第四章 カノジョの未来、彼女の願い

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 岸辺で妙子の体はピクリとも動かず横たわっていた。  目は閉じられ、半開きの口からは辛うじて呼吸が感じられるが、胸の上下はほとんどわからない。傷ついた脇腹からは鮮血が流れ、岸辺の砂利をゆっくり赤く染めていた。  八王子は上着を脱ぎ、妙子の脇腹へ押し付けていた。だが、血が止まる気配はない。 「妙子、妙子、妙子、目を開けて、妙子、起きて、目を開けてっ」  必死で呼びかけていた。  妙子を失ってしまうかもしれないという恐怖が、八王子を追い詰めている。 (ダメだ、ダメだ、ダメだ)  八王子は蒼白な妙子を見ていられなくて、ぎゅっと目を閉じた。とたんに、血の匂いを強く感じ、慌てて目を開けた。じんわりと涙が溢れる。  涙を振り払うように頭を振った。 「妙子、ダメだ。こっちに戻って」  一心不乱に呼び続ける。妙子の脇腹にあてている上着が、湿ってきている。 (どうしたらいい?)  八王子は助けを求めて、グランと夏澄のほうを見た。  だが二人とも、体を起こそうとして起こせず、すまなそうな、そして悔しそうな目だけをこちらに向けていた。  夏澄は今にも意識が飛びそうだった。気が付くと目を閉じていて、そのたびになんとか目を開けようと気力を振り絞っているような状態だった。 「夏澄さん・・・」  夏澄の耳に届いたかすかな呼び声は、グランのものだ。グランもかなり消耗していた。 「夏澄さん・・・大丈夫、ですか」  夏澄は心の中で苦笑した。 (あたしのこと、気にかけてる場合じゃないと思うけどね)  妙子のほうがヤバイ。  夏澄は声を出そうとした。だが、それすらも億劫な状態であることに気づいた。声を出すのも案外、体力がいるのだ。 (気合、入れて)  夏澄は大きく息を吸った。 「あたし、は、大丈夫」  ここまでなんとか一気に言った。そして、もう一度大きく息を吸う。 「休んでいれば、回復、する。それより、妙子を・・・」  すぐ近くで砂利を掴むような音がしたが、夏澄はここで力尽きた。気を失うように眠ってしまった。  夏澄のそばまで這って近づいていたグランは、夏澄の声が途切れたので慌てた。そして眠っているだけなのがわかると、ほっとした。 (ギリギリまで妙子さんの心配をして・・・。頭が下がります)  グランは妙子と八王子のほうへ顔を向けようとした。  と、はじかれたように森を振り返るや、険しい視線を送った。  八王子も一瞬にして緊張を走らせ、森を見た。  音がしたのだ。小枝が折れるような乾いた音。 「妖し?!」  この状況で妖しが現れたら、八王子たちになす術はない。夏澄は気絶状態で、青年がいなくなった八王子は風の力を上手に使いこなせるかは心許ない。グランですら、枝葉の結界を張るには気力体力ともに限界に達している。  八王子は妙子をちらりと見た。ギリッと奥歯をかむ。 (妙子は守る)  音のした方を睨みつつ、八王子は両手を妙子の両脇に置き、覆いかぶさるような体勢をとった。  これ以上、妙子は傷つけさせない。  グランもとっさに体を起こし、森から夏澄を隠すような位置に移動した。  森の中で、何かが動く気配をはっきりと感じ取っていた。  グランは森へ意識を集中しようとしたが、疲れのせいでうまくいかない。眉をひそめた。 (なにか、違う?)  森へ意識を向けていたグランだったが、次の瞬間、驚きで目を見開いた。 「まさか」  暗い木々を抜けて、ひょっこりと顔を出したのはまだ幼い少年。  八王子もその少年を見て、さっきまでの警戒心はどこへやら、目を丸くした。 「あの子はたしか双子の・・・」  緑郎(ろくろう)だった。夏に一緒に遊んだ、妙子の従弟のひとりだ。  そして彼の後ろから、さらに水沢の男たちが5人ほど現れた。男たちも、八王子やグランに負けず劣らず、狐につままれたような顔をしているのは気になったが、とりあえず妖しの類いではないことにほっとした。  緑郎がグランと、彼の傍らに横たわる夏澄に気づいた。それから、さらに川のほうに視線を向け、八王子と妙子も見つけると、連れてきた男たちに声をかけた。 「おじさんたち、こっち。早く」 「お、おう」  キョロキョロしていた男たちは、緑郎の声に我に返るや、岸辺の八王子達に気づいて急いで駆け寄った。男たちは救急道具や無線を持っていた。明らかに、怪我人がいるとわかっていたことになる。  彼らは、二手に分かれ、一方は八王子と妙子のほうへ、もう一方はグランと夏澄に近づいた。  八王子が事態が飲み込めず呆けているそばで、妙子の怪我の状態を見るや険しい顔で無線で連絡を始める。どうやら救急車も呼んであるらしい。  無線で話をしていた男が、近くにいた緑郎に言った。 「緑郎くん。急がないと、妙子さんは危ない」 「うん」  緑郎は妙子の様子にかすかな動揺を見せていたが、きゅっと唇を引き結び、男たちが応急処置をほどこすのを確認すると、くるりと向きを変え、今度はグランと夏澄のもとへ駆け寄った。 「こっちの人は大丈夫そうだ。担いで降りることにはなるが」  夏澄とグランを診ていた男が、緑郎に言った。 「ん、わかった。今ならお祖母ちゃんたちが、うまく山と麓とをつないでくれるから、いつもより早く下りられると思う」 「お、おお、そうか」  緑郎の言葉に、男のほうが動揺したようだった。  というのも、緑郎の祖母であり、郷の巫女である貴和子の命で、男たちは集められ、そして緑郎を道案内に夜の山へ入った。朝から続く山の異変が気になりはしたが、日ごろから貴和子に一目置いている郷の人間にとって、貴和子が行けというなら大丈夫なのだろう、と無条件に受け入れてしまう。そうやって山に入った。案内役の緑郎は山に慣れていないはずなのに、スイスイと進んでいく。気が付けばこの岸辺にたどり着いていた。時間にして30分もかかっていない。郷との位置関係から考えると、山一つ越えたはずなのに、早すぎる到着だった。そして今の緑郎の発言。  貴和子や、貴和子の一族への畏怖が高まってしまったのも仕方のないことだった。  緑郎が大きな声で呼びかけた。 「準備できたらすぐ出ます。山に入ったら、さっきのように、絶対俺から離れないでください」 (たぶん、帰ってこれなくなる)  緑郎自身、山道を迷いなく進めたこと、すぐに到着してしまったことに驚いていた。祖母の力なのかもしれないが、それだけではない感じもしている。山仕事をずっとしてきた祖父は、“山は異界”と言っていた。その一歩を踏み間違えると、別の空間に行ってしまうことがある、と。 (今は、その山の力を、お祖母ちゃんたちが借りているのかもしれない)  郷を覆うベールが大きく揺れている。  緑郎は胸の前でぎゅっと拳を握った。双子の片割れの霖太(りんた)が、隣にいないのが身に沁みた。彼の思いっきりのよさが恋しい。  緑郎は目を閉じ、深呼吸した。 (大丈夫。自分の感覚で進めばいい。お祖母ちゃんの言葉通りにすればいい)  まずは自分を信じる。妙子お姉ちゃんを助ける。  緑郎は、森へ向かって歩き出した。  グランが支えられるように立ち上がり、夏澄は簡易担架に乗せられた。妙子も慎重に担架に乗せられ、その様子を食い入るように見ていた八王子は、運び出される妙子につられるように立ち上がった。  妙子が連れていかれる・・・。  八王子はなぜか不安にかられ、妙子に向かって手を伸ばした。 ――ちょっと、手伝って。 「え?」  八王子の耳に、女の人の声が聞こえた。  担架の妙子の腕に、八王子の手が軽く触れた。だが、そのことに八王子が気づくことはなかった。  八王子は、担架の横で崩れるように気を失った。  郷の男たちが慌てて呼びかけたが、目を開ける気配はなかった。   ☆  ☆  ☆
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