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同じ頃、学校近くの国道を黒いハイエースが走っていた。運転手は24~25歳の青年。冴えない顔色だが、人の好きそうな口元をしている。その青年は時折、助手席に座る女性をなだめるように話しかけていた。
「この後、2件、まわりますんで、近くでお昼取っときましょう」
赤信号で車を停めながら、青年が言った。
助手席の女性は眺めていた窓から視線をはずし、隣を見た。
「ねえ、ランチ代も出ないロケハンって、せこすぎない、ねえ、吉河くん」
強く波打つミディアムの髪をかきあげる。不機嫌さを隠そうともしない。
あはは、と吉河と呼ばれた青年は、渇いた笑いを返した。彼女が"くん"付けするときは、かなり機嫌の悪いときなのである。
「オ…オレの払える範囲で、お、おごり、ます…」
「よく言った」
女性は満足そうに頷いた。
吉河はハンドルに顎を乗せ、小さく深い溜息をついた。某テレビ局のしがないADである。給料に余裕があるわけではない。しばらくコンビニのおにぎりをひとつ減らさなければならないな、と思うと切なくなった。
信号が青に変わった。車がゆっくり滑りだす。
「どこか良さそうな店あるかなあ」
吉河がハンドルに顎を乗せたまま、窓の外をのぞきこんだ。少し機嫌のよくなった女性は、片肘をドアにもたせてその様子を眺めていた。と、その時ふいに、フロントガラスの向こうに、大きな木と建物の姿が目に留まった。
わずかに女性の眉がひそめられる。
「どうしました?」
女性の視線に気づいて、吉河がちらりと目だけを動かした。そして、女性の視線の先にある建物の姿に気づくと、にやりとした。
「もしかして、なんか見えちゃいました?」
吉河の口調に、なにやら嬉しそうな含みを感じ、女性がうんざりした表情を見せた。しかし吉河は気にせず続ける。
「今日は行きませんけど、たぶん来週行きますから」
「…どこによ」
「あそこに見える、大きな木がある建物です。高校なんですけどね。夏澄さんも今見てたでしょ。なんか気づいたんじゃないですかあ」
「…」
吉河が意味深に、またにやりとする。
助手席の女性―夏澄かれんという―は、忌々しそうに吉河をいちべつすると、くたっとシートにもたれた。
「うわあ、マジっぽいなあ。こりゃ、来週は準備万端、整えて来なくちゃあ。いしししし」
吉河はひとりウキウキし始めた。夏澄がまた、ふてくされたように頬杖をつく。
「どうでもいいけど、昼、もっとここから離れた所にしてよね。ああ、いやだ」
最後は誰に言うともないつぶやきだったが、吉河はしっかり聞いていた。こりゃ本物だあ、と叫ぶや、携帯電話を取り出しどこかへ電話を入れ始めた。
夏澄はますます不機嫌になりながら、シートにもたれた。吉河コロス、と不遜なことを思っていたのだが、当の吉河は興奮気味に電話で話していて気づかない。
「そう、その高校のネタ。え、まだ許可とれないの?頼むよ~。資料もね、できるだけ集めといて、うん…」
その高校とは、妙子たちの学校だった。
☆ ☆ ☆
八王子は電車を降りると、小走りに改札へ向かった。紺のTシャツに薄手のジャケットをはおる、休日スタイル。
「颯ちゃん」
改札を出てキョロキョロと見回していたところに、横から声をかけられた。楓が手を振っている。
「ごめん、姉ちゃん、遅れた」
柱にもたれるようにして待っていた楓に近づくと、八王子は謝った。
「10分くらい平気よ。さっき電話したら、茂さんたち、先にお店に入ってるって。私たちも行きましょう」
「うん」
楓の後ろについて、八王子も歩き出した。
楓は、薄いグリーンのシャツに、膝丈のフレアスカート。ずば抜けて美人というわけではないが、比較的整った目鼻立ちをしている。明るく健康的な性格がにじみ出ているような表情は、他者に好感をあたえるのか、異性にも同性にもモテた。
その楓が決めた相手。
いったいどんな人だろう。
ウキウキとした足取りの楓を追いながら、八王子は笑った。
「なんか楽しそうだね」
「そりゃそうよ。茂さんに、やっと件の弟を見せられるんだもん」
「ロクなこと、話してなさそうな予感が」
「大丈夫、大丈夫。彼、大人だから」
楓はにやにやと笑った。いったいどんな話を聞かせたのだろう。八王子は前を行く楓を見て、ついつい溜息をついた。まあ、たいていのことは姉に話してきたのだから、どうしたってかなわない。弱みだらけだ。
(どうせうまくふるまえないんだし、いっそ気が楽か)
そう思い直すと、肩の力が抜けるのがわかった。
楓が、路地の手前で八王子を待っている。こっち、と呼ぶ楓に、八王子もいつもの笑顔で応じられた。
路地を入って間もなくのところに、手書きの看板のある、洋風なお店がある。そこが、今日の会食の店だった。
「そういや、姉ちゃん、相手の人の娘って、いくつぐらいなの?」
入り口のドアを開けてやりながら、八王子がふと思い出して聞いた。
「あれ、言ったことなかったっけ?」
「うん、覚えがない」
「そっか、そうかもね。えっとね、颯ちゃんと同い年よ」
出迎えた店員に、待ち合わせなんです、と答えながら、当たり前のことのように言った。
八王子は入り口で固まった。
「まじ?」
呆然としてつぶやく。にわかに頭が真っ白になった。小学生くらいと思っていたのだ。
楓より年上といったって、せいぜい2~3歳、いって5歳と思っていたのであるから、それも仕方のないことである。しかし、自分と同い年の娘がいるとなると、いったい相手はいくつなのか。自分の両親が50歳過ぎ。自分は歳がいってからの子供という分を差し引いても、高校生の娘がいるということは、40歳くらいか。よほど若く、それこそ20歳くらいでの子供であれば、30代後半もありえるが…。
それでも、楓との年の差、ひとまわり。
八王子は慌てて楓の腕をつかんだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと姉ちゃん」
「なあに、大きな声出さないの」
たしなめつつ、向こうの席だってよ、と店の奥を指さす楓に、八王子は追いすがった。
「待って、ちょっと、高校生の娘って、姉ちゃんの彼氏、めちゃくちゃ年上?予想外すぎる。どうしたらいいかわかんない」
「なに言ってんの?」
パニック気味の自分を気にする風もない楓に、八王子はますます動揺した。
「姉ちゃんっ」
小さく叫ぶ八王子。しかし楓は、彼氏の姿を見つけて顔をほころばせた。
「茂さん」
八王子も顔をあげた。
前方、壁際のテーブル席に、柔和な笑顔の男が座っている。男は非常に若く見えたが、佇まいは落ち着いていて、そしてなにより、学者然とした風貌をしていた。ワイシャツを着ているのだが、サラリーマンには見えなない。男の隣りには自分と同じ年頃らしい少女が座っている。陰になっていて、顔がよく見えない。
楓はそのテーブルに近づいていった。八王子は絶望的な気分で、楓に続いた。
(これはもう、義理の兄貴ができるとかじゃなく、父親、いやせめて叔父ができるみたいな、そんな感じじゃないか~~)
心の中で叫んでいた。とっさに作った笑顔も、こころなしか頬が引きつる。
「おまたせ。遅くなってごめんなさいね」
「いや、大丈夫だよ。さ、座って」
「ええ」
笑顔で迎える茂に促されて、楓が手前の椅子をひいた。茂の前の席だ。そして八王子を奥の席に促す。楓は横を通り過ぎる八王子を小さくこづき、固くならない、と囁いた。八王子は、弱り切った笑い顔しか返せなかった。
ウェイターがやってきた。お食事を出してもよろしいですか、と聞いてくる。
「ええ、お願いします」
茂の声音は、紳士的だった。穏やかな人柄がにじみ出ているようだ。
「今日はコースにしちゃったの、かまわないよね」
楓が八王子をのぞきこんで言った。
「うん」
まったく異論はない。料理を選べる気がしない。八王子の心中など気づいた様子もなく楓も頷いた。そして茂を見ると、ふわっと、今日一番の笑顔を見せた。
「ね、大丈夫だったでしょ」
「ああ、よかった」
茂も微笑み返した。お似合いのカップルとは、こういった何気ないやりとりに親密さが表れる。
料理を勝手に決めたことを、少し心配していたらしい茂が、八王子を見た。目が合う。
「会えて嬉しいです。えっと、颯摩、くん」
「あ、はいっ、こちらこそっっ」
八王子は慌てて座ったまま頭を下げた。
(うわ、なんか、感じのいいオトナだ)
姿勢を戻しながら、あらためて八王子は茂を見た。茂も気づいて笑む。
その笑顔が優しく、八王子も自然と笑い返していた。いつの間にか、パニックも治まり、緊張感がほぐれている。
「へへへ」
「もう、変な笑い方しないでよ」
落ち着きを取り戻した八王子を見て、楓は苦笑した。本当にこの子はわかりやすい。
もう大丈夫だな、と密かに思った。
「茂さんはね、大学の教授なの。地域伝承なんかを研究しててね。えっと先月はどこに行ったんだっけ?」
「秋田だよ」
「そう、秋田。あっちこっち行ってて、忙しいのよ」
「へえ、すごいですね」
八王子には、ちいきでんしょーがどんなものなのか、さっぱり見当がつかない。しかし、大学の先生というのには納得がいった。どうりで、サラリーマンには見えないわけだ。
「で、お隣が、茂さんの娘さん」
八王子が目の前に座る少女に視線を移した。そして、そのまま釘づけになった。みるみる目が大きく開かれ、ぽかんと口が開いていく。
楓がそんな八王子に気づかず、紹介を続ける。
「颯ちゃんと同じ、高校2年生。そういえば、どこの高校行ってるの?颯ちゃんはね、家の近くのF高」
少女はそれをきいて、ふわりとほほ笑み返した。ゆるく編んだ髪を、片方の肩に流している。
「私も同じ高校です」
「え、そうなの?やだ、すごい偶然」
「お前、なにも言ってなかったじゃないか」
はしゃぐ楓。一方、茂は心底驚いたようだった。
「気づいてなかったわけじゃないだろう」
やや非難めいた茂の言葉に、少女は悪びれた様子も見せず、軽く眼鏡を押し上げた。
「私だって今のいままで確信はなかったのよ、こんな偶然」
「そりゃそうよね」
楓が頷いた。茂はまだ疑わしそうに娘を見やる。
「お前…」
「しかも、クラスメートなんですもの」
今度は茂もぽかんと口を開けた。楓も、まあ、と目を大きく見開く。
少女はにっこりと八王子を見た。
「ね、八王子くん」
八王子は口を開けたまま、つられるように頷いた。そして、ゆっくり首の後ろに手をやると、ようやく少女の名を口にした。
「…妙子」
妙子が笑顔のまま軽く首を傾げた。八王子は妙子の目を見た。
そして。
「えぇぇーーーーーーっっ!!」
店内の人々が一斉に八王子たちのテーブルを振り返る。ウェイターも一瞬動きを止める。
八王子は妙子を指差し、固まっていた。
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