終章

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 レースのカーテンが、外からの強い日差しをやわらかな光に変えながら、エアコンの風でしずかに揺れている。その前に寝転ぶのは、小さなタオルケットを敷き布団代わりにした、小さな命。日野原家の新しい家族。楓が産んだ赤ん坊。  八王子は名実ともに"叔父さん"になった。  赤ん坊の名前は「海人(かいと)」。茂が意識したかどうかは不明だが、水にまつわる名前が付いた。元気な男の子で、生まれてまだ2か月ほどだが、よく飲み、よく眠る。  そして。  眠る赤ん坊の傍らで、一緒に眠っている人がいる。  八王子の顔が、いっそう和らいだ。  妙子だ。赤ん坊の方を向いて横になり、穏やかに寝ていた。  八王子が、二人の姿を入り口で突っ立ったまま見つめていると、楓が麦茶の入ったグラスを差し出した。 「そろそろ起きると思うけど、静かにね」 「ん」  我に返って頷くと、キッチン側のテーブルの椅子に腰を下ろした。麦茶を飲みながら、改めて窓辺で眠る二人を見る。眠る二人の背後に、岸辺が見えた、気がした。  同時に、楓が先日、苦笑していたのを思い出す。海人は、妙子が抱く方が泣き止むのが早いのだそうだ。「そうなの?」ととぼけてみたものの、思うところがないわけではない。  妙子と海人。少女と少女の坊や。  なにかしらの繋がりがある、と考えても可笑しくはないだろう。  ただ、それを素直に口にするほどの短絡さは、さすがの八王子にももうない。 「颯ちゃん、私もちょっと寝てきていい?やっぱりまだ本調子じゃないのよね」  楓の出産は、初産にしてはスムーズなほうだったらしい。産後の回復も想像していたより早く、旦那である茂の方がびっくりしているくらいだ。まあ、茂が知っているのは、体の弱かった妙子の母・るいの場合なので、比較基準が少々ズレているかもしれない。  八王子は快く頷いた。 「俺は構わないよ」 「ありがとう。海人がミルク欲しがったら、冷凍したのがあるからって、妙子ちゃんに伝えてね」 「わかった」 「助かるー」  心底ありがたそうに、楓は言ってリビングを出ていった。子どもを産んでから、楓の顔はますます充実しているのが伝わってくるような、穏やかさに満ちている。弟としては、姉が幸せそうで嬉しい。  八王子は再び妙子たちを見た。まだ起きる気配はない。  そっと立ち上がり、顔がもっとよく見える位置まで移動した。  妙子が目を閉じているのを見ると、どうしても、息をしているのか確かめたくなってしまう。あの岸辺で、血だまりの中に横たわっていた妙子の姿を思い出し、不安になるのだ。  あんな思いは、二度としたくない。  妙子の顔を覗き込み、静かな寝息を聞いてようやく安心した。  妙子はあれ以来、よく眠るようになった。  まるで、今まで眠れていなかったのを取り戻すかのようによく眠る。長く眠る。  でも、と思う。 (穏やかな顔なんだよね)  それが、八王子には嬉しかった。  それまでの、八王子のそばで寝落ちしていた頃の妙子の寝顔は、眉根を寄せた苦しそうなものだった。ただ目を閉じているだけのようにも見えた。だから、穏やかな寝顔はほっとする。  妙子の中に、あの少女はもういないのだ。  妙子は今、幸せだろうか。
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