第一章 彼女が見ていたカノジョのセカイ

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 新緑が眩しく、青い風が清々しい。  大きく息を吸い込むと、身体中に新しい力がみなぎってくる。未来という明るい光りに満ちてくる。  八王子は、中庭が見渡せる木の下に座っていた。隣りでは、李一郎がレポート用紙を腹に抱え、居眠りをしている。八王子は空の青さに目を細めつつ、脇にレポート用紙を置いた。  今は4時間目の生物の授業中である。なぜ外にいるかといえば、サボっているわけではない。植物のスケッチ課題をこなしているところなのだ。辺りを見回せば、クラスメートの姿をそこかしこに見つけることができる。各々が好きな場所で、好きなように課題に取り組んでいる。担当の教師は先ほどやってきて、チャイムが鳴ったら解散していいから、と言い置くとさっさと居なくなってしまった。先生がサボりたかったのではないか、と八王子ですら勘ぐったが、昼時にのんびりできるというのは悪くない、と思い直した。  向こうの花壇の前に、妙子の姿が見えた。理沙子と真里と一緒に、なにやら笑い合っている。  八王子はその様子を、ついしげしげと眺めてしまった。 (すげえなあ、妙子は)  この場所で、2週間ほど前、腕の化け物とバトルしたのだ。  八王子と妙子が化け物に遭遇したあくる日、やはり学校は騒然となった。  部室棟の被害はドアひとつ程度であったが、今度は中庭がぐちゃぐちゃになっていたからだ。花壇の花はなにかが飛び込んだかのように無残に倒され、縁のレンガは所々崩され、砕けている。地面もボコボコと穴が開いている。そして大小様々な、無数の手形。部室棟から続いているその手形の道は、中庭で乱れており、数ヶ所焦げたような跡が残っていた。そして、中庭に面した校舎の壁の一部には、スタンプされたかのように同じ様な無数の手形が、跡になっていた。生徒の中には、呪いだ、祟りだ、と騒ぐものもいた。  八王子自身も、明るい昼間に見る中庭の惨状には、呆然とした。それどころか、遅ればせながら背筋が凍る思いがした。  しかし妙子は、無表情だった。恐怖心も、自分達のしでかした結果だという罪悪感も見られなかった。  その後、学校側は当然警戒を強め、生徒の居残りを一切禁止した。が、新たな事件は起こることなく、当初の部活禁止令の一週間が過ぎる頃には、ゴールデンウィークに突入していた。  野球部はゴールデンウィーク中に練習が再開された。他の運動部も同じような対応で、連休中にもかかわらず、学校は賑やかだった。自然、部室荒らし騒動や中庭荒らし事件への警戒は薄れていき、連休明けには、すっかり事件前の雰囲気に戻っていた。  ただ時折、校舎の壁に残された手形を見て、どうなったんだろうね、とささやき交わすが、その程度に落ち着いていた。  八王子は視線を上げ、壁の手形に目を凝らした。離れているのでぼんやりではあるが、それを差し引いてもだいぶ薄くなっている。 (あいつ、もう戻ってきそうにないよ、な)  無数の腕を持つ異形のもの。八王子の放つ"風"にいくつか腕を切り落とされ、どこかへ逃げてしまったままである。  先日、妙子を捕まえて行方を聞いてみたのだが、 「私が知るわけないでしょう」 と、一蹴されてしまった。確かにそうなのだが、八王子としては気が気じゃないのである。いないならいない、という確証が欲しい。無我夢中だったとはいえ、結果的に追いやった張本人としては、リベンジなどされて再び襲われては堪らない。 (妙子は恐くねーのかなあ)  投げ飛ばされ、首まで締め上げられたのは妙子のほうなのだ。慣れている、ということだろうか。  友人たちと楽しそうにしている妙子。  八王子の胸が、なぜかキリリと痛んだ。 「八王子、李一郎、ちょっと来てくれよ」  呼ばれて、八王子は背後を振り返った。李一郎は眠そうに起き上がると、 「なんだよ、いい気持ちだったのに」 とあくび交じりにつぶやいたが、大人しく顔を上げた。 「なに?」  二人を呼んだ青年、クラスメートの倉田は、気にせず手招きした。 「こっちこっち。この木の上、ちょっと見て」 「?」  八王子たちは立ち上がり、倉田のところへ歩きながら指差すほうを見上げた。裏門の近くの木のひとつ。新緑が青空によく映える。八王子はまぶしそうに目を細めた。 「ん?」  ふと、かぼそい声が聞こえた。李一郎の耳にも聞こえたらしい。見上げたまま目を眇めた。 「…ネコ?」  子猫の声のようだ。みゃあぁ、みゃあぁ、と細く高い鳴き声が、倉田に近づくに連れて大きくなった。  倉田は頷いた。 「降りられなくなったんじゃないかな。さっきから鳴いてるんだ。ほら、あの枝のあたり。白い毛が見えるだろう?」  八王子は倉田の視線を追って、首を傾いだ。  確かにそれっぽい、小さなかたまりが見える。 「あ、ホントだ」 「確かにいるなあ」  李一郎も、目の上に手のひらを当てながら頷いた。 「肩車すれば届くと思うんだよね」  倉田が幹に沿って手を伸ばしながら言った。背伸びしただけでは一番低い枝にすら届いていないが、確かに肩車すれば、子猫のいる枝に届きそうだ。  八王子はふむ、と腕を組んだ。さて、誰が下になって肩車をするか。  八王子と倉田の目が合った。そして同時に、李一郎を見る。 「…へいへい」  李一郎は気配を察したのか、諦めたようにブレザーを脱いだ。 「俺が下になればいいんだろ。でも上に乗るのは倉田にしろ」  ブレザーを八王子に渡し、お前は無理、と言った。倉田は文化部かつ八王子より小柄である。倉田がにやりとした。 「李一郎、話わかるね~。おーちゃんと比べたら、お前のほうがタッパあるからな」 「八王子は案外細いの知ってるし。スタミナはあるけど」 「気にしてることを…」  八王子はガクッとうなだれた。倉田よりは体格はいいが、同じ部の李一郎と並ぶと少々華奢な印象になる。練習量はそう変わらないはずなのに、と常々思っている。  そんな八王子をよそに、倉田は靴を脱ぐと、待ち構えていた李一郎の肩にまたがった。 「いいか、上がるぞ」 「オッケー」 「せーのっ」  よっと、李一郎が幹に手を突きながら立ち上がった。そろそろと立ち上がる李一郎の上で、倉田もバランスを取る。 「いけそう?」  八王子が倉田に声をかけた。 「バッチシ」  すっかり立ち上がった李一郎の上で、倉田は子猫のいる枝に手を伸ばした。子猫の鳴き声が激しくなった。 「よしよし、恐がんなって。いま降ろしてやっから」  宥めるように声をかける。  みゃあっ、と怯えた子猫の声が聞こえた。 「…しかし子ネコって、なんで降りられなくなるってわかってるのに、高いところに登んのかなあ」 「八王子、そんなことどうでもいいから、ちょっと、俺、支えるとか、ねぎらうとか、してくんない」  ぼやんとつぶやいた八王子に、ややイラついたような声で李一郎が言った。よく見ると、わずかに膝が震えている。 「けっこう、重い~~」 「でも、どうもできなくね?」 「じゃ、せめて、くう、励ませ」 「がんばれー、りいちろー」 「なんかむかつくっ…」  歯を食いしばりながらも憎まれ口をたたく李一郎に、八王子は苦笑した。李一郎の肩の上では、倉田がちょうど子猫を捕まえるところだった。 「逃げるな、こら。降ろしてやるだけだから、そっち行くなっ」  倉田が李一郎の頭を膝で挟んで身体を伸ばした。 「おわっ、くるしっ、倉田、苦しいっって」  李一郎の足元が危うくなる。倉田の身体が大きく揺れた。 「李一郎、危ねっって」 「ええい、まだかよ!」 「もうちょい。ネコが逃げんだよ」 「お前の顔が恐いんだろ」 「失礼な」  上と下での言い合い。その間にも、倉田は腕を伸ばし、そしてようやく縮こまって後ずさろうとする子猫を鷲づかみした。 「よし、捕まえたっ、と、え」 「ああっ!?」  倉田の身体が大きく後ろに反り返った。とっさに跳ね上がる足首を李一郎は掴んだ。が、傾ぐ勢いのほうが強かった。堪えられず、李一郎が2、3歩後ずさる。 「李一郎!倉田!」  八王子が倒れそうになる李一郎の背中を抑えた。  時、すでに遅し。 「うわああああ!!」 「みゃあああああ」  子猫ともども、3人が折り重なって転がってしまった。  突然聞こえた叫び声に顔を見合わせたのは、比較的近くにいた妙子、理沙子、真里の3人である。 「なに、いまの」  妙子が眉をひそめると、真里がそれを受けて、 「男子ら、なんかやったのかしら」 と、理沙子を見た。 「行ってみよう」  一番好奇心の強い理沙子は立ち上がると、残る二人を手招きしつつ、いそいそと行ってしまった。  妙子と真里は肩をすくめたが、仕方ない、とつぶやくと理沙子の後を追っていった。  声の聞こえた木の側までくると、八王子を一番下に敷き、李一郎と倉田がもつれるように倒れているのがわかった。 「どうしたの?」  理沙子はその様子に驚きながらも、まずは倉田を起こそうと手を差し伸べた。 「いたたたたたた…、まいったぜ」  倉田は理沙子の手を取り、半身を起こした。続いて、倉田の下にいた李一郎がごろりと転がり、手をついて起きあがる。 「おーちゃん、生きてる?」  真里の問いかけに、仰向けに目を回していた八王子も、かろうじて頷いた。 「な~ん~と~かぁ~~」 「あんたら、なにやってんのよ」  真里が呆れ顔で3人を順に見る。座り込んだままの倉田が、ひょい、と白い子猫をかかげた。 「いやさ、こいつ助けようとして、李一郎の肩借りたんだけど、バランス崩して落ちた、落ちた」 「お前が変な動きするからだろう」 「そこは耐えろよ、運動部」 「ムチャ振りだ」  倉田と李一郎が不毛な言い合いを始めようとしたその横で、理沙子の目が輝いた。 「っっっ、かあわいいぃぃぃ」  倉田の手から半ば奪うようにして子猫を腕に抱くと、理沙子は白くやわらかい毛に頬ずりした。 「おい、理沙子」 「いやあん、めちゃかわいい」  語尾にハートマークが付いている、と妙子は思った。理沙子の腕の中で、子猫は嬉しそうに、みゃあ、とひと鳴きした。真里も理沙子の腕の中の子猫を覗き込み、頬を緩めている。猫ののどがごろごろと鳴った。 「いきなり大人しくなりやがったぞ、あのネコ」  倉田が半分むくれて、李一郎をこづいた。助けたのは俺なのに、と言わんばかりの顔である。ありゃオスなんだよ、と李一郎が肩をすくめて笑った。  ちぇ、と言って髪を掻き揚げた倉田を、苦笑して見やった妙子が、おや、という顔をした。 「肘のところ、血が出てる」 「え?」  倉田が自分の左肘をのぞくと、まくった袖の下に赤い血があふれている。ひっくり返った拍子に地面とこすれたらしい。派手に擦りむけている。 「うわ、ホントだ。なんかじくじくすると思ったんだ」 「洗ってきなさいよ。あっちに花壇用の水道があったはずよ」  真里が教えると、倉田は、いてぇ~、と慌てて指差す方へ駆けていった。 「痛そうだなあ」  ようやく起き上がった八王子は、倉田を目で追った。左肘を突き出し、水道の水をかけようと苦心している。妙子が八王子をちらりと見た。 「…八王子くんだって、額、切れてるわよ」 「まじ?」  八王子が額に両手を当てた。ここ、ここ、と李一郎が笑いながら指差す。八王子の指が傷に触れた。 「いちっ」  ひりっとした。八王子は自分の額を見ようとするかのように眉を寄せている。自然と上目遣いになる。 「李一郎がこけたときに、指で引っ掛いたんじゃないのか?」 「俺のせいかよ。俺だってほら、手のひら擦りむいた」  土にこすれたように、浅い擦り傷が手のひらの厚い部分に広がっている。血は出ていないが、赤くささくれ立っており、痛そうだった。 「俺も洗ってこよ」 と、李一郎は立ち上がると倉田のところへ駆けていった。 「名誉の負傷?」  理沙子と真里が顔を見合わせて、くすくすと笑った。  そんな二人をよそに、妙子はブレザーのポケットから小さなポーチを取り出した。中からバンドエイドを取り出すと、八王子に差し出す。 「ほら」 「あ、あぁ、サンキュ」  ぶっきらぼうな言い方だったけれど、差し出されたバンドエイドを素直に受け取った八王子を見て、妙子が小さく微笑んだのを、八王子は見逃さなかった。 「おーちゃん、自分で貼れる?」  からかうように理沙子が言った。  出来るさ、と自信満々に言ったものの、八王子はバンドエイドを持って傷口をうろうろ探した。 「あれ、ここ?どこだ、傷口?」 「もっと右よ、右」  真里が声をかけるが、子猫の前足で遊びながらである。わかんね~、と八王子がおたおたしていると、妙子がハシッとバンドエイドをもぎ取った。 「え」 「じっとするっ」  なかなか貼ることができない八王子に業を煮やしたのだろう。一喝すると、妙子は手際よく八王子の額にバンドエイドを貼った。右の眉毛の上の辺り。八王子が軽く触った。  そして、嬉しそうににかっと屈託無く笑う。 「サンキュ、妙子」 「…」  かなり不本意そうな顔をした妙子をみて、理沙子が笑った。 「妙子ってばやっさし~」  妙子は理沙子を軽く睨んだが、理沙子は素知らぬ顔で子猫を持ち直す。真里も笑いを堪えている。 「ったく」  妙子は嘆息した。  そこへ、李一郎と倉田が戻ってきた。彼らにも、妙子はバンドエイドを渡した。 「ありがとー妙子。気が利く~」  李一郎が素直に喜んだ。  妙子は少し、極まり悪そうな顔をし、半分自棄気味に、 「ついでにシャツも、直すけど」 と言って、3人のシャツを見やった。  男3人、自分達の有り様を改めて見直し、互いに苦笑した。  倉田は左袖に引っ掛けたような穴が開き、李一郎と八王子は2つほどボタンが取れかかっている。ちょっと無様な姿だった。  李一郎がおずおず、といった様子で妙子を見た。 「まじで、いいの?」  妙子は溜息まじりに、ポーチからソーイングセットを取り出した。 「構わないわよ。その格好じゃ、午後の授業も気になってままならないでしょ」 「助かる!」  言うが早いか、倉田がシャツを脱いで妙子に渡した。 「お願いしまっす!」  妙子は受け取ると、近くの花壇の縁に腰掛けた。 「今日は妙子、大判ぶるまいね」 「ま、実はこーいうの得意なんだし、いいんじゃない」  意外そうに妙子を見る男子3人をよそに、理沙子と真里がなにやらにやにやしている。妙子はシャツの穴をふさぎながら、居心地悪そうな表情を見せた。 「はい、できた」 「はやっ」  差し出されたシャツを受け取り、倉田が掲げた。穴は綺麗にふさがっており、よく見ないとわからない。 「おぉすげえ」 「へえ、妙子、器用だなあ」  倉田のシャツを李一郎ものぞき込んで素直に感心した。妙子は黙ったまま、今度は李一郎のシャツのボタンをつけ始める。  針に糸をすっと通し、ひと針刺すと、手馴れた様子でボタンをつける。  いつの間にか八王子は妙子の隣りに座り、おぉ~とつぶやきながら、もの珍しそうに妙子の指先を見つめていた。 「男子は知らなかったでしょうけど、妙子って女子力高いのよねー」 「面倒見もいいし」  なぜか得意そうな顔で真里が言うと、理沙子も子猫を撫でながら相槌をうった。 「そうなんだ」  倉田と李一郎の妙子を見る目が、明らかに変わっていた。どちらかといえば妙子は、堅物そうで大人びており、近づき難い雰囲気をまとっている。その所為か、1年の時も同じクラスだった李一郎でさえ、親しく話したことがなかった。たいてい独りで過ごしていた妙子。だから現在、真里と理沙子と3人でつるんでいるのが意外ですらあったのだが。 「なんか妙子、"女子"ってカンジ」 「うん。それに案外、ハナシわかる奴なのかもな」 「いやあ、意外だあ」  しきりと男子二人が感心する。ふふふ、と理沙子と真里が嬉しそうに顔を見合わせた。 「でも男子に妙子はやらないよぉ。女子だけのものですからねー」 「はあ?なんだそれ、わけわからんぞ」 「妙子を便利に使ってもらっちゃ困るって話よ」  うんうん、と理沙子も頷いていて、男子たちにベーと舌を出した。倉田は苦笑し、李一郎は「感じワルー」っと憎まれ口で応戦した。  そんな会話が嫌でも耳に入ってくる妙子は、ますます居心地悪そうに嘆息しながらも、黙々とボタンを留めた。 「はい、次」  李一郎にシャツを返すと、今度は隣の八王子へ手を差し出した。 「八王子も」 「え、俺?平気だよ?」  いつの間にか呼び捨てにされてる、と八王子は思った。 「そこのボタン、取れそう」 「うお、ホントだ」  シャツの下のほうのボタンが、だらりとぶら下がった状態になっている。 「ボタン落とさないように脱いでよ」  妙子はなぜか不機嫌そうだ。  八王子は妙子に言われたとおり、そっと白いシャツを脱ぎながら、ちらりと理沙子を見た。すっかり懐いた子猫を抱いたまま、にやにやとこちらの成り行きを見守っている。  八王子は妙子にシャツを渡した。 「そしたら、お願いします」 「…」  妙子はちらりと八王子の顔を見たが、なにも言わず、取れかかったボタンの糸を付け替えるために切った。 (なんていうか…、不機嫌な妙子って初めて見た)  妙な関心を抱いて、八王子は改めて妙子を眺める。あまり感情的な姿を見たことがない。笑っていてもどこか控えめ。そんな妙子がいま、ひどく不機嫌なのである。新鮮だった。   ☆  ☆  ☆
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