第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

 部活動にはげむ声が響く。 「八王子、行くぞ」 「よしこーい」  カキーン、と乾いた音が響く。高く打ち上げられた野球ボールの軌跡を追って、八王子と呼ばれた青年は、ザッと走る。 「オーライ、オーライ…」  バシッといい音をさせてボールを取った。パッと、慣れた動作で一塁に投げる。ナイスボール、の声を受けながら、八王子はゆっくりと元の位置に戻った。 「よし、次」  先ほどボールを打った部員が、別の部員を指した。  八王子は野球帽のつばを少し上げ、隣りで走るサッカー部をなんとはなしに見た。見慣れぬ顔が数名混ざっている。練習着がジャージである。顔付きも幼い。新入生だな、と思った。  高校2年の春。  八王子は視線を戻した。今年はなんとかレギュラーに入りたい。基礎体力作りの1年間は終わったのだ。 「やっるぞーぉ!」  訳もなく両手を広げ、八王子は叫んだ。 「はいはい、野球バカよ。張り切りすぎてコケんなよ」  すぐそばにいた同学年の部員が、苦笑交じりに声をかけた。八王子はグローブにばしばしっと右手をたたきながら、おう、と元気よく笑った。  この笑顔がかわいい、と一部の女子に受けていることを本人は知らない。八王子はまだまだ、色恋よりも野球なのである。 「こらそこ、よそ見してんな!」 「はいっ」 「すみません」  先輩部員にげきを飛ばされ、二人は背筋を伸ばした。  ボールがまた高く打ち上げられた。八王子は、春の薄い青空へ吸い込まれる白球を、弾むように追いかけた。  そのボールの軌跡を、じっと見ている者が他にもいた。  校庭に面した図書室の窓。片手に本を開いたまま、西日に目を細めて立つ少女。髪をひとつに編み、一方の肩に流している。  眼鏡の奥の瞳は、放物線をたどり、野球部員が取り損ねるところまで追うと、再び手元の本へと戻っていった。  広い図書室の、一番奥のコーナーに、少女はひっそりと居た。  ふいに、図書室がある建物の、すぐそばにある木がざわりと揺れた。少女は顔を上げ、わずかに眉をひそめた。  ―何カガ、入ッテキタ。  木に一番近い窓が少し開いている。そこから、小さな黒い影が飛び込んできたような気がしたのだ。虫の類いではない。  少女は本を閉じ、棚に戻した。  本棚と本棚の間の奥の、漆黒の影に何かが潜む気配がする。 (先輩の言うとおり、あまり遅くまでいるのは控えよう)  少女は向きを変えると、名残惜しそうに書棚を見つつ、図書室の出口へと去っていった。   ☆  ☆  ☆ 「1年生、どれくらい入るかなあ」 「3組のなんとかって奴、中学ですごかったらしいぜ」 「入るかな」 「勧誘行くか?」  野球部員たちは部室で着替えながら、現在の最大の関心事について話していた。ゴールデンウィークも間近の4月末、新入生の入部活動も本格的になっている。なるべく多くの部員を集めたいのは、どの部でも同じだ。野球部だって例外ではない。県大会出場、というやや消極的な目標を掲げつつも、強力な戦力を求めている。マネージャーや部長は、今年は見学希望が少ないと焦ってもいた。  だがしかし、部員は皆、青春真っ盛りの男子高校生なのである。 「かわいい女子マネージャー、入んないかなあ」 「今年、かわいいのいたっけ?」 「じゃじゃーん」  ひとりが写真をトランプのように広げた。 「かわいい新入生女子フォト、入手!」  おおー、と部室にどよめきが起こるや、見せろ、と大騒ぎになった。  そんな中、八王子はひとり戸口近くのパイプ椅子に腰掛け、ボールを弄んでいた。 「もうちょっと投げたかったなー」  そのボヤキを聞きつけた3年生が、がしっと八王子の首に腕を回した。 「おっ前なあ、野球ばっかしてると青春逃すぞぉ。ほれ、八王子も見てみろ。今年のいちおし女子だ」  ミディアムヘアで目のパッチリした女生徒が写っていた。隠し撮りなので、こちらを見つめ返しはしない。  それにしても、どこにでも、世間の噂に敏い奴はいるのである。このように写真まで入手し、惜しみなく皆に情報提供するのだから、いっそ感心というものだ。  八王子はしぶしぶながら、他の写真にも手を伸ばしてみた。正直、まだ女子に興味はなかった。  かわいいな、と思ったりする子もいるが、付き合うとか、好きとかになると、ピンとこない。デートに行くより野球がしたい、と思ってしまう。告白もされたことはあるが、あたふたしてるうちに、相手のほうが諦めて去っていった。歳の離れた姉には、小学生か、と呆れられた。その姉は、どうやら彼氏と結婚を決めたらしい。 「世の中、かわいい子が多いなあ」  何枚か手にした写真をひとしきり眺め、八王子は思ったままを口にしていた。 「八王子~、お前はもう少し周りを見たほうがいいぞ~」 「先輩はどの子がタイプっすか?」 「俺、この子」 「へえ」 「オレはこっちの女子が好き。なんかツンデレっぽくね?」  妄想女子マネージャー選びが、いつの間にやら妄想彼女選びへと変わっていく。  ひとしきり盛り上がると、腹減った~、という一声ととともにいっきに帰宅モードになった。  部室を出る頃には、だいぶ日も暮れていた。 「お疲れ様でしたー」 「おつかれー」  部員が口々に挨拶しながら、グランド脇のロータリーを歩き、正門へと向かっていく。八王子は肩にかけたスポーツバッグを持ち直した。同じ野球部員であり、クラスメイトでもある李一郎が、自転車を取ってくるのを待っている。駐輪場は昇降口の隣り、新校舎と旧校舎の間にある。  李一郎が自転車を押しながら現れた。 「おまたせ、って、あれ?妙子女史だ」  李一郎の言葉に、八王子も顔を上げる。昇降口から、眼鏡をかけた女生徒が出てきたところだった。髪をひとつに編み、片方の肩に流している。どこか人を拒む雰囲気をまとっていた。  その女生徒は、八王子たちに気づくことなく、そのまま歩き去った。 「いっつも遅いな、あいつ」 「へぇ~」  八王子の傍までやってきた李一郎が言った。八王子は、遠ざかるその女生徒をもう一度見やった。  彼女の名前は、日野原妙子。皆からは"妙子女史"と呼ばれている。見た目が賢そうだから、という理由らしいが、実際に賢いのである。予習、復習、課題すべてを完璧にこなしているタイプだし、大人びた印象がある。  八王子は彼女と2年になって同じクラスになった。しかし未だ、ほとんど会話をしたことがない。席が離れているし、今のところわざわざ話しかけるほどの接点もない。まあ、頭の悪い八王子からすれば、ある種尊敬の対象になる彼女に、気安く話しかけるのは恐れ多い、と無意識に思っているのかもしれない。 「部活で?」 「いや。なんも入ってなかったはず」 「よく知ってんね」 「1年の時も同じクラスだったからな」 「ああ、そうなんだ」 「また図書室にいたんだろ。勉強できるやつは違うね。八王子も見習え」  そう言って李一郎は、カカカッ、と笑った。  図書室なんて入ったことないや、と八王子は思った。そして、やっぱり別次元の人だなあ、とぼんやり思った。   ☆  ☆  ☆ 「おっはよー」 「おっはー。なんかえらいことになってんなあ」 「テニス部だろう。大変だよな」  学校中が朝からその話題で持ちきりだった。  テニス部倉庫荒らし。  昨夕、部員たちが帰る時には、普段通り整理整頓された状態で施錠されていた。しかし今朝、自主トレに来た部員が、鍵が壊され、中がめちゃくちゃに荒らされているのを発見した。その荒らされ方が尋常ではなかったという。予備で置いてあるラケットはガットの部分が大きくひしゃげているか折られており、硬式用の硬いボールは握りつぶされていた。金属製のパイプ棚さえ、棚板が真っ二つになっていたらしい。  盗られたものはないらしいが、ただの悪戯にしても、手が込んでいる。  刺激が大好きな高校生には、かっこうのネタであった。 「棚、真っ二つだって。マジヤバくね」 「フツーできねえよなあ」 「空手の瓦割りの応用?」 「意味わかんなーい」  教師たちの弱り顔に比べ、生徒たちはのんきなものである。好き勝手言っては、くすくすと笑いあっている。  八王子のクラスでも、さまざまな憶測が飛んで盛り上がっていた。  そこに、様子を確認しに行っていたテニス部員の女子が戻ってきた。 「どうだった?」  仲良しグループが囲むように集まった。 「もう最悪。たいして大事なものは置いてなかったけど、ボールが…。買い換えたばっかりだったのよ。それをあんな風につぶすなんて。全部よ、全部。ヒドイよ」  憤りもあらわに、愚痴をぶちまけ始める。うん、うん、と皆、同情顔で頷いて聞いていた。 「大変だなあ、テニス部。ボールなきゃ練習できねえよな」  八王子の前の席に腰をおろし、李一郎が同情した。その手には野球ボールが握られている。ちなみに、八王子自前のボールである。  八王子も頬杖をつきながら同意した。  しかし、どこか他人事でもある。対岸の火事なのである。その証拠に、普段通りに予鈴は鳴って、一時間目が始まるのである。予鈴を聞いた李一郎が、じゃな、とボールを投げ返して自分の席に戻っていった。 「あ、辞書、ロッカーだ」  授業で使う辞書を廊下のロッカーに入れっぱなしであることに、八王子は気付いた。慌てて廊下に出る。  と、日野原妙子がいた。窓外をじっと見ている。  八王子は自分のロッカーに歩み寄りつつ、妙子の視線を追った。  裏庭の奥、テニスコートがある。そのさらに奥。例のテニス部倉庫が見えた。数人の教師がまだ残ってうろうろしている。  辞書を取り出しつつ、八王子は意外に思った。  妙子は、こういう騒ぎに興味をもたない、と勝手に考えていたからだ。それどころか、自分の周りで起こることにすら、関心はないんじゃないかとも思っていた。勉強勉強、というタイプではない。けれど、どこか冷めているというか、とにかく他の女子とは違う、独特の雰囲気をまとっている。  人と、馴れ合おうとしないオーラ。人にかわいがられるタイプの八王子とは正反対。  八王子はロッカーを閉めた。  とはいえ、嫌いとか苦手とか感じているわけではなく、話をしたことがないのも、単に、機会がなかっただけなのである。  八王子が再び顔をあげると、もう妙子はいなかった。教室に戻ったようだ。  八王子は遠くに見えるテニス部倉庫を見やった。 「…」  手を軽く首に当てると、自分も教室に戻っていった。   ☆  ☆  ☆  放課後。 「失礼しましたー」  八王子は一礼して職員室のドアを閉めた。  今週週番である八王子は、週報の記入に手間取り、ようやっと今、提出した。 (ヤバい。完璧、部活遅刻!!)  くるりと回れ右をすると、小走りに階段を駆け降りた。練習着への着替えは済ませてあるので、とにかく急いでグランドに向かえばいい。たたた、と軽快な足音をさせ、昇降口まで来る。  ふと、見知った顔がいるのに気が付き、足を止めた。  壁にかかった校内見取り図を、睨むように凝視しているその人は、日野原妙子であった。長い髪をひとつに編み、片方の肩に流している。  八王子は一歩近付いた。 「何見てんの?」  はじかれたように、妙子がこちらを向いた。そして、八王子だとわかると、意外そうな、でも少し困ったような顔をした。 「…八王子、くん」 「校内図?どっか教室探してんの?」  妙子のそんな表情に気づいたのかいないのか、八王子は妙子の隣りに立つと、校内見取り図を見た。  ほぼ正方形の新校舎と横長の旧校舎が、一本の通路で結ばれている。旧校舎は主に、1年から3年の各クラスと特別教室からなり、新校舎に、昇降口、職員室、図書室などが入っている。  丸一年通っているとはいえ、八王子としては、授業で使わない教室にたどり着ける自信はない。  妙子は校内図を一瞥すると、軽く首を振った。 「なんでもないの」  そっけない返答に、八王子は少しさみしさを感じた。ほとんど話したことがないとはいえ、同じクラスである。もう少し打ち解けた感じがあってもいいのではないだろうか。それとも、クラスメイトというだけで、なにか特別な関係と思うのは、八王子だけの錯覚なのだろうか。  八王子は練習着のポケットに手を突っ込むと、そっか、と小さく笑って妙子を見た。  妙子もこちらを見ていた。  まじまじと見たのは初めてだった。眼鏡越しだが、力強くてキレイな目だな、と八王子はぼんやり思った。 「ねえ」  妙子が声をかけた。ぼーっとしていた八王子は、ちょっとびっくりした。 「へ、なに?」 「八王子くんって、お姉さん、いる?」 「うん、いるよ」 「歳、離れてる?」 「離れてる、かな」  八王子の姉は、すでに社会人である。 「そう…」  妙子は八王子の返答を聞くと、軽く唇に手を当て、考える仕草をした。八王子は首をかしげる。 「なんで知ってんの?」  きょとんとしている八王子を見、妙子は一変、呆れ顔になった。 「知らないから、いま聞いたんでしょ」 「あ、そっか」  ポン、と両手を叩くと八王子は笑った。どちらかと言えば、八王子は、間の抜けた人間の部類である。言葉は言葉のまま、起きた事柄は起きたとおりに受け止める性質なのである。素直といえば聞こえはいいが、度が過ぎればなんとやら、だ。 「おっと、ヤバい、部活遅れてるんだった。じゃな、妙子」  八王子はハッと我に返ると、慌てて下駄箱に向かおうとした。 「八王子くん」  そんな八王子を、妙子が呼びとめた。八王子はきょとんとして振り返る。 「部室棟」 「ほえ?」 「あまり遅くまでいないほうがいいわよ」  妙子の眼鏡がギラッと一瞬光ったように見えた。そうして妙子は、踵を返すと行ってしまった。  八王子は、下駄箱の手前に佇み、その後ろ姿を見送った。 「なんで?」  消え去った妙子に向かって、八王子は遅ればせながらの疑問を口にした。  ☆  ☆  ☆
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