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白い世界を歩いていく。上も下も、右も左も、どこもかしこも白い。
この世界で、妙子はぼんやりと何も考えずに、ただ足だけを動かしていた。
たぶん、歩いている。
方向感覚はとっくに狂っている。足を動かしているから、歩いているつもりだ。けれど、実はルームランナーのように、同じところで足を動かしているだけかもしれない。
そもそも、当てがあって歩いているわけではないのだ。
カノジョと青年が消え、帰りたいところへ帰ってと言われたけれど、どこへどうやって帰ればいいのか、本当にわからない。
(でも、なんだか穏やか)
いつも自分自身であるために気を張り、カノジョの存在に怯え、来るべき"時"をどう戦い生き残るかを考えていた。
それが、終わった。
(このままで、私はもう十分な気がする)
カノジョの言った"私の未来"。
妙子は口元を緩めた。
「全然、考えてなかったな」
小さくつぶやいた。
ふと、耳になにかの音が聞こえた気がして、耳を澄ませた。
(せせらぎ?)
水が山肌を縫っていくようなわずかな音。地面をひっそりと流れていき、そして少しずつ集まり川となる、その始まりの音。
(ここに、川があるというの?)
妙子は、せせらぎが聞こえてくる方向を見極めると、ゆっくりとそちらへ向かった。水の音は、安心するのだ。
そうして妙子は、細く小さな、小川のように水が流れている場所へとたどり着いた。
そして、小川の向こうに、こちらを正面から見ている人がいることにも気づいた。
女の人。
ほほ笑んでいる。
妙子は、その人が誰であるかを、記憶の中からすぐに見つけ出していた。
しかし信じがたく、その人を怪訝な顔で眺めてしまった。
小川を挟んで、すぐ近くまで来た。
その人は、妙子の訝しがる様子を気にする様子はなかった。
妙子は、その人の名を呼んだ。
「・・・お母さん?」
その人は笑みを大きくした。
「妙子」
妙子は体が震えた気がした。
自分の名を呼ぶ声。その響き。
覚えていないと思っていたけれど、記憶の奥深くにはしっかりと刻み込まれていたらしい。
与えられる安心感。
母、るいの声。
るいは、「ああ」と言うと、小川をひょいと飛び越え、妙子の前に立った。ふわりと広がった長い髪が、静かに肩に流れた。
そして、手を伸ばせば妙子に触れられる距離までくると、目を細めてさらに愛おしそうに眺めてきた。
妙子はじっとしていた。
るいは、ゆっくりとした動作で両手を伸ばすと、妙子の頬に軽く触れた。そのまま肩から腕に沿って撫でていき、そっと手を取った。自分の両手で、妙子の手を包むようにくるむ。
るいの手のぬくもりが、妙子に伝わってくる。
「大きくなって・・・」
るいはつぶやいた。
そして目を上げ、妙子を見ると、両腕を広げて抱きしめた。ぎゅうっと包み込む。
妙子は、自分が幼子に戻ったような感覚に陥った。るいのぬくもりが、さらに記憶を呼び覚ます。ぬくもりだけじゃない。匂いに、懐かしさがこみ上げる。
(知っている。覚えていた・・・)
母についての記憶はないと思っていたのに、こんなにも残っていた。
妙子は目を閉じ、るいから与えられる安心感に身を委ねた。強張っていた心までほぐされていく心地よさ。力が抜けていく。
「妙子」
呼ばれて妙子は目を開けた。るいが、労わるような眼差しで妙子を見た。
「よく、がんばった。背負わされたことから逃げず、本当によく耐えた」
るいは妙子の頭を優しく撫でる。妙子はそれを、ちょっとむずがゆいような気分で受けた。
「お母さんの、残してくれたノートがあった」
「役に立ったのならよかった。あれくらいしか、先に逝くしかない私にはできなくて、忍びなかったの」
「いろいろ助けられた」
「そう。なら残してよかった。ひとりで立ち向かわせなきゃいけないから、本当、よかった。少しでも、私の知識が役に立ったなら、よかった」
「うん」
るいと妙子は、小川のほとりに腰かけた。
妙子は、白い世界がほんのり温かくなったように思えた。自分の心の在りようが反映されたのだろうか。悪くない。
「妙子、ありがとう。私たちを解放してくれて」
るいは妙子の肩を抱いて、優しく言った。
「これでもう、私のような子は現れない?」
「ええ。私たちのような想いをする人も、現れない」
「終わらせられた」
「終わらせた。あなたが止めた」
るいの言葉に、妙子は軽く首を左右に振った。
「私は結局なにもしていない。周りが助けてくれて、お膳立てしてくれただけ」
るいは妙子の頭を抱いた。
「いい人たちだったわね」
「ええ、本当に」
妙子は静かに頷いた。少し悲しい響きが交ざったような気がした。
るいには、妙子が何を思っているのかわかっているのだろう。特に何も言わず、妙子の頭を撫で続けた。
妙子はるいの手の動きを感じながら、そのぬくもりに身を委ねた。
久しく忘れていた平穏さだった。
「妙子」
「?」
るいが妙子の顔を覗き込んできた。なんだろう、と思って妙子は首を傾げた。
「こんなに大きくなって、いい子になって・・・」
るいの顔が、悲しさと嬉しさが交ざりあった表情に変わった。
「あぁー育てたかったー」
「・・・はい?」
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