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「八王子がすっかり懐いてる?」
李一郎はすっかり直ったシャツを着た。
「しかしホント、妙子女史、頭いいだけじゃなかったんだなあ」
「まあねえ。妙子、お父さんと二人暮らしだからね。家事一切を小さいときからやってるって言ってたし」
「へ、そうなの?」
「理沙子」
妙子がやや咎めるように理沙子を見た。
「別にいいじゃない。隠してるわけじゃないんだし」
「そうだけど」
言いふらす話でもない、と妙子は内心思ったが、言葉にはしなかった。
「それに、もうじき父子家庭ともおさらばでしょ」
真里が言った。
妙子が一瞬ギクリとしたように、針を持つ手を止めた。
隣りに座っていた八王子は、そんな妙子に気づいて首を傾げた。
「どういうこと?」
倉田が妙子と真里を交互に見た。李一郎も不思議そうな顔をしている。
「妙子のお父さま、近々再婚するんですって。ね、そうでしょ、妙子」
真里が妙子を見た。倉田と李一郎も、そうなの?、と妙子を見る。
妙子は、それぞれの顔をゆっくり見回すと、
「…ええ」
と、観念したかのように頷いた。そしてなぜか、八王子をちらりと見た。
八王子は目が合うと、それはおめでたいね、と笑った。
「…」
妙子がなんとも言えない複雑な表情を一瞬見せた。驚きと不信と、戸惑い。だが、その表情はすぐに消えた。そして曖昧に笑うと、またシャツに視線を戻してしまった。
「これで妙子も家事から解放。部活とか始めないの?」
妙子は目だけを理沙子に向けた。
八王子と李一郎は、逆に妙子を見た。妙子が今まで部活に入っていなかったのは、そういう事情だったのか、と納得したのだ。だが、その割には遅くまで校内に残っているのだが、それについては忘れている二人だった。
妙子は糸を小さな携帯用裁ちばさみで、ちょん、と切った。そして、シャツを目の前に掲げて直し具合を確かめながら、他にやることがあるの、と素っ気なく答えた。
「まったぁ、そうやって秘密主義」
理沙子と真里が拗ねるように頬を膨らませる。が、妙子は、はいはい、と聞き流した。
(やること…)
八王子は改めて妙子の横顔を見つめた。
あの夜の化け物に関係することだろうか。
聞きたい、と思ったが、かろうじて堪えた。李一郎たちが側にいる。
(今度、誰もいない時にきいてみよう)
妙子の、まるで魔法のような針さばきに見入りながら、八王子は思った。
「そういやさ、八王子の姉貴も結婚するんだよな」
唐突に、李一郎が八王子に聞いてきた。
八王子が、うん、と頷いた時、妙子の手が、またわずかに止まった。が、すぐに動きだし、破れた部分をまつっていく。
八王子が顔をあげる。
「6月に結婚式」
「ジューン・ブライドか、素敵ね」
理沙子がうっとりとした顔になった。素敵なの?、と八王子がきょとんとした。ロマンス云々は、八王子の興味対象外である。
「そういえば、今度の土曜、一緒に食事するんだった」
「お姉さんの旦那さんと?」
まだ旦那ではない。
「うん。俺、まだ会ったことないんだよな。なんか、どうしよう」
八王子は言いながら空を仰いだ。本気で困っているらしい。
「今まで会ったことないの?」
「うん、ない。そういえば名前も知らないや」
「!」
八王子の言葉に妙子が反応した。ひどく驚いた顔で、八王子を見る。
え、なに、と戸惑う八王子に、妙子はなにか言うかのように口を開いた。が、すぐに軽く首を振ると、妙に冷めた目で何事かをつぶやくと、再びシャツに視線を戻してしまった。
「?」
「でも八王子」
李一郎が呼んだ。八王子は、妙子のつぶやきも気になったが、李一郎のほうに顔を向けた。
「お前、姉貴がいなくなったら、飯とかどうすんの?お前んちの親、ほとんど家に居ないんだろ」
「ああ、それね。なんか、姉貴、結婚したら相手の家に住むんだけどさ、その家、俺んちのけっこう近くなんだって。だから、ご飯食べに来ていいって」
「なに、それ。すごくない?」
理沙子が驚いたように言う。
「そうなのかな。なんか出張の多い人らしくてさ、姉ちゃんも寂しいだろうからってことらしい」
「奇特な人ねえ」
「でもそれってさ、やっぱ、お前に遠慮してそう言ってんじゃないの?」
「そうかなあ」
「可能性はなきにしもあらず、よね。ね、妙子」
「え、ああ、そうね」
理沙子の呼びかけに、妙子は曖昧に笑って同意した。
そうなのかなあ、と八王子は再び悩まし気な表情になった。そうそう、と理沙子をはじめ、倉田や李一郎も顔をしかめる。
妙子が、シャッと生地を撫でた。
繕い終わったらしい。そして、針と糸をソーイングセットに戻しながら、意外にも優しい言葉をかけた。
「もしかしたら、本気で言ってくれてるかもしれないじゃない」
思いがけない妙子のフォローに、八王子が顔を輝かせた。
「そっかな」
妙子が八王子に、繕い終わったシャツを渡した。
「今度会うんでしょう。直接、聞いてみればいいのよ」
「そっか、そうだよな。うん、そうする、聞いてみる」
八王子の顔が瞬く間に明るくなる。そうして受け取ったシャツを着ると、屈託ない顔を妙子に向けた。
「ま、がんばれ」
そんな様子の八王子を見て、倉田と李一郎が苦笑した。理沙子と真里も肩をすくめたものの、八王子の笑顔につられて、優しい顔になる。
そんななか、当の妙子だけは秘かに溜息をついていた。
ふと、理沙子の腕の中で、子猫が鳴いた。先ほどまでの甘えた声ではない。
妙子が気づいて、子猫を見た。
耳を立て、目を凝らし、まるで周囲を警戒するかのように小さく震えている。
妙子の目元が、わずかに引き締まる。
「ん、どうした?」
静かになった子猫ののどを、理沙子が撫ぜた。みゃう、と小さくのどを鳴らし、子猫は目を細めた。
チャイムが鳴った。
「お、飯だ、飯だ。戻ろーぜ」
李一郎が八王子の肩を叩いて立ち上がらせると、他の面々も、ノートを手に歩き出した。
「理沙子、猫どうするの?」
「んー、とりあえず教室に連れて行って、箱かなんかに入れておく」
「飼うの?」
「飼いたい~」
理沙子は子猫を持ち上げ、頬ずりした。
妙子がその後ろを歩く。
子猫はいまだ耳を立て、どこかを見ている。
妙子はそんな猫の視線を追うように、背後を振り返った。
体育館の屋根が見える。そしてその向こうに広がる、青く澄んだ初夏の空。
わずかに眉をひそめたが、そのまま黙って、校舎へと戻っていった。
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