第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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 妙子の目に、巨体の中心に一本の大きな傷を負った化け物の姿が映った。息を飲む。  しかし化け物は倒れなかった。 「ダメか…?」  妙子はよろける体を必死に両足で支えながら、凝視した。  わしゃ、と傷つき果てた腕のひとつが動いた。  妙子が苦々しく舌打ちした。 「しぶとい」  妙子は再び小瓶のふたをはずした。そして一歩近づき、振りかけようとした瞬間。  化け物が大きく跳ねた。 「え?!」  どこにこれだけ大きく跳ねる力があったのか。  化け物は10メートル以上も飛び上がると、旧校舎の壁に取りつき、方向を変えて体育館のほうへ再度跳躍した。そして体育館の屋根に着地すると、残った腕を駆使して移動し、跳ね、そのまま闇に消えてしまった。  木の枝を揺らす、風の音が聞こえてきた。  妙子は小瓶を片手に立ち尽くした。化け物が消えた辺りに顔を向け、口をきゅっと引き締めて。  しばらくそうして虚空を睨んでいたが、大きく肩で息を吐くと、八王子に向き直った。  八王子は、数メートル先の地面にしゃがみこんだまま、呆然としている。それも仕方の無いことである。あまりに非日常的な光景と恐怖を体験してしまったのだから。  妙子は少なからぬ同情を感じた。  気配を感じたのか、八王子が未だ夢うつつな表情で妙子のほうに顔を向けた。呆然としているが、怯えてはいない。混乱しているだけのように見えた。 「…妙子…」  八王子の右手はまだ、ぼうっと光っている。  八王子が妙子の視線に気づいて自分の右手を見た。小さなつむじ風が残っている。シュウ、と戯れるようにまとわりついている。ぼんやり眺めていたが、試しに払うように振ってみた。  地面に小さな傷が散った。 「うおっ」  八王子は慌てて右手を振るのをやめた。左手で、恐る恐る右手のひらを突っつくと、左手にもつむじ風が起きた。  妙子も興味深そうに、八王子の手の様子を見ていた。  八王子は途方に暮れて、両手を、手術前の医者のように掲げて妙子を見た。 「どうしよう、これ」 「…」  妙子は唇に指を当て、考える仕草を見せた。が、すぐに顔を上げると眼鏡を直した。 「妙子ぉ~」 「深呼吸でもしてみたら」 「…それで消える?」  一見突き放すような物言いである。が、妙子も適当に言ったわけではなかった。  八王子はそんな物言いを気にかける余裕もないのだろう、目を閉じると、大きく息を吸い込み、本当に深呼吸を始めた。  妙子は八王子のそばの、花壇の縁に腰掛けた。体のあちこちが痛かった。額に張り付いた髪を指で払いながら、わずかに目を落とす。  そして、一心に深呼吸を繰り返す八王子を見やった。  気持ちが落ち着いてきたのだろう、八王子の強張っていた表情が緩んでいく。それとともに、両手のつむじ風が小さくなっていき、やがて消えた。妙子に見えていた発光も、同時に消えた。 「…」  妙子は一度視線を、自分の持つ小瓶に移した。どこか逡巡するようにまぶたを閉じたが、ゆっくり開けた瞳には、迷いの欠片も見えなかった。 「…治まったみたいよ」  八王子が目を開けた。深呼吸の効果か、落ち着いた表情をしている。両手のひらを何度もひっくり返して確認し、何も無いことがわかると破顔した。 「よかったあ~~」  心底ほっとしたように顎をあおのかせた。両手を伸ばし、グーパーしたり手のひらを返したりする。 「まじどうしようかと思った。何も触れなくなるかと思ったぜ~」 「…」  意外と神経図太いかもしれない、と八王子の様子を眺めながら妙子は思った。それとも、ただのバカか。両方だとしたら…と考えたところで、あまりに救いようがない気がしてきて思考を止めた。  静かになった学校。暗い空に星が見え始めている。転がったままの野球ボール。  花壇の花が、小さく揺れる。 「さっきの奴、また戻ってくるかな」  八王子が空を見上げた姿勢で聞いてきた。妙子はゆっくり足を伸ばした。 「…どうかしら」 「あいつ、気持ち悪いんだよなあ。うようよして動く感じが、なんかゾゾ~って」 「そうね」  八王子が妙子を見た。 「妙子、怪我とかしてる?」 「ううん、大丈夫。」  本当は、打ち付けた背中や腕がズキズキと痛かった。 「…八王子くんは?」 「俺?全然平気」  八王子は元気よく答えたが、ふと自分の手を見つめた。妙子は八王子に視線を移した。 「なんだったのかな」  独り言のようにつぶやいた八王子に、妙子が意外なことを言った。 「八王子くんが持ってる"風の者の力"よ」  八王子が顔を上げた。 「風の者?」 「そう。風を自由に操れる一族。その力。八王子くんは、"風"の一族の血を継いでるのよ」 「…」 「それで、潜在的に持っていた力が、襲われたことで目覚めたのね。火事場のなんとやら、だわ」  八王子が、眉間にしわを寄せながら首を傾げた。 「よくわかんねーんだけど」  妙子は、それもそうね、というように小さく吐息をついた。 「要するに、マンガやアニメでいうところの超能力よ」 「俺、超能力者?!」  八王子が目を輝かせた。 「…そんな喜ばしいものでもないと思うけど」  俺すげえ、とはしゃぐ八王子を、呆れ顔で妙子は眺めた。 「あれ、でも妙子、なんでそんなこと知ってんの?」 「…わかっちゃうのよ」  妙子の声が、わずかだが沈んだ。しかし八王子は気づかなかったようだった。 「妙子も超能力者?」  妙子は大きく頭を振った。 「私は違う。言ったでしょ、"力"はないって」 「でも、あいつ嫌がることしてたじゃん。なんか振りかけてたっていうか」 「それはこれ」  そう言って、妙子は小瓶を掲げた。 「ちょっと特別な"水"ではあるけど、お守り代わりに持っているものなだけよ」 「へえ」  しげしげと八王子は小瓶を見つめた。  手のひらにおさまるほどの大きさだった。四角く平たい形状。その小瓶はほんのり青みがかっていて、残りわずかになった液体は、そのせいか、とてもキレイな印象を八王子に与えた。  森深い山に流れる、清流のような。  すっ、と八王子の視線を遮るように、妙子の手が小瓶を握った。八王子は、もう少し見ていたかった、と思った。 「お守りかあ」  八王子が改めて妙子を見た。 「妙子はさ、ああいう化け物、よく相手にしてんの?」  妙子が小瓶に視線を落とした。 「今回のようなのは初めてよ。たいていは、小さくて儚い者たちばかりだったから、この水を持っていれば襲われることはなかったし、ちょっかい出されても、この水をかければ消えていったし」 「へえ」 「さすがにもう、これじゃ、対処できないわね」 「けっこう襲われてんの?」  自分に言うかのような妙子のセリフに、八王子はなんとなく、妙子の"今まで"が気になった。 「え?」  小さく驚いて顔を上げた妙子を、八王子はじーっと見つめていた。  その目とぶつかり、わずかにぎくっとすると、妙子は極まり悪そうに目をそらした。 「まあ、そうね…。たいていの人には見えないみたいだから、気づかれることはなかったけど」 「2年になってからも?」 「なんで、そんなこと聞くの?」  八王子の意図を測りかねた妙子が逆に、とがめるような口調で聞き返した。八王子はまるで気づいていないように、軽く首を傾げた。 「だってさ、もしそうだったら、もっと早く声かけてたらよかったな、って思って。俺、なんか"力"があるんだろ?役に立ってたかもしんないじゃん」  そう言って屈託無く笑う八王子に、妙子はわずかに瞠目した。 「…」  ふいに黙り込んでしまった妙子に気づいて、八王子が慌てた。 「俺、また変なこと言った?」  妙子はかぶりを振ると、小さく微笑んだ。 「なんでもないの。それより、"また"って?」 「あ」  八王子が、しまった、という顔をした。 「いや、その、ほら、昼休みにさ」  八王子は頬をぽりぽりとかきながら、言いにくそうに続けた。 「話しかけたら、妙子、怒ったじゃん」 「怒った?」 「目が」  妙子が、昼間のやりとりを思い出したのか、納得顔になった。 「…ああ」  八王子は思い切って聞いてみた。 「なあ、なんであの時、怒ったの?」 「別に…。怒ったわけじゃないわよ。ただ、昇降口でのことを言って欲しくなかっただけ」 「"部室棟に遅くまでいるな"ってやつだろ」  妙子は一瞬、きょとんとした顔になったが、 「ああ、そっちもそうね」 と小さく言って、眼鏡を直した。八王子には、そのつぶやきは届かなかったようだった。 「妙子は、あーいうのの仕業だって、気づいてたのか?」  妙子はひざに肘を乗せ、頬杖をついた。 「なんとなく、ね。あれらには、独特の気配があるから」 「それなら、皆に教えてやればよかったのに」  やや非難めいた八王子の発言に、妙子が溜息をついた。 「八王子くんじゃあるまいし、皆が皆、そんな話を信じると思う?特に、先生たちや警察が」 「…うーん」 「でしょう?」 「確かに」  八王子が顎に拳を当ててうなった。 「自分のこの目で見た今だって、なんだか、嘘だったんじゃないかって感じだもんなあ。見てない奴にはもっと難しいかあ」  ひとり頷く八王子の意見は、まさに世間一般の見方である。特に、幽霊、妖怪といった怪奇現象関係は、たいてい作り話で片付けられる。遭遇した本人にとっては、生死に関わる現象であったとしても、だ。妙子の胸が、ほんのわずか、軋んだ。  しかしその痛みを振り払うように、妙子は調子を変えた。 「いろいろ言われるの、面倒だし。だから八王子くん」  呼ばれて、八王子は妙子を見た。 「今見たことは、黙っててくれない?」 「へ?」 「お願い。ごちゃごちゃ言われたり、いろいろ説明するの、嫌なの」  半分は切実さのこもる声音に、八王子は戸惑った。残り半分は脅し、のような気がしている。妙子の目つきが鋭いのだ。  それでも八王子は頷いた。 「う、うん。わかった。誰にも言わない」  それを聞いて、妙子が息を吐いた。 「ありがとう」 「いや、別に」  ほっとしたのだろう、妙子の表情が少し柔らかくなった。  八王子はそんな妙子の変化を見て、これでいいよな、と思っていた。 (化け物相手じゃ、犯人って言ってもどうにもならないし、捕まえられるかもわかんないし、妙子はずっとあーいうのを見てきたわけだけど、見てない人にはわかんないだろうし、俺もどう話していいかわからないし)  八王子は自分の両手に視線を落とした。まだ、かすかに"風"の感触が残っている気がする。 (これも、説明しようがないもんなあ)  もう一度やれ、と言われても、できるとは思えない。どうして、あんな風に"風を起こす"ことができたのか、まったく覚えていないのだ。妙子は、火事場のなんとか、と言っていた。きっとそうなのだろう。  妙子は俺より頭がいいし。でも。 「その"力"のこと、私も黙ってるから」  八王子が顔を上げた。妙子も八王子の手を見ていたらしい。 「うん。でも」  八王子が照れくさそうに笑った。 「うまく使えれば、今度、妙子が襲われたとき、助けられるのにな」 「―」  妙子がひどく顔を歪めた。泣き出す直前のような顔。  だが、その表情は一瞬で消えた。  目を伏せると、小さく、とても小さく、ありがとう、とつぶやいた。   ☆  ☆  ☆
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