第四章 カノジョの未来、彼女の願い

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 茂は頭を抱えて、病室に備え付けの丸椅子に座っていた。  目の前のベッドには、少し眉を寄せて眠る妙子がいる。  酸素マスクと心拍数の計測機器の音が、やけに大きく聞こえてくる。  病室のこんな光景は、嫌でもるいを亡くしたときを思い出させる。  楓には申し訳ないが、とても一緒にはいられなかった。先妻を思い出し気持ちが持っていかれている姿など、見せてはいけない。頭でわかっていても、心は取り繕えなかった。  楓を傷つけているだろう。  それでも今は、無理だ。  妙子とるいが重なる。  恐い。  恐いよ、るい。また失うのか? 「妙子・・・起きてくれ」  絞り出すような声になる。ようやく絞り出した声を、病室の闇が押しつぶしていく。  茂は視線をあげ、妙子がまだちゃんと呼吸をしていることを確かめた。  管を通された細い腕が、布団の上でやけに白く浮かんで見える。  この子の腕は、こんなに細かっただろうか。  自分がここ何年も、妙子をちゃんと見ていなかった気がして、胸が苦しくなる。  妙子が再び姿を消して、八王子やグラン、夏澄も連絡がつかなくなって、何かが起きているのだとは思った。  。  が来たのだと、妙に腑に落ちそうになった。そんな自分に戸惑った。そして、深夜遅く、病院から緊急連絡が入って、妙子が重体だと知らされたとき、なぜか驚いた。  妙子が、まだ。  始発と同時に病院に向かい、その後はよく覚えていない。  病院はるいの実家がある地域で、妙子の祖母・キワ子や従姉の泉美、るいの親友だったキヨ子たちが、出たり入ったりしていたような気はする。いろいろと奇妙なことを聞かされた気もする。  だがそんなことより、妙子がまだ生きている、ということで胸がいっぱいで、他はどうでもよかった。  生きている。  けれど、峠は今夜。 (せっかく生き延びたのに。を乗り越えたのに)  茂は無意識に手を伸ばし、妙子の指先に触れた。この指が、まだとても小さく短かったころが思い出される。指を弄ぶとぎゅっと握り返してきた。その力強さに驚きと愛しさを深めた日々。この世に生まれ出て、ただただ生きている姿。キラキラと笑う顔。 「行かないでくれ。るい、妙子を追い返してくれ」  人が聞いたら、気が触れたのかと思えるだろう。けれど、茂にはこれ以上ないほど真剣な願いだった。  妙子の指が動いた気がして、茂ははっと顔を上げた。 「妙子?」  茂は呼びかけた。 「妙子」  もう一度。  茂の指に、妙子の指が触れた。触れたものを握ろうとするような小さな動きだったが、確かに妙子の指が動いた。  茂は我を忘れて妙子の手を握った。  その手が弱々しい力で握り返されるのを感じながら、茂は立ち上がり、妙子の顔を見た。 「妙子」  妙子のまぶたがピクリと動く。  苦し気に少し眉を寄せた。  口が薄く開いた。  ゆっくりと、目が開いた。 「妙子」  茂は妙子の顔を覗き込んだ。  本当に起きたのか。  また目を閉じてしまわないか。 ――に留めなければ。  妙子の瞳がゆっくりと動き、茂を捉えた。  自分がどんな表情で妙子を見つめているのか、まったくわからない。睨みつけているようにも思う。もちろん妙子に、ではない。妙子に絡みつく、運命に、だ。  追い払うため。  これ以上、好きにはさせないため。  妙子は口を動かした。何かを言おうとしている。酸素マスクが邪魔で声が聞こえない。 「なんだ?」  茂はためらわずに酸素マスクをはずしてやった。本当はよくないのだろうが、そんなことにかまって、大事な言葉を聞き逃すわけにはいかない。  妙子は、再び目を閉じてしまいそうにしばたたかせながらも、なんとか茂を見ている。 「おと・・・さん・・・」 「ああ、そうだ。そうだ、妙子」 「おかあ、さ・・・ん、に、会った」  茂は目を見張った。  るいに会った?なにを言っている?  戸惑う茂に構わず、妙子はひと呼吸おくと、再び口を開いた。  茂は瞬きすら忘れた。  妙子の口から伝えられる言葉は、茂に走馬灯以上の奔流を与えた。 「まだ、足りない。  私の幸せには、全然足りてない。  もっと見せて、あなたの、幸せ。」  妙子は、涙を見せる茂に、小さくほほ笑んだ。それは、るいの笑みによく似ていた。 「伝言・・・伝えたよ」  茂は何度も頷いた。  当時まだ3歳だった妙子が知るはずもない、今際の際のるいと茂の二人だけの約束。自分よりも幸せになれと言った、るい。 「ああ、わかった、わかった、ありがとう」 「もう少し・・・寝る・・・起きたら、また・・・話す、から・・・」 「ああ。そうだね、もう少し眠るといい。ここで待ってるよ」  妙子は再びほほ笑むと、すーっと眠りに落ちた。今度は穏やかな寝顔だった。  茂は、妙子の静かな寝息が聞こえ始めたのを確認すると、堪え切れず顔を覆い声を殺して泣いた。 「君には本当に、いつも助けられてばかりだ、るい。本当に、ありがとう」  一緒にいられた時間は短かったのに、君は、君にとってその時間がどんなに幸せなものだったのか、こうしていつも伝えてくれるんだね。  どんなに幸せだと思っていても、君の幸せはもっともっと上にある。  私に、もっと幸せを求めろと、けしかける。  本当に君には頭が上がらない。  君の幸せに追いつけるよう、もっと一生懸命に生きるよ。  妙子と、そして新しい家族とともに。  病室に、ふわりと温かな風が流れた気配がした。  その風はドアの隙間から廊下に出て、長椅子に座る楓と八王子のそばを通り過ぎていった。  楓はふいに立ち上がると、病室のドアを開けた。八王子も立ち上がった。  しばらくして、医師がやって来て、「もう大丈夫」と告げて去っていった。   ☆  ☆  ☆
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