第四章 カノジョの未来、彼女の願い

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 白い世界を歩いていく。上も下も、右も左も、どこもかしこも白い。  この世界で、妙子はぼんやりと何も考えずに、ただ足だけを動かしていた。  たぶん、歩いている。  方向感覚はとっくに狂っている。足を動かしているから、歩いているつもりだ。けれど、実はルームランナーのように、同じところで足を動かしているだけかもしれない。  そもそも、当てがあって歩いているわけではないのだ。  カノジョと青年が消え、帰りたいところへ帰ってと言われたけれど、どこへどうやって帰ればいいのか、本当にわからない。 (でも、なんだか穏やか)  いつも自分自身であるために気を張り、カノジョの存在に怯え、来るべき"時"をどう戦い生き残るかを考えていた。  それが、終わった。 (このままで、私はもう十分な気がする)  カノジョの言った"私の未来"。  妙子は口元を緩めた。 「全然、考えてなかったな」  小さくつぶやいた。  ふと、耳になにかの音が聞こえた気がして、耳を澄ませた。 (せせらぎ?)  水が山肌を縫っていくようなわずかな音。地面をひっそりと流れていき、そして少しずつ集まり川となる、その始まりの音。 (に、川があるというの?)  妙子は、せせらぎが聞こえてくる方向を見極めると、ゆっくりとそちらへ向かった。水の音は、安心するのだ。  そうして妙子は、細く小さな、小川のように水が流れている場所へとたどり着いた。  そして、小川の向こうに、こちらを正面から見ている人がいることにも気づいた。  女の人。  ほほ笑んでいる。  妙子は、その人が誰であるかを、記憶の中からすぐに見つけ出していた。  しかし信じがたく、その人を怪訝な顔で眺めてしまった。  小川を挟んで、すぐ近くまで来た。  その人は、妙子の訝しがる様子を気にする様子はなかった。  妙子は、その人の名を呼んだ。 「・・・お母さん?」  その人は笑みを大きくした。 「妙子」  妙子は体が震えた気がした。  自分の名を呼ぶ声。その響き。  覚えていないと思っていたけれど、記憶の奥深くにはしっかりと刻み込まれていたらしい。  与えられる安心感。  母、るいの声。  るいは、「ああ」と言うと、小川をひょいと飛び越え、妙子の前に立った。ふわりと広がった長い髪が、静かに肩に流れた。  そして、手を伸ばせば妙子に触れられる距離までくると、目を細めてさらに愛おしそうに眺めてきた。  妙子はじっとしていた。  るいは、ゆっくりとした動作で両手を伸ばすと、妙子の頬に軽く触れた。そのまま肩から腕に沿って撫でていき、そっと手を取った。自分の両手で、妙子の手を包むようにくるむ。  るいの手のぬくもりが、妙子に伝わってくる。 「大きくなって・・・」  るいはつぶやいた。  そして目を上げ、妙子を見ると、両腕を広げて抱きしめた。ぎゅうっと包み込む。  妙子は、自分が幼子に戻ったような感覚に陥った。るいのぬくもりが、さらに記憶を呼び覚ます。ぬくもりだけじゃない。匂いに、懐かしさがこみ上げる。 (知っている。覚えていた・・・)  母についての記憶はないと思っていたのに、こんなにも残っていた。  妙子は目を閉じ、るいから与えられる安心感に身を委ねた。強張っていた心までほぐされていく心地よさ。力が抜けていく。 「妙子」  呼ばれて妙子は目を開けた。るいが、労わるような眼差しで妙子を見た。 「よく、がんばった。背負わされたことから逃げず、本当によく耐えた」  るいは妙子の頭を優しく撫でる。妙子はそれを、ちょっとむずがゆいような気分で受けた。 「お母さんの、残してくれたノートがあった」 「役に立ったのならよかった。あれくらいしか、先に逝くしかない私にはできなくて、忍びなかったの」 「いろいろ助けられた」 「そう。なら残してよかった。ひとりで立ち向かわせなきゃいけないから、本当、よかった。少しでも、私の知識が役に立ったなら、よかった」 「うん」  るいと妙子は、小川のほとりに腰かけた。  妙子は、白い世界がほんのり温かくなったように思えた。自分の心の在りようが反映されたのだろうか。悪くない。 「妙子、ありがとう。私を解放してくれて」  るいは妙子の肩を抱いて、優しく言った。 「これでもう、私のような子は現れない?」 「ええ。私のような想いをする人も、現れない」 「終わらせられた」 「終わらせた。あなたが止めた」  るいの言葉に、妙子は軽く首を左右に振った。 「私は結局なにもしていない。周りが助けてくれて、お膳立てしてくれただけ」  るいは妙子の頭を抱いた。 「いい人たちだったわね」 「ええ、本当に」  妙子は静かに頷いた。少し悲しい響きが交ざったような気がした。  るいには、妙子が何を思っているのかわかっているのだろう。特に何も言わず、妙子の頭を撫で続けた。  妙子はるいの手の動きを感じながら、そのぬくもりに身を委ねた。  久しく忘れていた平穏さだった。 「妙子」 「?」  るいが妙子の顔を覗き込んできた。なんだろう、と思って妙子は首を傾げた。 「こんなに大きくなって、いい子になって・・・」  るいの顔が、悲しさと嬉しさが交ざりあった表情に変わった。 「あぁー育てたかったー」 「・・・はい?」   ☆  ☆  ☆
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