第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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 暗闇に蠢く、無数の腕。  ガサガサ、と木の枝が激しく揺れる。  何かが移動していく。  ガシャン、と小さな音をさせて、部室棟の2階端の窓が割られた。  闇に、蠢く。何かが、忍び寄る。   ☆  ☆  ☆ 「ちょっと聞いた?!」 「聞いた聞いた。今度は部室棟だって?」 「2階の部室がほとんど荒らされたって」 「今、部長が集められてチェックだってさ」  グランドと旧校舎の間にある部室棟の前には、朝から野次馬な生徒であふれていた。ただでさえ昇降口から見える場所にあるため、登校して、そのままのぞきにいく生徒が後をたたない。 「こら、お前ら!さっさと教室に入れ!」  教師たちは、とにかく状況を把握したいのだが、生徒たちを追い払うだけで手一杯だった。苦虫を噛み潰した顔で、体育教師が舌打ちした。 「まったく。テニス部倉庫の次は部室棟。同一犯の仕業なのか?」  昇降口では、遠巻きに様子をうかがう生徒たちがいくつもの固まりになって、ひそひそと話していた。それらの固まりから少し離れた玄関の影で、日野原妙子も部室棟を見つめていた。  その表情は硬く、どこか挑むような厳しい視線だった。   ☆  ☆  ☆ 「一週間、部活禁止ぃー?!」  八王子が叫んだ。  昼休み。教室のベランダで、李一郎や部活の仲間と昼食を摂りつつ話していたところである。すぐ隣りに座る、細目の友人に詰め寄った。 「どうして?」  細目の男子生徒は、焼きそばパンを飲み込み、淡々と答えた。 「やっぱ生徒の安全のため、ってやつじゃない。放課後は早く帰れってことらしい」 「朝練はOKなんだ」 「うん。今頃部長たちが、顧問と練習メニューについて相談してるはずだぜ」  どうなるんだろうな、と一同やや不安顔になる。  そこへ、まん丸顔のひとりが、そうそう、と付け加えた。 「あと、将棋部の違反持ち込みがバレたから、ってのもある」 「ああ?」 「そういやあいつら、PS3とかテレビとか持ち込んでたもんなあ」 「で、この機会に部室棟を一斉検査するって話だぜ」 「まじかよ。先生らもえげつねえなあ」 「おい、八王子。おーちゃん、戻ってこーい」  話に加わってこない八王子に気づいて、李一郎が呼びかけた。  八王子は"部活禁止"と聞いて、ひとりうなだれしまっていたのだった。ちなみに"おーちゃん"とは、八王子の愛称のひとつである。 (なんで部室が荒らされたくらいで、部活禁止なわけ。ありえねえ。野球させてくれよぉ)  今回の被害は、部室棟2階のほぼ半分に及んだ。  進入経路は、一番端にある将棋部の窓。室内にガラスの破片が散らばっていたことから、そう推測されている。窓のすぐ傍には、背の高い木があり、枝の一部が部室棟の屋根に覆うように伸びている。当然、窓のすぐ横にも伸びていた。この枝を伝って、わざわざ2階から進入したことになる。なんとも回りくどい忍び込み方である。  そして、将棋部部室をひととおり荒らした後、ドアを壊して別の部屋へ移動し、そこも荒らしてはまた…、と繰り返していったようなのであった。ドアはノブごと破壊されていたり、蝶番が歪むほど引き倒されていたりした。とにかく乱暴なのである。  だが一番奇妙なのは、なにも盗まれていないことだった。  破壊のみが目的としか思えないのである。  調べに来た警官も首をひねっていた。  かなり暴力的で得体が知れない。不気味と言わざるをえないため、学校側は生徒の安全を第一に考え、放課後の部活動や居残りをしばらくの間禁止することを決めたのだった。 「自主練もやばいかなあ…」  声をかけてきた李一郎にも気づかず、八王子はマイボールをベランダの壁に放り投げては、大きく溜息をついた。  空は青く、風は穏やかに八王子のそばを吹き抜けていく。 「ねえ、理沙子、放課後どっか行かない?」  八王子の耳に、頭上のベランダと教室の間の窓から、声がふいに届いた。この声は、おそらく陸上部の真里だ。ショートカットで、キリッとした目鼻立ちの女子である。窓際で昼食を食べているのだろう。 「いいよぉ。でも珍しいね」  呼びかけに応える理沙子という女子は、ふわふわした髪型でおっとりとした話し方をする。だが軽音部所属で、昨年の文化祭ではかなり派手な格好で演奏していた。見かけによらないものである。 「だって、いきなり部活なくなったんだもん。早く帰ってもすることないし」 「ああ、そっか。部活禁止令ね」 「そ、だから」 「そしたら、最近できたカフェに行かない?小物やアクセサリーも置いてあるらしいの」 「へえ、行ってみたい。ね、妙子は?」  なんとはなしに聞いていた八王子は、思わずはっとした。 「…ごめん、ちょっと用事がある」  妙子の、それほど悪びれた様子もない声が聞こえた。八王子は、テニス倉庫を見つめる妙子や校内見取り図を見つめている妙子を思い出していた。 「付き合おうか?」  真里が言う。 「ううん。個人的な調べ物だから」 「そう?」 「うん」 「妙子って秘密主義よねえ」  今度は理沙子が、からかうように言った。妙子は淡々と返事をしていく。 「そうでもないけど」 「よく言うなあ。放課後はいつも忙しそうで、あんまり遊びに付き合ってくれないじゃない」 「部活もバイトもしてないよね、妙子」 「うん」 「もしや彼氏とデートとか」 「ううん」  まったく動揺もせず妙子は首をふる。 「そうやって何も言わないところが、秘密主義なのよ」 と、真里と理沙子が同時に苦笑した。  八王子はふいに、先日妙子が言った言葉を思い出した。――部室棟、あまり遅くまでいないほうがいいよ。  どういう意味だったのか。今回のことを予想していたのか?  気づいたときには立ち上がり、妙子に声をかけていた。 「なあ、妙子っ」  窓越しにいきなり現れた八王子に、妙子をはじめ、理沙子と真里も驚いたように顔を上げた。ベランダで八王子を囲んでいた野球部の面々も、どうしたんだ、と慌てた。 「この間さ、昇降口で言った…」  勢い込んで話しかけてきた八王子を、妙子が箸をくわえた姿で一瞥した。目が合う。  思わず、八王子は言いかけた言葉を飲み込んだ。一瞬、妙子が鋭く睨んだように見えたのだ。  黙り込んでしまった八王子を、真里が不思議そうにのぞき込んだ。 「なに、どしたの、おーちゃん」 「あ、えっと」  八王子はもう一度妙子を見た。  今度の妙子は、にっこりと口の端を上げた。が、眼鏡の奥の目が笑っていない。とにかく八王子にはそう見える。 (あ、あれ。俺、なんかまずいことしてる?)  なぜか冷や汗が出てきた。空気は読めないが、気配には敏感な八王子なのである。  妙子につられて笑顔を貼り付けた八王子を、真里と理沙子が不思議そうに見ている。二人は、妙子が一瞬見せた表情に気づいていない。 「八王子くん、なにか?」  妙子がゆっくりと言った。八王子はわずかに肩を震わせた。さりげない言葉だが、妙なプレッシャーを感じる。 (なんか、なんか言っちゃいけないっぽいっっ?!声かけちゃいけないっぽいっっ!!) 「あははは…。な、なんでもない。あは、は…」  笑顔を貼り付けたまま、くるりと向きを変え、八王子はストンとベランダに座り込んだ。  李一郎がいぶかしげに八王子を見る。 「なにやってんだ、おーちゃんよー」 「あは、ほんと、なんだろうなあ」  乾いた笑いのまま、八王子は内心の動揺を必死に抑えようと深呼吸を繰り返した。しっかりしろよー、と細目の男子が八王子の頭をぐりぐりと回して笑った。  真里と理沙子も首を傾げつつ、変なのー、と笑っていた。 「おーちゃん、どしたんだろうね」 「ね、妙子」  真里と理沙子が妙子に向き直って、呆れたように笑った。 「―そうね」  妙子も笑った。そして、卵焼きをひとつ、口の中に放り込んだ。 (俺、なんか悪いことした?なんかまずいことしたのかー??)  八王子はひとり、妙子の態度に合点がいかず、頭を抱え悶えた。   ☆  ☆  ☆  人気のなくなった教室に、妙子はひとり、ぽつんと座っていた。  部活禁止令のせいで、生徒たちは追い出されるように帰宅させられている。妙子は、帰宅させようとする教師らの目をすり抜け、今、こうして教室に戻ってきているのだった。  時刻は18時をまわっている。外はすでに日が落ち、夜の帳が迫っていた。  妙子の前には、一冊の本が置かれていた。水面を思わせる、深く澄んだ水色の表紙。  妙子はゆっくり、ゆっくりとページをめくっている。読んでいる、というより眺めているように見えた。 「…」  静かに本を閉じると、表紙に手を乗せたまま、かすかに顔を歪めた。  ひどく思い詰めた、それでいてどこか怯えているような表情だった。  深く息を吐く。そっと目を閉じた。  そして、次に目を開けた時、その表情は挑むような険しいものに変わっていた。眼鏡の奥の瞳が、強く光る。 「…動き出す」  低くつぶやくと、妙子は立ち上がった。そして本を取り上げると、ぎゅっと胸に抱きしめた。  教室の片隅で、闇が、ひと際濃く揺らめいた。  ☆  ☆  ☆
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