彼女の事情

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 境内の池で鯉にえさをあげたとき、お互いのことを少しだけ話した。  彼はこの近くに住む、二十歳の大学生。私を同い年と思ったらしく、五つ上なのを知ってからは口調を改めようとしたけれど、そのままにしてもらい、かわりにこちらが気安くなる。 「一度来てみたかったんだ。ありがとう」  並んで大いちょうを仰ぐ。私としては大満足でも、彼は残念そうに小さくため息。 「色づくのは来月かな。まだちょっと早かったね」 「そんなことないよ。このタイミングでよかった。すごくいい気晴らしになったし」  こちらを向く気配がして、私も顔を動かす。見つめてくる彼の目が穏やかに細まる。 「よかった。けっこう心配だったから」  いちょうの見頃までも心を砕いてくれていたなんて、どれだけいい人なんだ。さっきは小悪魔的とか思ってしまい大変失礼しました。顔のつくりがほんのり艶っぽいだけで、内面はむしろ天使だった! 「そこまで気をつかわせちゃってごめんね。でも黄葉前も、これはこれでオツっていうか」 「じゃなくて。お姉さんが回復してよかった、ってこと」  みるみるうち頬が熱くなる。勘ちがいしたのもだけど、嬉しいやら照れくさいやらで。  そんなの言われるなんて思ってもみなかったし、誰かに言われたことなんて……もしかしたら、はじめてかもしれない。 「……うん、ありがと」  浮かれてしまいそうなのを我慢、赤面をさとられないよう顔をそらす。  ひゅうと風が吹き、彼の声が宙に舞う。 「寒くなってきたね」  いつしか薄雲の夕暮れ。――そろそろ潮時だ。  一駅ということもあり電車には乗らず、このまま歩いて帰ることにした。  わかれ道にさしかかり「それじゃあ」と別辞をのべる彼に、お礼をさしだす。 「いま持ちあわせがこれしかなくて。でも、すっごく美味しいお店のだから、おすすめで」  小腹がすいたとき用の、焼き菓子専門店のフィナンシェとガレット。発酵バターが使われた、味わい深い逸品だ。 「今日は本当に、ありがとうございました」  なごり惜しさを胸に押しこめ、深く頭をさげる。最悪の一日だと思っていたけれど、おかげさまで帳消しどころか大逆転だった。  しみじみ感謝しながら帰路をたどる。刻一刻と陽はかたむき、肌にふれる空気も冷やかになってきたけれど、胸の内側はぽっかぽか。この幸福感を糧に、むこう一年くらいは頑張れそうだ。  それにしても、なんの見返りも求めない善良な人って存在するもんなんだなぁ。……まさか本当に天使だったりして。  来たときとは雲泥、軽やかな足どりで進む。と、思いもよらず、 「待って!」  声が、追いかけてきた。
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