第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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 旧校舎の裏、中庭の開けた場所にも、教師の目をかいくぐった生徒がいた。  ジャージ姿のその生徒は、一心に壁に描かれた円に向かって野球ボールを投げている。ボールが壁に当たるたびに、バシュッ、と鋭い音が鳴った。  次のボールを取ろうと、足元に置いたカゴに手を伸ばして、そのまま動きを止めた。 「あ、ボール無くなった」  ふう、と息を吐いて顔を上げると、額の汗を腕で拭った。八王子だった。  辺りに転がるボールの数は30~40個か。腰に手を当て、それらを眺める。  そこでようやっと、周囲がかなり暗くなっていることに気づいた。 「この辺にするか。よし。片付け、片付け」  満足げにうなづくと、八王子は、疲れた様子も見せずにボールを拾い始めた。  八王子は野球が好き、というよりも、投げるのが好きなのである。どんなコースでも、どんな距離でも、思い通りに投げたいと思っている。それが楽しいのだ。  なぜそう思うのか、自分でもわからない。人によっては歌うことだったり、走ることだったり、勉強することだったりするのだろう。なにかひとつでも、10代のうちに打ち込めることや好きなことがある、ということは幸運なことと言える。  拾い集めたボールをカゴに入れ、八王子は歩き出した。  テニスコートの脇を抜け、旧校舎の横を通る。荒らされたテニス部倉庫が奥に見え、反対の方に、プレハブ造りの部室棟が見えてくる。  当たり前だが、人気はない。  と、思ったが違った。 「?」  部室棟の正面から少し距離を置いた位置に、人影があった。  八王子は歩を進めつつ目を凝らす。女生徒だ。制服姿である。眼鏡をかけていて…。 (妙子?!)  意外な人物の姿に驚いた。部活に入っていない妙子が、なぜここに?  同時に、その雰囲気に息を飲んだ。  ただならぬ気配をまとっている。表情は険しく、何かを見つけだそうとするかのように、部室棟を睨んでいる。  さすがの八王子も、声をかけることができず、つい、立ち止まっていた。 (なんだろう?)  しかし、ボールの仕舞い先は部室である。部室棟の1階。着替えも鞄もそこにある。 (どうしよう…)  八王子は情けない気持ちになってきていた。昼休みの一件もあり、軽々しく妙子に声をかけるのが躊躇われた。あの、妙子の冷たい笑顔は強烈に気持ちを萎えさせる。ぽりぽり、と頬を小さく掻いた。  だが、器用に立ち回れる性格でもない。 (何気なく、さりげなく、よお、とか言って、通り過ぎればいっか)  ボールカゴを持ち直すと、気を取り直して妙子に近づく。歩きながら、なんとはなしに部室棟を見上げた。 「あれ?」  八王子は思わず声を出していた。なんだろう、違和感。  声に気づいた妙子が、ビクッとして振り向いた。そして、そこに八王子を認めると、訝しげに眉をひそめた。 「どうして、八王子くんが…」  野球ボールの入ったカゴを持ち、ジャージ姿で現れた八王子に対し、驚きよりも警戒しているような声音だった。  八王子は気まずそうに笑った。 「ちょっと、こっそり練習してて…」 「…」  カゴを軽く持ち上げ、妙子に見せた。妙子は無言で確認する。しかし、警戒を解く様子もなく、探るような視線で八王子を見つめてきた。 (まいったなあ…)  ここまで不躾に警戒されるとは。訳がわからず、八王子は内心ひどく動揺した。校内見取り図を前に話したときは、こんな感じではなかったのに…。 (俺、妙子になんかしたかなあ)  空いている手を首の後ろにやり、困り果て、誤魔化すように笑った。 「…た、妙子こそどしたの?帰らないの?」  動揺を隠し切れないままではあるが、八王子は会話を続けた。妙子の眉が、ぴくりと上がる。  と、その時。  何かが崩れる大きな音が響いた。  部室棟のほうである。二人は同時に振り向いた。  ギクッと、八王子は体を震わせた。  異様な"闇"が、プレハブ小屋を覆っていたのである。冷え冷えとして、背筋がぞっとしてくる。  少なくとも、八王子にはそう感じられた。先ほどの違和感を思い出す。  ――何かが蠢く気配。 「いる…」  妙子の顔に緊張が走った。その小さいつぶやきを八王子は聞き逃さなかった。  バアンッ。  突如、2階のドアのひとつが吹き飛んだ。 「なっ」  驚いて見上げた八王子は、そのまま口をぽかんと開けて呆然とした。目の前の光景の、あまりの異様さにまばたきを繰り返してしまう。 「なんだ、あれ…」  車輪のように見えたが、巨大ムカデが輪っかになったものにも見えた。側面から無数の腕が生えており、うようよと動いている。赤黒く、毛むくじゃらの大小さまざまな腕は、実に器用に蠢いて、回転しながら移動していく。  うじゃうじゃと、腕が這い回る。 「…キモイ」  八王子は思わずつぶやいていた。驚愕よりも、生理的嫌悪感のほうが勝ったらしい。眉根を寄せて、不快感を露わにしている。 「八王子くん」  妙子の呼びかけに、八王子は我に返った。妙子は輪っかの化け物を凝視したままである。 「…試しに聞くんだけど」 「うん?」 「ああいうの」  "ああいうの"とは、あの化け物のことだろう。 「相手にしたこと、ある?」  妙子は八王子を見やると、くいっと眼鏡を上げる仕草をした。眼鏡が夜間照明の明かりを受けて、キラリと光る。  八王子は思わず、まじまじと妙子を見た。 「いや、ないでしょ、フツー」 「…そうよね」  生真面目に答えた八王子に、妙子はやや失望したような、そんな表情を返した。が、すぐにその表情を収めると、もう一度化け物のほうを見た。化け物は次の部屋に潜り込もうとドアに手をかけている。 「さて、どうしよう」  妙子は独りごちた。そして無意識に、スカートのポケットに手を伸ばす。なにかを掴む。  化け物は、ガタガタと派手な音をさせてドアをこじ開けようとしている。異変に気づいて、職員室の教師らもそろそろ出てくるだろう。  八王子はささっと、妙子に近寄った。 「なんなんだよ、あれ」 「一連の荒らし事件の犯人」  衒いもなく告げられた、その言葉に、八王子は目を丸くした。 「はあ?!」 「しっ」  つい大声を出してしまった八王子に向かって、妙子は人差し指を立てて睨みつけた。八王子は慌てて自分の口をふさぐ。  ちらりと化け物のほうを見ると、化け物はわずかに動きを止めたが、またドアと格闘を始めた。  今度は声を抑え、もう一度妙子に聞いた。 「犯人って…、あれ化け物じゃん」 「そう。悪意を溜めて育ったモノ。人ではないモノ。妖のモノ」  キッパリと妙子は言い切った。八王子は、妙子のその横顔を見て、なぜか自然と納得した。 「こういうの、マンガやアニメの世界だけだと思ってた…」 「あいにく現実」  感慨を込めてつぶやいた八王子に対し、妙子が冷静に突っ込んだ。  うっ、とうめくと、八王子は小さくなってしょぼんとうなだれた。 (いや、まあ、ほんと、現実なんですけどね…)  八王子はちらりと妙子を見、そして化け物を見た。そして再び、妙子に囁いた。 「なあ、こう、ばしっと退治しないの?」 「誰が?」 「妙子」 「…」  妙子が八王子を一瞥した。 「なんで?」 「だって、なんか詳しいから。退治方法とかも知ってるのかと思って」  無邪気な表情の八王子に、妙子が小さく溜息をついた。 「妙子?」 「知識はあっても"力"はないの、私」 「ああ、そうなんだ」  ポン、と両手を叩くと八王子は納得して笑った。と思ったが―。 「えぇぇぇぇぇ!!それ困る!俺、着替えも鞄もあの中なのにっ!!」 「っ、八王子くん、声、大きいっっ」  慌てて妙子が八王子の口をふさいだが、時すでに遅し。  化け物が、ようやっと開けたドアを手にしたまま、妙子と八王子のほうに向きを変えた。 「やばい、気づかれた」 「ごめん~~」  妙子が息を飲む。八王子は口をふさがれたまま謝った。 「ど、どうすんの」  妙子はちらりと新校舎のほうを見た。職員室に明かりが灯っているが、ざわついた雰囲気はない。まだ、部室棟の異変に気づいていないと思われた。  再び部室棟を見る。化け物が手摺りに手をかけ、今にもこちらに飛び降りて来るところだ。  妙子はぎゅっと唇を噛んだ。隣で八王子が半パニックに陥っている。  ちらりとそちらを見る。 「…賭けるしかない、か」  ぼそりとつぶやいた瞬間、どしん、と地面が揺れた。  小さく悲鳴をあげ、妙子は思わず八王子の腕を掴んだ。八王子は、おそらく無意識であろう、妙子の肩をかばうように抱いた。  化け物が目の前に降り立っている。  近くで見ると、さすがに大きい。全長2mはあろうか。蠢く腕の部分も含めたら、縦横ともに一回りは大きくなる。枝が揺れるようなガサガサいう音が、絶えず聞こえてくる。  地面に接する部分の腕が、ぺたぺたと足踏みするように上下し向きを変えた。そして、にじり寄ってくる。  妙子たちのほうへ、無数の腕が、伸びてくる。  八王子は首の後ろから背中、腕と、総毛立つのがわかった。 (な、なんか、気持ち悪いっっ)  八王子はがしっとカゴからボールを掴むと、化け物めがけて思いっきり投げつけた。  ボールは真正面の腕に、ゴッと鈍い音をさせてぶつかった。そのまま明後日の方向に跳ね返る。  一瞬動きを止めた化け物だったが、怯むどころか逆上でもしたのか、ボールがぶつかった腕を中心に、猛烈な勢いでわしゃわしゃとやたらめったら振り回した。 「うわっ、さらに気持ち悪い!!」  さらにボールを投げつけようとした八王子の腕を、妙子が引っ張った。 「それより逃げる!」 「おわっ」  八王子は引っ張られた勢いで半回転した。妙子はテニスコートのほう、中庭方面に駆け出した。八王子が先ほどまでこっそり練習していた場所である。 「え、妙子、そっち人いないって」  八王子はびっくりして叫んだが、妙子は止まらない。訳がわからない。しかし化け物は、妙子のほうへ向きを変えた。 「なんなんだ?!」  八王子も慌てて、妙子の後を追って駆け出した。 (こんな状況、大人が信じるとは思えない。パニックが広がるだけだ)  妙子は走りながら、ポケットから小さな小瓶を取り出した。透明な液体が入っている。 (これが効くか…)  八王子が追いつく。さすがは運動部。早い。しかもボールカゴを持ったままである。 「妙子、どうすんのっ」 「…」  ペタペタペタペタ、と化け物もついて来る。それほど俊敏ではなさそうだ。妙子は振り返ってそれを確認した。  テニスコート脇を抜ける。花壇が囲む、やや開けた場所に躍り出た。八王子は花壇をひとつ、飛び越えて着地した。  妙子が突如、ぴたりと止まった。くるりと向きを変え、化け物と対峙する。  慌てたのは八王子である。 「ちょ、ちょ、妙子」  化け物の腕が、妙子に迫った。  妙子は手にしていた小瓶のふたを素早くはずした。そしておもむろに一振り、化け物に向かって、投げるように振り掛けた。  ジュッと音を立てて、妙子に伸びていた腕が焼ける。液体に触れた部分が、焼け爛れたのだ。  声無き悲鳴があがったかと、八王子は思った。  それほどまでに、化け物がひどく悶えていたのだ。焼け爛れた何本もの腕を、他の腕が取り囲み、手を伸ばしては引っ込める、を繰り返している。 「多少は効いた。でもやっぱり無理か」  妙子はもう一度小瓶を振りかざした。 「それでもっ」  バシィィン。  妙子が吹き飛ばされた。化け物が妙子を、体ごとなぎ払ったのだ。 「妙子!」  八王子が駆け寄った。花壇の縁に背中をしたたか打ちつけ、妙子はうめいた。 「妙子、妙子」 「くぅ…」  小瓶を握り締め、なんとか妙子は起き上がった。八王子が肩を支える。 「なにしたんだよ、お前」 「…ちょっと。今までの奴らだったら追い払えたんだけど。やっぱり格がちがうか…」 「なんのことだ?」  ほとんど独り言のようにつぶやく妙子を、八王子が困惑顔で覗き込んだ。  その八王子を、妙子が思いっきり突き飛ばした。 「え」  不意をつかれ、2メートルほど転がった。  途端、自分たちが先ほどまでいた場所に、化け物が落ちてきた。  花壇の縁にひびが入り、もろく崩れる。 「あっぶねー」  八王子は両手をついて起き上がりながら、青ざめた。妙子に突き飛ばされなかったら、今頃あの化け物の下敷きだ。 「っ妙子」  気づいて声を上げた。彼女はどこだ?  はっとして化け物を見た。  八王子からは影になって見えない辺りの腕が、にょきにょきと動いている。  嫌な予感がし、生唾を飲み込んだ。  化け物の腕のひとつが、小瓶を持つ手を持ち上げたのが見えた。編んだ黒髪を引っ張っているのも見えてきた。 「ぐ…」  赤黒い手が、妙子ののどを締め上げていた。 「妙子!」  妙子の顔が苦悶に歪む。小瓶を持つ手が震えている。もう一方の手が、のどの腕を引っ掻く。  八王子は素早く辺りに手を伸ばした。  あった。  手に触れたカゴを引っ張り寄せると、顔は化け物に向けたままボールを掴んだ。そして思いっきり投げつけた。  ゴッと鈍い音をさせて当たった。  続けざまに八王子は投げつける。妙子を掴んでいる腕に向かっても投げつけた。  さすがは野球部の次期ピッチャー候補である。スピードのある重い球は、化け物の動きを鈍らせた。一瞬緩んだ腕を、妙子もここぞとばかりに引き離し、転がり落ちた。  すばやく化け物から離れようとしたが、途中で咳き込んだ。のどの圧迫感から開放され、むせたのだ。 「げっほけほ、はあ…はあ…」  それでも、這うようにして距離をとる。  その間も、八王子は野球ボールで攻撃し続けた。効いてる、というわけではないのだが、動きを怯ませることはできている。  しかしいつまで続くわけでもない。 「げ」  カゴに入っていたボールを投げ尽くしてしまった。とりあえず、身近に跳ね返ってきていたボールを2、3個掴み、再度投げつける。 (やばいっ、やばいっ、まじ、やばいっ)  投げつけながら、八王子は後ずさった。  化け物には"目"らしいものは見当たらないが、こちらの気配はわかるのだろう。八王子のほうへ、うようよと腕を動かして近づいていく。 「はち、おうじ…く…」  妙子は四つん這いのまま咳き込みながら、目だけを上げた。八王子が、やけくそのようにボールカゴを投げつけたのが見えた。化け物がそれを払い落とす。  フレームの歪んだ眼鏡越しに、妙子は目を凝らした。 (ダメだ…、彼はまだ、知らない…使えない、のに)  妙子はぎゅっと手を握り締めた。八王子くんはなにも知らない。あの化け物が現れた理由も、その身に起こるべき変化のことも、なにも。だから、私がなんとかしなきゃ―。  小瓶には、まだ液体が残っている。 「うわあああ、寄るな、来るな、近づくなーっ!!」  八王子はとにかく叫んだ。化け物が目の前まで迫る。足がもつれてうまく逃げられない。 「うあっ」  転がっていたボールにつまずいた。どさっと尻餅をつく。なにかが覆いかぶさる気配。戦慄が走る。  蠢く無数の腕が、眼前に伸びた。 「八王子くん!」 「触んなああああ!!!」  渾身の力を込めて、八王子は右腕を振り切った。妙子は目を見張った。  化け物の腕が、切り離されて宙に舞い上がったのだ。鋭い刃のような風が駆け抜ける。  八王子は目を大きく見開いた。  ぼたぼたぼた、と地面に落ちてきた腕は、ピクピクとひくつくと動かなくなった。切り口は、鋭利な刃で切り落とされたように滑らかだった。 「な…んだ、よ…」  八王子は自分の右手を見た。シュウ、シュウ、と小さなつむじ風が起こっている。 「なんだってんだよ…」  呆然としている八王子を、遠くから妙子も、呆気にとられて見つめていた。 「…覚醒、した?」  妙子の目には、八王子の手がほのかに発光しているように見えた。柔らかな白。時々虹色にきらめく。  妙子はゆらりと立ち上がった。  化け物は痛みにもんどりうつかのように腕を振り回し、小刻みに跳ねたり回転したりしている。  尻餅をついたまま、八王子は後ずさりしている。手の発光は消えていない。  妙子は叫んだ。 「八王子くん!」  八王子がまだ正気に返りきれていない顔を上げた。首だけ動かし、妙子を見る。 「たえ…」 「もう一度、もう一度化け物に向かって腕を振って!」 「え」 「いいからっ、早く!!」  妙子には確信があった。打ち付けた背中が痛いのと同じくらい、はっきりとした確信。――もう一度、できる。  化け物が妙子の声に反応した。八王子もその動きに気づいた。  八王子は化け物と自分の右手を何度も見比べる。妙子が叫んでいる。  そして、ぎゅっと握り締めた。  キッと顔を上げると、肩膝をついた姿勢で身構える。 「ええい、よくわかんないけどっ」  八王子が大きく右腕を振り上げた。拳のまわりのつむじ風が急速に膨らむ。  化け物の腕が、一斉に嫌々をするように八王子へ手のひらを向ける。  八王子の髪やジャージの裾が風に煽られる。妙子の顔にも余波がくる。  意を決したように八王子が叫んだ。 「こうすりゃいいのかー!!!」  化け物に向けて真一文字に腕を振った。  手刀のように揃えられた指先から、鋭い風が飛び出す。風は刃となって化け物を襲う。  妙子は腕で、咄嗟に来た強風から目を守った。  八王子は勢い余って後方に転がった。 ――!!!!!!  化け物の、声無き咆哮が夕闇に轟いた気がした。   ☆  ☆  ☆
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