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八王子が自宅に着いたのは、20時になろうという時刻だった。
玄関を開けると、おいしそうな匂いがしてきて、途端に腹ペコであることを自覚した。素早くスニーカーを脱ぎ、ダイニングに顔を出す。
「ただいま」
「お帰り、颯ちゃん」
明るい声が返ってきた。姉の楓が、キッチンに立って鍋をかき混ぜている。
ちなみに、八王子の下の名前は"颯摩(そうま)"という。そのため、家族からは"颯ちゃん"と呼ばれていた。
「腹減った~。夕飯なに?」
覗き込む八王子に向かって、楓のショートボブの髪が揺れた。
「しょうが焼きとカブのスープ。ほら、荷物置いてきなさい。すぐ夕飯にするから」
「はーい」
素直に返事をすると、自室に向かった。途中、洗面所で汚れたジャージを洗濯カゴに放り込む。
「…」
ジャージに葉っぱがついていた。そっと取り除き、ゴミ箱へ捨てる。
(妙子、ちゃんと家に着いたかな)
あの後、妙子と二人で中庭に散らばったボールを拾い集めた。拾ってる最中、背中や腕に手をやっては顔を歪める妙子が気になったので、着替えるまで待ってもらい、一緒に校門を出た。意外にも、帰り道がほとんど同じで、かなりの道のりを並んで歩いた。が、互いにほぼ無言だった。八王子は、ようやく現実に戻ってきたという感覚と、夢を見たような浮遊感の間で、考えたり話したりするのが億劫になっていた。妙子は妙子で、やや青ざめた、疲れた顔をしていた。
思えば、妙子ばかりが化け物に、危害を加えられていたのだ。
八王子は自室に入ると、鞄を床に放り投げ、さっとブレザーを脱いだ。
(家まで送るべきだったかも)
今さらながら、自分の気の利かなさに溜息がもれた。
「ああ、もうっ」
短い髪をぐしゃぐしゃっとかき混ぜ、無理矢理気持ちを切り替えると、手早く部屋着に着替えた。
ダイニングに戻ると、テーブルにはすでに料理が並べられていた。
「颯ちゃん、これ運んでー」
「んー」
カウンター式のキッチンから差し出されたスープ皿2枚を受け取ると、八王子はテーブルに運んだ。姉と自分の席の前に並べる。
食卓には、二人分の食事しか揃っていない。空席が、二つ。
八王子が椅子に座ると同時に、はい、とご飯茶碗も置かれた。楓は自分にもご飯をよそると、エプロンをはずして八王子の前に座った。
「では」
「いっただきます」
二人は軽く両手を合わせると、食べ始めた。
食べながら八王子が空席二つに目をやる。
「父さん達、いつ帰って来るんだっけ?」
「確か土曜日よ。今日あたり、温泉スパ三昧の宿じゃないかしら」
「母さんがはしゃいでたやつ?」
「そ」
楓がスープのカブをひとすくいした。八王子は肉にかぶりつく。
「しっかし、仕事とはいえよく行くよなあ。先々週も出かけたよね」
「まあねえ、夫婦の趣味だからねえ、半分。結婚してウン十年経つっていうのにラブラブで結構だけど、子供達をほったらかして行くのは、どうにかしてほしいわよ」
「そのたびに、家事と俺の面倒は姉ちゃんだもんな」
八王子が同情を寄せつつ苦笑した。
「そうよお。おかげで颯ちゃんのこと、弟っていうより息子みたいな気分だもん」
「へえ、そうなんだ。でも俺、母さんは母さん、姉ちゃんは姉ちゃんだぜ」
「当ったり前でしょ。あんたに"母さん"なんて呼ばれたくないわ」
楓が憮然とした表情で、ごはんを口に放り込んだ。八王子は、あはは、と笑う。
とはいえ、である。八王子はもう一枚、肉に食らいついた。
旅行で不在がちな両親に代わり、物心つく前から八王子の世話をしていたのは、この11歳上の姉、楓なのである。生来より面倒見がよいのであろう。てきぱきと物事をこなし、ある種放浪癖のある両親よりも、しっかりと弟を育て上げた。八王子としても、母よりは姉のほうが甘えやすく、また頼りにしているのも事実なのである。
父はフリーのライターで、旅行好きが転じて、今は紀行文などを書いて収入を得ている。取材と称しては、あっちこっちに旅行しており、趣味と実益を一致させた幸せな人である。当然、家にはめったにいない。幼い頃はそれを寂しく思ったものだが、各地の土産物と父の語る話が楽しみでもあったため、小学校へ上がる頃にはどうでもよくなっていた。後先あまり考えず感覚で行動するタイプである。
そして母は、つかみどころのない人である。コロコロとよく笑い、うんうんとよく頷く。これはすごい、とすぐはしゃぐ。いまだ好奇心が旺盛で、父曰く、
「昔からそうで、家にじっと居られる人じゃない」
そうだ。そして、
「だから、母さんを連れて、取材に行くんだよ、俺は」
とのたまうのを聞いた姉が、父の後頭部に見事な蹴りを入れたのは、八王子8歳の時。母はコロコロと笑っていた。物事を難しく考えないタイプである。
そんな両親の元、11年間を過ごしてきた姉の楓が、弟の誕生をきっかけに「私がしっかりしなきゃ」と思ったのは当然の流れである。その結果、いまや八王子家は、楓が切り盛りしているといっても過言ではないのだ。
だが八王子は知っている。この姉も、やはり親の血を継いでいるのである。直感で決断し、物事はシンプルに考えるタイプ。
(俺は俺で、考える前に動いてるタイプらしいからなあ)
身近な友人らや学校の教師らの評なので、確かであろう。
八王子はスープに口をつけた。
風を自由に操れる一族。風の一族の血筋。
「…」
そうすると、風の一族っていうのは、考えるのが苦手な人の集まりだな、と家族ひとりひとりの顔を思い浮かべながら頷いた。なぜか、間違っていない気がしている。
八王子の不毛な思考を、楓の声が遮った。
「そうだ、颯ちゃん。来月、彼との食事をセッティングするから、覚悟しててね」
「げ、いつ?」
「まだ日にちは決めてないけど、土日になると思う。あの人、今、出張中なのよ。帰ってきてから調整するわ。ちなみに、颯ちゃんのダメな日ってある?」
八王子は考えた。練習試合が入っても、夜までかかることはない。
「練習試合がいつ入るかわかんないけど、夜だったらいつでも平気じゃないかな」
「りょうかーい」
楓の機嫌がよくなった。
「父さん達はどうすんの?」
「呼ばない。ほら、いるとお互いかしこまっちゃうじゃない。気楽な感じで会ってほしいの」
「うーん」
「それに、父さん達はさんざん会ってるもの。颯ちゃんだけまだ。だから結婚前に絶対、一度は顔合わせさせたいの」
「別に、そんなこだわらなくても問題ないでしょう」
「けじめよ、けじめ」
「話すことあるかなあ。姉ちゃんより、年上だろう」
「大丈夫よ、彼、"大人"だから。多少失礼なこと言ったって許してくれるわ」
そう言って楓は、いかにも愉快そうに笑った。
「どうせ気の利いたことなんか言えないよ、俺は」
「まあまあ、素直ってことじゃない。颯ちゃんのいいところよ、それ」
「へいへい」
「ああ、それと、娘さんも呼ぶから」
「いっ」
八王子の顔が引きつった。楓の彼は、子持ちである。
「仲良くするのよ」
悪びれた様子もない楓に、八王子が軽く青ざめた。
「ますますどうしよう」
「大丈夫よお。すごくしっかりした子なんだから。きっと颯ちゃんをフォローしてくれるわ」
「…なんかなあ。姉ちゃん、フォローなし?」
「どうして私が?」
「姉ちゃんだから」
楓が軽く鼻を鳴らした。八王子は肩を落とすしかなかった。
正直なところ、姉の結婚というのものが、自分にどんな変化をもたらすのか、まったくピンときていなかった。今現在のように、食事をしながら気安いやりとりをしていると尚更、である。本当に結婚するのだろうか、と姉を見て首をひねってしまうのだ。
姉の彼氏と、一度も会っていないことも一因かもしれない。興味がないわけではないが、しかし、しっかり者の姉が選んだ人だ。どんな顔かたちだろうと、性根のきちんとした人であろう。
姉より年上だという。実は再婚なのだという。前の奥さんとは死別なのだという。
姉は、変わらない。
(でも)
八王子はごはんを口に放り込んだ。
(俺の知らないところで、いろいろあるのかもしれない)
妙子は、密かに化け物と相対してきていた。教室では、ただの優等生にしか見えなかったのに。
自分の知らないところで、いろんなことは起きている。
「…」
難しい顔をして黙り込んだ八王子に、楓が不思議そうな顔を向けた。
「どうしたの、颯ちゃん。なにかあった?」
「え、なんで」
「珍しく眉間にしわ、寄せてるから」
ギクリとなった八王子に気づかず、楓は自分の指で眉間を押すしぐさをした。
「気になることがあるなら、言ってごらん」
言われて八王子は、内心で唸った。
妙子の話をすると、放課後、八王子が遭遇した出来事を話すことになる。それはまずい。妙子と約束したのだ。言わない、と。そのうえで、今のこのどこかモヤモヤした気持ちを伝えるには、八王子はあまりに言葉を知らなかった。
「颯ちゃん?」
「俺の知らないことがさ、いっぱいあるな、って」
「?」
楓が不思議そうな顔をしたけれど、八王子は曖昧に笑ってやり過ごした。
八王子はこれから、たくさんのことを、一気に知ることになる。妙子に絡む、善悪の区別などつけられないような、複雑で数奇な感情を伴う出来事の中で。
しかしまだ、八王子は何も知らない。
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