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変化球
「物理?」
「そう」
てっきり職業カメラマンだと思っていたらバイトの学生で、じゃあ市内の芸大生かと思ったら、その近所の某旧帝大の大学院生だという。
え、それってものすごく頭が良いということでは? ノーベル賞とか関係あるんじゃ、とか、そもそも物理って何をしているのだろう? などと、ぐるぐると考える。穂高としては自分のコトを棚に上げ、珍奇な出会いをしたと思った。
しかし、そんなハイエンドのインテリが何故にカメラマンのアシスタントを? というのも顔に出たのだろう、山科は解説してくれる。
「写真部のOBから頼まれてさ。ハイシーズンだし、雑用が多いんだ。まあ勉強にもなるから」
ああそういう… と頷きながら、穂高は先ほど見たプリントたちを思い出す。技術的なことは解らなかったが、センスが良いと思った。しかし物理学の大学院生というならあれでも趣味の域、なのだろうか。
などと考えていると、出し抜けに問われた。
「で、小林くん、野球やってたの?」
やきゅう?
何故それを、と狼狽えて、先ほど自分自身でそう言ったことを思い出し、慌てて頷く。
「は、はい。高校まで野球部で…」
嘘ではない。嘘ではないが。
心の中で言い訳を繰り返す穂高を他所に、山科はなぜかちょっと身を乗り出す。
「ポジションは?」
「…投手です」
現在進行形でそれ以下でも以上でも、それ以外でもなかった。
しかし、山科はそれに予想外な反応を見せた。
「マジで?! やった!」
「え?」
「球種は?」
「は?」
「持ち球だよ、君の」
「え、あ、えっと、ストレートとスライダー、カーブ… フォーク、は実戦ではちょっと…」
精度が今ひとつで試合ではほとんど使えていないから躊躇したが、彼はそこにこだわりはないようだった。
「実戦? いや、別に試合とかしないから。てか、フォーク投げられんの?!」
「はい… まあ…」
曖昧に頷く穂高に、山科は「よっし!」と拳を握り締めた。何を喜んでいるのかは解らないが、ひどく嬉しそうだ。そして、彼はその端正な顔を真っ直ぐ穂高に向けた。
「変化球の原理は知ってるかな? マグヌス効果」
聞き覚えのない単語に、なんだって? と瞬きを数度。変化球といえば、握り方とスピンとかが関係あったような、と思いつつ結局、申し訳なさそうに穂高は小声で答えた。
「…すみません、あんまり」
「いや、まあそうだね」
つまりね、と山科は苦笑する。
「そもそも物を投げるとき、物体は必ず重力の影響を受けて放物線を描くだろ? ボールも同じで、キャッチャーミットに収まるまでの軌道は放物線になる。ただし、投手がボールを投げるときは、投球動作によってボールがスピンするからさ。このとき、空中をボールが進む間、重力のほかに空気抵抗と、スピンによって生じる気流による力、揚力を受けるんだ。これがマグヌス効果」
「このスピンは投球動作によって変化が生まれる。スピン次第で空気抵抗と揚力、ひいては球の軌道が変化するわけだ。あとはボールの握り方かな。それで球の軌道を変化させるんだけど、」
深い声は蕩々と流れるようだった。しかし穂高にはまるで意味が採れず、外国語を聞いているのと大差なかった。
ただ、山科がとても楽しそうなことだけは解った。完璧なカタチの瞳がきらきらと光っている。
そのまま、「気流と回転の法則から…」などと続く解説を黙って聞くだけになっている穂高に、ようやく彼も気付いた。
「ああ、ごめん、わかんないよな。まあアレだ、どんな変化球も軌道が波だから、数式で表せるってことなんだ」
いや既にそこから謎である。
「うーん、とにかく平たく言うと、ちょっと投げてもらっていいかな?」
「は?」
「変化球の軌道は個人差も大きいし、気象条件も関係するから。とにかくデータが欲しいから、いろんなやつに試してもらってるんだ」
サンプルは多いほど良い、と、にやりと彼は笑った。
はあ、と、引き込まれるように頷いた穂高だったが、そこで重要なことを思い出す。
「あ、でも俺、ちょっと前に怪我をして… いま、全力投球が」
出来ないんですが、と言いかけると、山科は軽く手を振った。
「うん? いや、軌道を見るだけだから、本気でやらなくていいよ」
君、真面目だね、と、彼はもう一度、今度は穏やかに微笑んだ。
真面目だ、とはよく言われる。ただ、今の彼の言葉はやっかみでも揶揄でもないシンプルな評価だった。くすぐったいような気がして、穂高は微かに俯く。
そんな穂高に気付くはずもなく、山科は朗らかに続けた。
「じゃあ、こんどテスト的に見せてもらえるかな、投球」
「えっ…」
「実際の測定、というか記録にはかなり準備が要るんだ。先攻する研究や、バドミントンのシャトルでの先例が… は、いいとして、その前に、そもそもちゃんとデータとして使えるかどうか、フォームとか投球を見てみたい」
こちらも真摯な顔で彼が説明する。
「そんなに手間は取らせない。あ、ご飯ぐらいならご馳走するし。学食だけど」
ははっと朗らかに笑う山科に、休みの日であれば、と頷く自分は何者だろうと、穂高は思った。
ただ、それならもう一度、この人に会えると。
おそらく、それだけだったのだ。それしか考えていなかった。
「えっと、いつがいいかな… あ、休みって週末でいい?」
言いながら、山科はいそいそとスマフォを取り出す。
「そうだ、小林くん、下の名前は?」
あまりに当然のように訊かれたから、そのまま答えるところだった。
「え」
「や、アカウント登録するから。俺のアドレスブック、既に小林が二人いるんだよ。名前は?」
そこで穂高は躊躇った。
もし、ここで素直に本名を答えてしまったら。
今は判らないまでも、この頭の回転の早い青年はすぐに気付くだろう。穂高の正体に。そうすれば… そうすれば、どうなる?
そもそも、学術的研究のサンプルになること自体、かなり面倒な事になるのではないか。野球選手の商売道具そのものだ。おそらく球団の了解が必要だろうし、権利やら何やら難しい話になる気がした。
それ以前に。
幾ら研究のためとはいえ、こんな面倒な人間に関わろうとする一般人が居るだろうか? ちょっとした有名人と知り合うのを喜ぶタイプの人間もいるが、彼はそういう人たちとは対極に居る気がした。
そうなると、これは、もしかすると。
二度と、逢えなくなるのでは、ないか。
そう思った瞬間、穂高は嘘を吐こうと決めた。迷わなかった自分は、まったく信用できない人間なのだと知った。
「あ、あの… 披露宴で写真撮り過ぎてスマフォ、電池切れちゃって…」
「あー、ありがちだな。最近、みんなスマフォだけで撮るからなぁ。フラッシュ、電池食うだろ。デジカメはやっぱり本職だけあっていいぞ?」
そう言いつつも楽しそうな山科をそっと窺いながら、穂高は訥々と続けた。
「だから、スケジュール、は、スマフォ見ないと… あと実は、LINEとかFBのアカウント、ちゃんと覚えてなくて… あんま使わないのもあるし」
申し訳なさそうな口調が、表情が、できているだろうか。不自然に思われなかっただろうか。気を遣いながら、それでも穂高は止めようとは思わなかった。
彼はきっと信じた。柳型の眉が下がる。
「まじか…」
「すみません… あ、あとでこちらから連絡します」
「ほんと?! あ、いや、無理にとは言わないんだけど」
ごめんね、という彼の言葉に、ちりちりと胸が痛む。でも、穂高はちゃんと山科の目を見て頷いた。
「大丈夫です」
嘘を
穂高は微笑んだ。
わらって嘘を吐いた。
「俺、は、こばやしあさひ、といいます」
「へえ、そう。漢字は旭川の”あさひ”でいい?」
あの時、嘘を吐かなければ。
ちゃんと本当の名前を答えていたら。
こんなことには、ならなかっただろうか?
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