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妙子の目に、巨体の中心に一本の大きな傷を負った化け物の姿が映った。息を飲む。
しかし化け物は倒れなかった。
「ダメか…?」
妙子はよろける体を必死に両足で支えながら、凝視した。
わしゃ、と傷つき果てた腕のひとつが動いた。
妙子が苦々しく舌打ちした。
「しぶとい」
妙子は再び小瓶のふたをはずした。そして一歩近づき、振りかけようとした瞬間。
化け物が大きく跳ねた。
「え?!」
どこにこれだけ大きく跳ねる力があったのか。
化け物は10メートル以上も飛び上がると、旧校舎の壁に取りつき、方向を変えて体育館のほうへ再度跳躍した。そして体育館の屋根に着地すると、残った腕を駆使して移動し、跳ね、そのまま闇に消えてしまった。
木の枝を揺らす、風の音が聞こえてきた。
妙子は小瓶を片手に立ち尽くした。化け物が消えた辺りに顔を向け、口をきゅっと引き締めて。
しばらくそうして虚空を睨んでいたが、大きく肩で息を吐くと、八王子に向き直った。
八王子は、数メートル先の地面にしゃがみこんだまま、呆然としている。それも仕方の無いことである。あまりに非日常的な光景と恐怖を体験してしまったのだから。
妙子は少なからぬ同情を感じた。
気配を感じたのか、八王子が未だ夢うつつな表情で妙子のほうに顔を向けた。呆然としているが、怯えてはいない。混乱しているだけのように見えた。
「…妙子…」
八王子の右手はまだ、ぼうっと光っている。
八王子が妙子の視線に気づいて自分の右手を見た。小さなつむじ風が残っている。シュウ、と戯れるようにまとわりついている。ぼんやり眺めていたが、試しに払うように振ってみた。
地面に小さな傷が散った。
「うおっ」
八王子は慌てて右手を振るのをやめた。左手で、恐る恐る右手のひらを突っつくと、左手にもつむじ風が起きた。
妙子も興味深そうに、八王子の手の様子を見ていた。
八王子は途方に暮れて、両手を、手術前の医者のように掲げて妙子を見た。
「どうしよう、これ」
「…」
妙子は唇に指を当て、考える仕草を見せた。が、すぐに顔を上げると眼鏡を直した。
「妙子ぉ~」
「深呼吸でもしてみたら」
「…それで消える?」
一見突き放すような物言いである。が、妙子も適当に言ったわけではなかった。
八王子はそんな物言いを気にかける余裕もないのだろう、目を閉じると、大きく息を吸い込み、本当に深呼吸を始めた。
妙子は八王子のそばの、花壇の縁に腰掛けた。体のあちこちが痛かった。額に張り付いた髪を指で払いながら、わずかに目を落とす。
そして、一心に深呼吸を繰り返す八王子を見やった。
気持ちが落ち着いてきたのだろう、八王子の強張っていた表情が緩んでいく。それとともに、両手のつむじ風が小さくなっていき、やがて消えた。妙子に見えていた発光も、同時に消えた。
「…」
妙子は一度視線を、自分の持つ小瓶に移した。どこか逡巡するようにまぶたを閉じたが、ゆっくり開けた瞳には、迷いの欠片も見えなかった。
「…治まったみたいよ」
八王子が目を開けた。深呼吸の効果か、落ち着いた表情をしている。両手のひらを何度もひっくり返して確認し、何も無いことがわかると破顔した。
「よかったあ~~」
心底ほっとしたように顎をあおのかせた。両手を伸ばし、グーパーしたり手のひらを返したりする。
「まじどうしようかと思った。何も触れなくなるかと思ったぜ~」
「…」
意外と神経図太いかもしれない、と八王子の様子を眺めながら妙子は思った。それとも、ただのバカか。両方だとしたら…と考えたところで、あまりに救いようがない気がしてきて思考を止めた。
静かになった学校。暗い空に星が見え始めている。転がったままの野球ボール。
花壇の花が、小さく揺れる。
「さっきの奴、また戻ってくるかな」
八王子が空を見上げた姿勢で聞いてきた。妙子はゆっくり足を伸ばした。
「…どうかしら」
「あいつ、気持ち悪いんだよなあ。うようよして動く感じが、なんかゾゾ~って」
「そうね」
八王子が妙子を見た。
「妙子、怪我とかしてる?」
「ううん、大丈夫。」
本当は、打ち付けた背中や腕がズキズキと痛かった。
「…八王子くんは?」
「俺?全然平気」
八王子は元気よく答えたが、ふと自分の手を見つめた。妙子は八王子に視線を移した。
「なんだったのかな」
独り言のようにつぶやいた八王子に、妙子が意外なことを言った。
「八王子くんが持ってる"風の者の力"よ」
八王子が顔を上げた。
「風の者?」
「そう。風を自由に操れる一族。その力。八王子くんは、"風"の一族の血を継いでるのよ」
「…」
「それで、潜在的に持っていた力が、襲われたことで目覚めたのね。火事場のなんとやら、だわ」
八王子が、眉間にしわを寄せながら首を傾げた。
「よくわかんねーんだけど」
妙子は、それもそうね、というように小さく吐息をついた。
「要するに、マンガやアニメでいうところの超能力よ」
「俺、超能力者?!」
八王子が目を輝かせた。
「…そんな喜ばしいものでもないと思うけど」
俺すげえ、とはしゃぐ八王子を、呆れ顔で妙子は眺めた。
「あれ、でも妙子、なんでそんなこと知ってんの?」
「…わかっちゃうのよ」
妙子の声が、わずかだが沈んだ。しかし八王子は気づかなかったようだった。
「妙子も超能力者?」
妙子は大きく頭を振った。
「私は違う。言ったでしょ、"力"はないって」
「でも、あいつ嫌がることしてたじゃん。なんか振りかけてたっていうか」
「それはこれ」
そう言って、妙子は小瓶を掲げた。
「ちょっと特別な"水"ではあるけど、お守り代わりに持っているものなだけよ」
「へえ」
しげしげと八王子は小瓶を見つめた。
手のひらにおさまるほどの大きさだった。四角く平たい形状。その小瓶はほんのり青みがかっていて、残りわずかになった液体は、そのせいか、とてもキレイな印象を八王子に与えた。
森深い山に流れる、清流のような。
すっ、と八王子の視線を遮るように、妙子の手が小瓶を握った。八王子は、もう少し見ていたかった、と思った。
「お守りかあ」
八王子が改めて妙子を見た。
「妙子はさ、ああいう化け物、よく相手にしてんの?」
妙子が小瓶に視線を落とした。
「今回のようなのは初めてよ。たいていは、小さくて儚い者たちばかりだったから、この水を持っていれば襲われることはなかったし、ちょっかい出されても、この水をかければ消えていったし」
「へえ」
「さすがにもう、これじゃ、対処できないわね」
「けっこう襲われてんの?」
自分に言うかのような妙子のセリフに、八王子はなんとなく、妙子の"今まで"が気になった。
「え?」
小さく驚いて顔を上げた妙子を、八王子はじーっと見つめていた。
その目とぶつかり、わずかにぎくっとすると、妙子は極まり悪そうに目をそらした。
「まあ、そうね…。たいていの人には見えないみたいだから、気づかれることはなかったけど」
「2年になってからも?」
「なんで、そんなこと聞くの?」
八王子の意図を測りかねた妙子が逆に、とがめるような口調で聞き返した。八王子はまるで気づいていないように、軽く首を傾げた。
「だってさ、もしそうだったら、もっと早く声かけてたらよかったな、って思って。俺、なんか"力"があるんだろ?役に立ってたかもしんないじゃん」
そう言って屈託無く笑う八王子に、妙子はわずかに瞠目した。
「…」
ふいに黙り込んでしまった妙子に気づいて、八王子が慌てた。
「俺、また変なこと言った?」
妙子はかぶりを振ると、小さく微笑んだ。
「なんでもないの。それより、"また"って?」
「あ」
八王子が、しまった、という顔をした。
「いや、その、ほら、昼休みにさ」
八王子は頬をぽりぽりとかきながら、言いにくそうに続けた。
「話しかけたら、妙子、怒ったじゃん」
「怒った?」
「目が」
妙子が、昼間のやりとりを思い出したのか、納得顔になった。
「…ああ」
八王子は思い切って聞いてみた。
「なあ、なんであの時、怒ったの?」
「別に…。怒ったわけじゃないわよ。ただ、昇降口でのことを言って欲しくなかっただけ」
「"部室棟に遅くまでいるな"ってやつだろ」
妙子は一瞬、きょとんとした顔になったが、
「ああ、そっちもそうね」
と小さく言って、眼鏡を直した。八王子には、そのつぶやきは届かなかったようだった。
「妙子は、あーいうのの仕業だって、気づいてたのか?」
妙子はひざに肘を乗せ、頬杖をついた。
「なんとなく、ね。あれらには、独特の気配があるから」
「それなら、皆に教えてやればよかったのに」
やや非難めいた八王子の発言に、妙子が溜息をついた。
「八王子くんじゃあるまいし、皆が皆、そんな話を信じると思う?特に、先生たちや警察が」
「…うーん」
「でしょう?」
「確かに」
八王子が顎に拳を当ててうなった。
「自分のこの目で見た今だって、なんだか、嘘だったんじゃないかって感じだもんなあ。見てない奴にはもっと難しいかあ」
ひとり頷く八王子の意見は、まさに世間一般の見方である。特に、幽霊、妖怪といった怪奇現象関係は、たいてい作り話で片付けられる。遭遇した本人にとっては、生死に関わる現象であったとしても、だ。妙子の胸が、ほんのわずか、軋んだ。
しかしその痛みを振り払うように、妙子は調子を変えた。
「いろいろ言われるの、面倒だし。だから八王子くん」
呼ばれて、八王子は妙子を見た。
「今見たことは、黙っててくれない?」
「へ?」
「お願い。ごちゃごちゃ言われたり、いろいろ説明するの、嫌なの」
半分は切実さのこもる声音に、八王子は戸惑った。残り半分は脅し、のような気がしている。妙子の目つきが鋭いのだ。
それでも八王子は頷いた。
「う、うん。わかった。誰にも言わない」
それを聞いて、妙子が息を吐いた。
「ありがとう」
「いや、別に」
ほっとしたのだろう、妙子の表情が少し柔らかくなった。
八王子はそんな妙子の変化を見て、これでいいよな、と思っていた。
(化け物相手じゃ、犯人って言ってもどうにもならないし、捕まえられるかもわかんないし、妙子はずっとあーいうのを見てきたわけだけど、見てない人にはわかんないだろうし、俺もどう話していいかわからないし)
八王子は自分の両手に視線を落とした。まだ、かすかに"風"の感触が残っている気がする。
(これも、説明しようがないもんなあ)
もう一度やれ、と言われても、できるとは思えない。どうして、あんな風に"風を起こす"ことができたのか、まったく覚えていないのだ。妙子は、火事場のなんとか、と言っていた。きっとそうなのだろう。
妙子は俺より頭がいいし。でも。
「その"力"のこと、私も黙ってるから」
八王子が顔を上げた。妙子も八王子の手を見ていたらしい。
「うん。でも」
八王子が照れくさそうに笑った。
「うまく使えれば、今度、妙子が襲われたとき、助けられるのにな」
「―」
妙子がひどく顔を歪めた。泣き出す直前のような顔。
だが、その表情は一瞬で消えた。
目を伏せると、小さく、とても小さく、ありがとう、とつぶやいた。
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