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 彼に隠し事をされていることは、薄々勘付いていた。  おそらく、身分というか正体に関することで、けっこうな重大事であろうことも想像が付いたが、楓は敢えて追求しなかった。非常に魅力的なサンプルではあったが、プライベートなことだし、当初は彼とそれほど深く関わることもないと考えていたからだ。が、途中からはもう、そんな事はどうでもよくなった。  別に彼が何者であっても、どうでもいい。  もう、どうしようもない。  測定の待ち時間、楓は研究室の作業台にばらっと写真を撒いた。  彼の投球テストから、一緒に出掛けた先で撮ったものが主だ。写真は家族の影響で始めた趣味で、部活動としては中学から大学の教養までバドミントン部に所属していたが、本人としては写真の方が好きだった。そしてデジタルで撮影したとしても、やはり写真は現像してなんぼだと思っている。その中の一枚を手に取る。  改めて見ても、いい投球フォームだった。  流れるようなワインドアップは軸もぶれず、まさに正統派。おそらく相当な鍛錬の賜物だろう。また、その身体能力は折り紙付きで、群を抜くとはこういうことか、とため息が出たものだ。  新しい生きもののようだ、と、思った。  厳選された素材を、研ぎ澄まされた技術で組み上げた、精緻な工芸品のような。  職業は肉体労働というので、最初は遠洋漁業の漁師かと想像していたのだが、その後、ひょっとして武道か伝統芸能なんかの旧家の出か、と思った。由緒ある寺か神社の可能性もある。古都ではそんな出自の人間もちらほらいる。  結局、彼の正体は分からないまま、気が付けば後戻りは出来なくなっていた。  非常に狭い世界で育ったような世間知らずな面と、たまに見せる妙に世慣れたところのアンバランスに興味を持った、のだろうか?  楓としても、自分が好奇心旺盛な質だというのは解っていたが、まさか男に惚れるとは思わなかった。少なくともこれまで、自身の性癖を疑ったことはなかった。というか、容姿のせいでその手のことに巻き込まれた経験を思い出すと、むしろ敬遠していた。  なのに、あっという間に溺れていた。  二度目に逢った後、煙草を辞めた。  四度目の約束をした後、付き合っていた子に連絡して、別れ話をした。好きな人ができた、と言った。  ひとを すきに なった 「しかし、どこがいいんだろうな、ほんと」  骨格だろうか。まさか!  と自問自答する。我がことながら本当にまったく心外だ。完璧な投球フォームの写真を手に、楓がしみじみと呟いた時だった。 「あれ、小林穂高じゃん」  そう言ったのはM2の先輩、高瀬湊だ。湊は作業台の上の写真を眺めながら、あれか、変化球の軌道のやつか、と笑う。楓は一瞬、息を呑んだ。 「え…?」 「や、小林穂高だろ、それ」  湊はひょいと写真を取り上げる。湊は元高校球児で、県大会で今はプロ入りした某投手のノーヒットノーランを阻止した、というのが持ちネタだった。経験者ということで、テスト投球にも付き合ってもらったし、いろいろアドバイスもくれていた。 「良いフォームだよな。山科、知り合いだったのか。すげえな」 「こばやし、ほたか?」  まず、山の名前だと思った。  湊は記憶を探るように、首を傾げつつ続けた。 「あれ、違ったっけ。ほら、一昨年かその前の… 優勝投手だろ、夏の」 「ゆうしょうとうしゅ」 「超高校生級のダブルエースって、ちょっと話題になっただろ。こっちが右腕で、もう一人、左腕がいて」  楓自身は野球自体にはそれほど興味がないので、そこまで聞いてもその情報に心当たりはなかった。しかし、血の気が引くのがわかった。思い当たる節が… ありすぎた。 「甲子園で優勝、なら… ドラフト候補、とか」 「そうそう、二人いっしょにドラフトかかって、左腕は○○だったかな? で、この小林の方が△△に指名されて」  左の方は柳澤だっけ、偶に見るだろ、名前、と言う湊に、楓は頷くこともできなかった。 「コレ最近の? 近頃、聞かないけど、どうしてんの?」 「…怪我を、したって言ってました」 「あ、そうだ! そういや、打者のバットが割れて、足に刺さったとかだっけ。怖ええよな。あ、そうか、小林ってこっちの出身だっけ」  ビンゴだ。  もう、湊の声も遠い。  彼の、正体が分かった。  少し調べただけでも、”小林穂高”の情報は山のように溢れていた。さすがに夏の甲子園で優勝したとなると情報量は桁違いだ。当時のチームの構成やその戦歴は目を見張るものだった。まさに圧巻。その中心たるダブルエースの経歴も燦然たるものだ。  そして、小林穂高の持つ記録で特に目をひくのは、二年時の県大会決勝で記録した21奪三振だろう。  27個のアウトを取る野球というゲームで、27分の21だ。  検索すればあっさりと動画も見付かる。あまりに鮮やかな奪三振劇。最後の一球が打者のスウィングをかいくぐり、キャッチャーのミットに吸い込まれる。怒号のような歓声に、球場全体が揺れていた。  目に痛いくらい蒼いあおい空の下、金色に輝く球場で「彼」は右手を突き上げた。  こんな少年は知らない。  この少年は、楓の知っている”小林旭”ではない。  それでも、恐らくこれが彼の本体だ。どこかで、気付いていた。白球を投げるため、野球をするためだけにつくられた、おそろしく優秀で精密な、最新鋭の戦闘機。  でももう遅い。  もう、好きになってしまった。 「…次、は」  次に会うときの彼は、誰だ?
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