第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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 八王子が自宅に着いたのは、20時になろうという時刻だった。  玄関を開けると、おいしそうな匂いがしてきて、途端に腹ペコであることを自覚した。素早くスニーカーを脱ぎ、ダイニングに顔を出す。 「ただいま」 「お帰り、颯ちゃん」  明るい声が返ってきた。姉の楓が、キッチンに立って鍋をかき混ぜている。  ちなみに、八王子の下の名前は"颯摩(そうま)"という。そのため、家族からは"颯ちゃん"と呼ばれていた。 「腹減った~。夕飯なに?」  覗き込む八王子に向かって、楓のショートボブの髪が揺れた。 「しょうが焼きとカブのスープ。ほら、荷物置いてきなさい。すぐ夕飯にするから」 「はーい」  素直に返事をすると、自室に向かった。途中、洗面所で汚れたジャージを洗濯カゴに放り込む。 「…」  ジャージに葉っぱがついていた。そっと取り除き、ゴミ箱へ捨てる。 (妙子、ちゃんと家に着いたかな)  あの後、妙子と二人で中庭に散らばったボールを拾い集めた。拾ってる最中、背中や腕に手をやっては顔を歪める妙子が気になったので、着替えるまで待ってもらい、一緒に校門を出た。意外にも、帰り道がほとんど同じで、かなりの道のりを並んで歩いた。が、互いにほぼ無言だった。八王子は、ようやく現実に戻ってきたという感覚と、夢を見たような浮遊感の間で、考えたり話したりするのが億劫になっていた。妙子は妙子で、やや青ざめた、疲れた顔をしていた。  思えば、妙子ばかりが化け物に、危害を加えられていたのだ。  八王子は自室に入ると、鞄を床に放り投げ、さっとブレザーを脱いだ。 (家まで送るべきだったかも)  今さらながら、自分の気の利かなさに溜息がもれた。 「ああ、もうっ」  短い髪をぐしゃぐしゃっとかき混ぜ、無理矢理気持ちを切り替えると、手早く部屋着に着替えた。  ダイニングに戻ると、テーブルにはすでに料理が並べられていた。 「颯ちゃん、これ運んでー」 「んー」  カウンター式のキッチンから差し出されたスープ皿2枚を受け取ると、八王子はテーブルに運んだ。姉と自分の席の前に並べる。  食卓には、二人分の食事しか揃っていない。空席が、二つ。  八王子が椅子に座ると同時に、はい、とご飯茶碗も置かれた。楓は自分にもご飯をよそると、エプロンをはずして八王子の前に座った。 「では」 「いっただきます」  二人は軽く両手を合わせると、食べ始めた。  食べながら八王子が空席二つに目をやる。 「父さん達、いつ帰って来るんだっけ?」 「確か土曜日よ。今日あたり、温泉スパ三昧の宿じゃないかしら」 「母さんがはしゃいでたやつ?」 「そ」  楓がスープのカブをひとすくいした。八王子は肉にかぶりつく。 「しっかし、仕事とはいえよく行くよなあ。先々週も出かけたよね」 「まあねえ、夫婦の趣味だからねえ、半分。結婚してウン十年経つっていうのにラブラブで結構だけど、子供達をほったらかして行くのは、どうにかしてほしいわよ」 「そのたびに、家事と俺の面倒は姉ちゃんだもんな」  八王子が同情を寄せつつ苦笑した。 「そうよお。おかげで颯ちゃんのこと、弟っていうより息子みたいな気分だもん」 「へえ、そうなんだ。でも俺、母さんは母さん、姉ちゃんは姉ちゃんだぜ」 「当ったり前でしょ。あんたに"母さん"なんて呼ばれたくないわ」  楓が憮然とした表情で、ごはんを口に放り込んだ。八王子は、あはは、と笑う。  とはいえ、である。八王子はもう一枚、肉に食らいついた。  旅行で不在がちな両親に代わり、物心つく前から八王子の世話をしていたのは、この11歳上の姉、楓なのである。生来より面倒見がよいのであろう。てきぱきと物事をこなし、ある種放浪癖のある両親よりも、しっかりと弟を育て上げた。八王子としても、母よりは姉のほうが甘えやすく、また頼りにしているのも事実なのである。  父はフリーのライターで、旅行好きが転じて、今は紀行文などを書いて収入を得ている。取材と称しては、あっちこっちに旅行しており、趣味と実益を一致させた幸せな人である。当然、家にはめったにいない。幼い頃はそれを寂しく思ったものだが、各地の土産物と父の語る話が楽しみでもあったため、小学校へ上がる頃にはどうでもよくなっていた。後先あまり考えず感覚で行動するタイプである。  そして母は、つかみどころのない人である。コロコロとよく笑い、うんうんとよく頷く。これはすごい、とすぐはしゃぐ。いまだ好奇心が旺盛で、父曰く、 「昔からそうで、家にじっと居られる人じゃない」 そうだ。そして、 「だから、母さんを連れて、取材に行くんだよ、俺は」 とのたまうのを聞いた姉が、父の後頭部に見事な蹴りを入れたのは、八王子8歳の時。母はコロコロと笑っていた。物事を難しく考えないタイプである。  そんな両親の元、11年間を過ごしてきた姉の楓が、弟の誕生をきっかけに「私がしっかりしなきゃ」と思ったのは当然の流れである。その結果、いまや八王子家は、楓が切り盛りしているといっても過言ではないのだ。  だが八王子は知っている。この姉も、やはり親の血を継いでいるのである。直感で決断し、物事はシンプルに考えるタイプ。 (俺は俺で、考える前に動いてるタイプらしいからなあ)  身近な友人らや学校の教師らの評なので、確かであろう。  八王子はスープに口をつけた。  風を自由に操れる一族。風の一族の血筋。 「…」  そうすると、風の一族っていうのは、考えるのが苦手な人の集まりだな、と家族ひとりひとりの顔を思い浮かべながら頷いた。なぜか、間違っていない気がしている。  八王子の不毛な思考を、楓の声が遮った。 「そうだ、颯ちゃん。来月、彼との食事をセッティングするから、覚悟しててね」 「げ、いつ?」 「まだ日にちは決めてないけど、土日になると思う。あの人、今、出張中なのよ。帰ってきてから調整するわ。ちなみに、颯ちゃんのダメな日ってある?」  八王子は考えた。練習試合が入っても、夜までかかることはない。 「練習試合がいつ入るかわかんないけど、夜だったらいつでも平気じゃないかな」 「りょうかーい」  楓の機嫌がよくなった。 「父さん達はどうすんの?」 「呼ばない。ほら、いるとお互いかしこまっちゃうじゃない。気楽な感じで会ってほしいの」 「うーん」 「それに、父さん達はさんざん会ってるもの。颯ちゃんだけまだ。だから結婚前に絶対、一度は顔合わせさせたいの」 「別に、そんなこだわらなくても問題ないでしょう」 「けじめよ、けじめ」 「話すことあるかなあ。姉ちゃんより、年上だろう」 「大丈夫よ、彼、"大人"だから。多少失礼なこと言ったって許してくれるわ」  そう言って楓は、いかにも愉快そうに笑った。 「どうせ気の利いたことなんか言えないよ、俺は」 「まあまあ、素直ってことじゃない。颯ちゃんのいいところよ、それ」 「へいへい」 「ああ、それと、娘さんも呼ぶから」 「いっ」  八王子の顔が引きつった。楓の彼は、子持ちである。 「仲良くするのよ」  悪びれた様子もない楓に、八王子が軽く青ざめた。 「ますますどうしよう」 「大丈夫よお。すごくしっかりした子なんだから。きっと颯ちゃんをフォローしてくれるわ」 「…なんかなあ。姉ちゃん、フォローなし?」 「どうして私が?」 「姉ちゃんだから」  楓が軽く鼻を鳴らした。八王子は肩を落とすしかなかった。  正直なところ、姉の結婚というのものが、自分にどんな変化をもたらすのか、まったくピンときていなかった。今現在のように、食事をしながら気安いやりとりをしていると尚更、である。本当に結婚するのだろうか、と姉を見て首をひねってしまうのだ。  姉の彼氏と、一度も会っていないことも一因かもしれない。興味がないわけではないが、しかし、しっかり者の姉が選んだ人だ。どんな顔かたちだろうと、性根のきちんとした人であろう。  姉より年上だという。実は再婚なのだという。前の奥さんとは死別なのだという。  姉は、変わらない。 (でも)  八王子はごはんを口に放り込んだ。 (俺の知らないところで、いろいろあるのかもしれない)  妙子は、密かに化け物と相対してきていた。教室では、ただの優等生にしか見えなかったのに。  自分の知らないところで、いろんなことは起きている。 「…」  難しい顔をして黙り込んだ八王子に、楓が不思議そうな顔を向けた。 「どうしたの、颯ちゃん。なにかあった?」 「え、なんで」 「珍しく眉間にしわ、寄せてるから」  ギクリとなった八王子に気づかず、楓は自分の指で眉間を押すしぐさをした。 「気になることがあるなら、言ってごらん」  言われて八王子は、内心で唸った。  妙子の話をすると、放課後、八王子が遭遇した出来事を話すことになる。それはまずい。妙子と約束したのだ。言わない、と。そのうえで、今のこのどこかモヤモヤした気持ちを伝えるには、八王子はあまりに言葉を知らなかった。 「颯ちゃん?」 「俺の知らないことがさ、いっぱいあるな、って」 「?」  楓が不思議そうな顔をしたけれど、八王子は曖昧に笑ってやり過ごした。  八王子はこれから、たくさんのことを、一気に知ることになる。妙子に絡む、善悪の区別などつけられないような、複雑で数奇な感情を伴う出来事の中で。  しかしまだ、八王子は何も知らない。   ☆  ☆  ☆
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