明るいものに、なると思う」 「明るいもの・・・」  妙子にはそれがなんなのかピンとこなかったが、悪いものでないならよしとした。  少女がじっと妙子を見た。  それに気づいて妙子は首を傾げた。そして、ああ、と察した。 「私、やっぱり消えるの?」  少女はきゅっと唇を結んだ。だが、大きく首を振った。 「その必要はもう、ない」 「そうなの?」  訝しがる妙子に、少女は少し意外そうな顔をした。 「そのためにあなたは、私に、強制的に体を明け渡したんじゃない」  妙子は指先を唇に当てた。 「賭けに勝ったってことかしら」 「そうね・・・。でもあなたはまだ体に戻っていない」 「確かに。私の賭けはまだ終わっていない」  二人は視線を交わした。お互いの腹の内を探るような数秒が流れた。  ふいに二人が笑みを浮かべた。互いにくすくすっと笑い出す。 「あなた、とんでもない子だったわ」 「それ、あなたが言う?あなたのほうがとんでもないじゃない。何代も後になってから復活してケリをつけようだなんて、普通考えつかないと思う」 「必死だったのよ」 「わかってる」  妙子は少女に向かって手を伸ばした。少女は少し遠慮がちにその手を取った。  そして二人は、互いに寄りかかるように、あるいは互いを支えるように体を寄せた。  妙子は、少女の過去を否応なく見せられてきた。眠っている時。ぼんやりしていた時。ふと記憶と似た場面に出会った時。彼女の感情すら共有させられてきた。自分が分からなくなるくらい。  妙子は、自分との境界を保つのに神経をすり減らした。満足な睡眠も取れなかった。  それでも。いや、それだからこそ少女に憎まれ口が叩ける。 「水を操る一族って、けっこう猪突猛進よね。私のお母さんも、お祖母ちゃんも、馴れ初めがそんな感じだし」 「猪突猛進・・・。ふふ、確かにそうね」  妙子はまた、誰かがいるのに気が付いて、少女の肩越しに目だけ上げた。少女の肩を軽く叩く。  少女が振り返った。 「・・・あなた」  青年がいた。彼の名を口にした少女の表情を見て、妙子はほほ笑んだ。 「仲直りできたのね」  少女がはにかみながら頷いた。  青年を見た。彼は少女を見て小さく頷いた。少女も頷き返した。  少女は妙子に向き直った。 「妙子。私はひとりであれこれ考えすぎたの。岸辺で一人で生きていかなきゃって、片意地を張りすぎて、内に籠り過ぎたんだと、今ならわかる。だから、だからね、あなたは、そうならないで」 「・・・」 「私のように目を閉じないで。頑なにならないで。選択肢を限定しないで。帰りたいところへ、帰って」  少女の言葉を聞きながら、妙子はあいまいな表情を浮かべた。迷っているような、諦めているような、悲し気な顔。  帰りたいところ。  父と新しい家族を宿す楓さんのところ。  それとも――。  少女は妙子のあやふやな表情に気づきながらも、続けた。 「あなたのおかげで、私はあなたの未来を奪わずに済んだ」 「私の、未来」 「あなたや、あなたの母親が願ったこと」 「お母さん・・・」  少女は、妙子の心に届けと続ける。 「生きるの。あの少年も待ってる」  "あの少年"と言われて、妙子はわずかに眉を寄せ、そして苦笑した。 「どうかな」  少女は妙子の性分をわかっているのだろう。 「大丈夫。少なくとも、あなたは彼に文句を言わせてあげなきゃ。彼だけじゃない、みんなに。そうでしょう」 「怒られに帰るわけね」  妙子は軽く首を傾け、口の端をあげた。  理由ができれば、もう少し頑張れるかもしれない。  自分の運命の理不尽さに抗うために、どんな手を使ってもいいからと、周りの人の気持ちを無視してきた。考えないようにしてきた。八王子、夏澄、グラン。彼らが自分に関わることでケガをし、命の危険に晒すことを承知のうえで、彼らに力を使わせてきた。父、茂にもずっと、自分が消える運命にあることを隠し、嘘をついてきた。楓さんを快く迎えたことも、本当は、自分が消えた後に父をひとりにしないために好都合だ、という打算があった。理沙子や真里にも、本心を隠してきた。彼女たちは自分の体調不良を、本気で心配してくれていたのに。無下にしてきた。 (帰りたいのかな)  妙子は少女を見つめながらも、そんな風に思った。  それに。 「帰る肉体(ばしょ)が、あるかしら」  妙子はポツリとこぼした。  少女と青年が、同時に「大丈夫」と言った。 「私たちと違って、あなたの肉体(からだ)は塵になっていない」 「・・・確かにそうかもね」  妙子は苦笑した。事実なのだろうけれど、少女と青年が言うと、なにかのブラックジョークに聞こえる。  彼らの体がポウッと光り出した。妙子も気づいた。  少女と青年は、妙子を改めて真っ直ぐ見る。  少女がゆっくりと、そして深く頭を下げた。 「ありがとう。そして、私のわがままに巻き込んで、本当にごめんなさい」  青年も妙子に謝った。 「知らなかったとはいえ、ひどいことを言ったし、やった。すまなかった」  青年が少女をちらりと見、それから少女の手を握った。 「だけど、彼女を取り戻せた。ありがとう」  少女と青年がほほ笑みあった。  それを見て、妙子もほほ笑んだ。  カノジョがどれだけ青年を想っていたか、妙子は知っている。青年がどれだけ強い想いでカノジョを探していたかも、知っている。だからこそすれ違った。想いが一度重なったことがあったから、少しずれた時に、そのずれが致命的になることを見落としてしまった。 「仲良くね」  すでに魂だけの存在である二人が、これからどうなるのかはわからない。それでも妙子は、そう思った。  二人は強く頷いた。二人を包む光が強くなった。  輪郭がだいぶぼやけてきたとき、少女がはっとした顔をすると、妙子を呼んだ。 「坊やのこと、お願い。私たちの気配に引っ張られたんだと思うけど、一緒には連れていけな、い・・か・・・ら・・・・・・」  言い切るかどうかで、二人は強い光に包まれてそのまま消えていった。最後の方は途切れてしまった。  それでも妙子には言わんとすることは伝わっていた。 (坊や、か)  楓のお腹の中の子には、あの二人の子どもの魂が宿っている。  そんな気がしてはいたけれど、やっぱりそうだったか。  記憶は引き継がれてしまうのだろうか。なにかのきっかけで思い出してしまうのだろうか。  無事、成長できるだろうか。  妙子は大きく息を吐いた。 「結局、押し付けていくのね」  そうぼやいた割に、妙子の顔はそれを楽しむかのように穏やかだった。  またひとり、白い世界に取り残された。  妙子は目を閉じ上を向いた。  ここからどうやれば肉体に戻れるのか、さっぱりわからなかった。 (さて、どうしたものかな。私は無事に、帰れるかしら)  帰る―――。  私は、帰りたいのだろうか。   ☆  ☆  ☆
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