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「ダメッ!!」
小川の反対側から大きな声が飛んできたのだ。
驚いて、声のしたほうを見た。そして、さらに妙子は驚いた。
「は、八王子?!」
「・・・」
妙子の隣りで、るいも八王子をしっかり見ていた。
八王子は、なぜか仁王立ちでこちらを見ていた。泣きそうなのに、怒っているような、それでいて嬉しそうなくせに焦っている・・・と複雑極まりない表情を浮かべている。
ただ、しっかりと妙子を見ていた。
「なんで、八王子が・・・」
妙子は心底驚いていた。
八王子は再び、「絶対ダメ」と大声で言うと、勢いよく小川を飛び越えて、ツカツカと妙子たちの前までやって来た。
妙子とるいは座ったまま、八王子を見上げた。
八王子は妙子だけを見ていた。
「妙子、帰ろう」
八王子は妙子の腕を掴むと、立ち上がらせようと引っ張った。
勢いに飲まれていた妙子は、我に返った。
「ちょ、と、八王子、待って」
妙子は思わずるいを見た。
るいは無表情になって、八王子を見ていた。だが八王子が妙子を乱暴に扱ったところで、スッと立った。妙子と八王子の間に割って入った。
「・・・強引なのは、よくないわ」
静かだが、底に凄みのある声音だった。
八王子は、珍しくかっとなったらしい。キッと睨むようにるいを見た。そこで初めて、八王子はるいの顔をまともに見たのだろう。
口をぽかんと開けて、固まった。
「え、妙子?妙子が二人?」
驚きと戸惑いを隠すことなく、妙子とるいの二人を何度も交互に見比べる。
「えっと、妙子、この人いったい・・・」
妙子は軽くこめかみを押さえ、脱力した。相変わらずの八王子だ。マイペースというか、視野が狭いというか、鈍感というか、なんというか。
大きく息を吐いた。
「私の母よ」
「え!?死んだって言ってなかった?」
「そうよ」
「えぇーどういうこと?」
心から驚く八王子に、妙子はもう一度、今度は強くこめかみを押さえた。
そんな妙子に代わり、るいが口を開いた。
「あなた、なあに?」
"誰"と言わないのは意図的か。
「え、あ、俺は・・・」
八王子は言い淀んだ。自分は何者か。妙子にとってなんなのか。同級生としか言えない。
るいのそこはかとない威圧感に押されそうになった。が、妙子を視界の端に捕らえたことで踏ん張った。
ぐいっとるいを見返した。
「妙子からしたら、ただの友達かもしれないけど、今はそんなことどうでもよくて、俺は妙子を連れて帰る」
「どうして?」
「どうって・・・俺が、俺が妙子がいないの、嫌だから」
「妙子は望んでいなくても?」
るいが畳みかける。八王子は負けじと言い返した。
「妙子はっ、もっとみんなと生きるべきだっ」
八王子はそう言い切ると、妙子を見た。
妙子は、八王子の言葉を聞いて無表情になっていた。何か、引っかかった。
(ああ、そうか)
八王子は単純で鈍感だ。でも、何も気づいていないわけじゃない。自分の中に言語化して認識されていないだけで、感じ取ってはいる。単純ゆえに、その感覚はとても素直だ。
妙子はゆっくりと八王子を見た。
(私、みんなと生きてるように見えていなかった?)
八王子はもどかしそうにしている。
「俺は、まだ妙子と一緒にいたい。妙子、帰ろうよ」
八王子の言葉は、妙子をすり抜けていく。妙子は妙子で、そんな自分の感覚に戸惑った。
(一緒にいて、どうなる?)
そんな風に思う自分が、確実にいた。いや、違う。
妙子は気づいた。
(私、考えたことがなかったんだ。現実として、想像したことがなかったんだ)
るいはただじっと、黙り込む妙子を見守る。
妙子は自分の心を確認していく。
(大人になった自分。お父さんと楓さんと、生まれてくるきょうだいと、一緒に暮らす自分。イメージができない。いつだってそれは、スクリーンに映る別世界。私がその中にいなかった。大学に行くことも、そう、高校を卒業することも、どこか他所の話だったんだ)
妙子は、うっすらと笑みを浮かべていた。
(私、自分はもういないと思ってたから・・・)
生き延びると言いながら、いなくなる前提で物事を考えていたことに、思い至ったのだ。呆れを通り越し、滑稽だと思った。
るいが動いた。おもむろに、妙子の両頬を両手で包んだ。
「妙子」
優しく呼ぶ声に、妙子は泣きそうになった。
「お母さん、私・・・」
「手段が目的ってところかしら」
「・・・」
「いいのよ、それはそれで」
「でも」
「いいの。私が許す。というか、そうだろうなーって思って、彼を呼んだの」
「え」
るいは八王子を振り返った。にっこりと笑う。
「"手伝って"」
八王子が「あっ」と何かに気づいた顔をした。
「あの声って」
岸辺で妙子が運ばれようとしたときに、耳に聞こえてきた声。
「あなただった?!」
妙子には話が見えない。
ふふふっとるいは笑っている。
「私としては、妙子とここに一緒にいるのも悪くないと、思ってはいるの」
八王子が「え゛」と渋い顔をした。
るいは妙子の頬を撫でた。
「あなたはずっと耐えてきて、ひとりで闘ってきて、弱音もほとんど吐かずにここまできたんだもの。ゆっくり休ませてもいいんじゃないかなって。がんばってきたんだもの」
「・・・」
妙子は今までのことを思い出し、きゅっと口を結んだ。幼いころから、妙な影や気配に脅かされ、恐い目にたくさん遭ってきた。ここ1年はさらにひどく、怪我をして傷つくことも多かった。
るいは静かに続けた。
「でもね、私って勝手なの」
るいは妙子の頬を手で包み、改めて真っ直ぐ見る。
「あなたをここに引き留めたら、茂さんは絶対に悲しむ」
「・・・」
「それはダメなの。私が茂さんをまた悲しませることは、できないの」
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