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実験
それから二週間ほどで、ようやく約束の日が来た。
こんなに先の日が待ち遠しかったのはいつぶりだろうか?
穂高はまた祖父の見舞いにかこつけて、いそいそと京都に戻る。駅までの道のりもほとんど駆け足になったし、予定の変更はないか何度もスマフォを確かめた。
あの後、情報収集のためだけにあったアカウントで、彼に連絡をした。そのまま音信不通になることも覚悟していたのだろう、山科はずいぶんと喜んで、とんとん拍子で話は進んだ。
だから、そのうち打ち明ければ良いと思っていた。
そのうち、に…
「えっ、構内でいいんですか?」
「そう。というか、逆にここしかない」
最近はボールを投げていい場所は限られててな、と、グレイのジャージ姿の山科は重々しく頷く。はあ、と、こちらは白いトレーニングウェアの穂高は緩慢に顎を引く。
場所はK大北キャンパスである。
そういえば、昨今は公園であっても往々にしてボールは使用禁止らしい。残念な話だ。しかし、今回の場合は硬球を使うこともあって相応の場所が必要で、大学構内というのはちょうど良いのかも知れなかった。なお、南側のキャンパスにはちゃんと野球部やソフト部が使うグラウンドがあるそうだが、ただのテストだからと山科は手を振った。よく考えると願ったり叶ったりというか、むしろ助かった。大学生となれば同世代で、その野球部員が穂高を知らないとは思えない。穂高はそっと息を吐く。
さすが天下のK大、街中だというのにかなりの広さである。山科の所属する理学研究科の近くは開けた芝生地帯になっていて、数人で談笑する学生の他、構内をスケッチする中高年、ダンスかなにかの練習をしている学生、物見遊山に来た観光客らしき人影もある。
「ここはボールつこて大丈夫なんですか?」
「火気も可だからな。飲み会やったりするし、実験の空き時間にキャッチボールとかバドミントンするやつらもいるし、飼ってるウサギの散歩に来るとこもあるし」
そのウサギ危なくないですか。てか、ウサギ飼ってるって何? と思いながら、穂高はまず最初に気になったことを訊く。
「火気って… 構内で何やるンですか?」
「バーベキュー、芋煮、花火、七輪で秋刀魚、きりたんぽ、焼き芋、流しそうめん、いろいろだ」
「…それ、ほんまに許可されてます?」
と突っ込めば、
「たぶん禁止」
そう答えて、山科もニヤリと嗤った。
まず軽くアップを、ということで二人、キャッチボールからはじめた。
傷の方はようよう塞がってリハビリ中だが、徐々に練習も再開してはいた。三頭筋に損傷があったので、簡単な動作であっても穂高は一挙手一投足に細心の注意を払った。思ったよりずっと肩が軽いのは、自分にも、チームにも、彼にとっても朗報だろう。
程よいところで先ずはフォームをチェックしたいと言って、山科が三脚とカメラをセッティングする。リリースポイントとホームベースまでの距離をどう正確に測るかが問題で、とか、球速の測定ってどうやってるか知ってるか? とか話す彼に、質問したり相槌を打ったりする。そのうち準備が終わったのか、じゃあテストするからとファインダを覗いた山科に促され、穂高は両足と腹に力を込めて背筋を伸ばした。
シャドウピッチングの要領でいいはずだ。穂高はいつものとおり、静かに構えた。
そっと右足を前に出す。
ゆったりと腕を上げ、するりと降ろす。
たしかに、祈るように胸の前にグラヴを構えた。
くっきりと上げた左足はそのまま、強く、踏み出すと同時に開く肩と、振り切る腕、の。
透明な一球が放たれて、いつも通りキャッチャーミットに収まるのを確かめてから、穂高は彼を振り返った。
一方の山科はファインダから目を切って、ぼんやりとこちらを見ていた。何だか妙だ。穂高は長い首を傾げる。
「どうかしましたか?」
何かまずかっただろうか、と俄に不安になって声を掛けると、彼ははっと気が付いたように顔の前で手を振った。
「いや、違って。大丈夫… てか、君、すごく良いフォームしてるね」
そう言って、山科は眩しそうに目を細めた。フォームを褒められるのは珍しくはないが、これほどてらいもなく称賛されるのは久々だ。こそばゆくて、穂高はつい足の爪先を見る。その様子にすこし笑いながら、「続けようか」と山科は促した。
そうして、何度か投球動作を繰り返したあと、彼は動画をチェックしながら再び「ほんと綺麗なフォームだな」と呟いた。
「うちの野球部の連中なんか、いまだにフォーム安定してないのもいるのにな。小林くん、ちゃんと部活やってたんだ」
本気で感心している。穂高としては、照れくさいを通り越して申し訳ないキモチになる。
「フォームがいいってのは大事なんだ。球にかかるスピンが安定してるってコトで、つまり軌道も安定するから…」
丁寧に解説してくれる山科に頷きながら、ちりちりと、痒みにも似たものを左脛に感じた。
もう傷は塞がったはずだが、これはなんだろう?
と、そうこうするうち、実際の投球に移った。怪我のことは伝えてあるし、捕るのが山科という時点でもちろん、実際のブルペンでの投球とはまったく異なるが、事故後、ほとんど初の投球だ。高校時代の夏の初戦と同程度に緊張した。
まずストレートから、ということで軽く投げた球はもちろん全力投球からはほど遠く、ただ真っ直ぐな軌道を描いた。パシンッ、と思ったよりいい音がして、白球は山科のグラヴに収まった。
大丈夫かな、と自己判断したところで、山科が呆然と呟くのが聞こえた
「…嘘だろ」
「え、ええっ?」
今度こそなにか拙かっただろうか、と慌てていると、山科は眉間に皺を寄せたまま訊いてきた。
「小林くん、一番調子のいいとき、球速どれくらいだった?」
「は、球速、ですか… 130後半くらい、です」
これこそ嘘だった。145は超えていた。
だろうな、と山科は厳しい顔で呟く。
「すっげーバックスピンだな。これ、本職呼ばねえと… うーん、いま、誰か居たっけ」
とスマフォを取り出し、何かチェックしている。
「キャッチャーはさすがに無理かー。経験者さえ少ないからなあ。なんかもったいないよなあ… まあ、ぜったい問題ないとは思うけど、球種、一通り見て良いかい?」
だいじょうぶです、と応えながら穂高はまた、左足に熱を感じる。が、それは見ない振りをして、穂高はテスト投球を続けた。
「え、なに、これスライダー? 縦に落ちるって?」
「カーブ、って、これあれか、スローカーブ… えっ、違う? この球速差はヤバくない?」
「ちょっと待て、これ打てる奴いんの? てか、その前に捕れるもんなの!?」
賑やかに応答する山科に、すみません、コントロール悪くて、と謝るが、たぶん聞こえてはいなかった。
ちなみに素人にしては捕球する山科の反応がいいので、穂高も感心していた。なにかスポーツもやっていたのだろう。細かい足捌きも上手いので、きっとショートやセカンドが向いている。
怪我のこともきれいに忘れる程度に夢中になった結果、すっかり息の上がった山科が先に音を上げた。
「イヤ、わりぃ、舐めてたわけじゃ、ない… けど、甘かったな。小林くん、リアルに甲子園目指してただろ」
正確にいえば目標は全国制覇だったが、穂高は「ええ、まあ…」と曖昧に首肯した。あの頃はあまりに当たり前だったが、それはやっぱり一般的には夢物語の範疇で、決まり悪さに穂高が再び俯くと、思いも寄らない言葉が降ってきた。
「本当に一生懸命、練習したんだ。えらいな」
毎日、きちんと手を抜かずに。
そう言って、山科は柔らかく微笑んだ。
「俺は、そんなふうに一生懸命だったことがないからさ。勉強も部活も学校も、毎日、何となくやって… 中途半端だったな」
中途半端でK大生なら十分なのでは、と思いつつ、それはたぶん見当違いのフォローで、だから穂高は黙った。
それが、と山科は切り出す。
「甲子園撮りにに行ったのはまあ、偶然ってか、勧められたからなんだけど… 見てたらちょっと、羨ましくなった」
「…うらやましい?」
「そう。あの球児たち、きっと明日とか将来のこととか、考えない訳じゃないだろうけど… 今、やらないとっていうか、今しかないって感じだろ。そのために毎日、すっげー練習してんだな、って。なのに高校のとき、俺は、その瞬間を全力でなんて恥ずかしいと思ってた。もう、そんな時間、二度とないのにな」
もったいなかったな、と思ってさ。
そう言って、やはり山科は華やかに笑うのだ。
「ちょっと羨ましいよ、君が」
そんなに いい思い出ばかりでは なかったけれど
でも確かに、たったそのためだけに 投げて 捕って 打って 走って
生きて 生きて 生きて
左脛が、熱い。
彼の言葉に何と答えていいか判らず、応えるべきとも思えず、その代わり、穂高は別の事を訊ねることにした。
「山科さんのアイコン、なんで紅葉なんですか?」
「はい?」
山科のアカウントを見たとき、はて、と思ったのだ。別にポートレイトにすべきとは思わないが、頑なに無味無臭なアイコンに少し違和感を感じただけだ。
ああ、それな、と気のない風に頷いて、彼はぶっきらぼうに答えた。
「紅葉じゃなくて楓、まあ植物的には同じだけどな」
「え?」
へえ、もみじってかえでなんだ、と大脳に入力したのはいいが。いやソコじゃない、とさすがに穂高も気付く。
「かえで、なのは何でですか?」
「…俺の名前、楓だから」
は?
なまえ… と口の中で繰り返してから、この人は”やましなかえで”さんなのか、とようやく気付く。それはまた… ずいぶんと「っぽい」なあと素直に思った。だからそのまま口にした。
「きれいな名前ですね」
女性の名前かと思ってました、と。穂高がそう言うと、山科は盛大に眉を顰めた。
「君ね…」
苦々しいとはこのこと、という表情と口調だった。とはいえ、そのまま穂高に当たったりしない。
「あまり名前に良い思い出はないな」
平坦に言う楓に、すみませんともぞもぞと詫びながら、なるほど、彼なら子どもの頃は女の子に間違われていそうだ… いや、つい最近でも、自分だって最初に確かめたな、などと思い出す。
ああそういう… とひとり納得する穂高に察したのだろう、楓はまた険しい顔をした。あっ、この人は自分の容姿が好きではないのだな、と何となく思っていると、言われた。
「てか、小林くんの名前も女名になるだろ」
「…え、ええ?」
予想外。
咄嗟に名乗った弟の名には女性らしさは欠片も見出せず、勇ましささえ感じていたのだが。ぽかんとする穂高に、楓はすらすらと告げる。
「秀吉の妹にいたろう、旭。家康んとこに嫁に行った」
「ひ、秀吉? 家康? って、あの秀吉と家康ですか??」
「他に居んのか?」
「い、いません、たぶん…」
居るわけがない。
秀吉と家康って親戚だったのか! と、まずそこから衝撃的だが、そこにひっかかっている場合ではない。穂高はとりあえず、自分の認識を表明する。
「あさひ、って、うちでは山の名前や言われてたんで…」
「ああ、旭岳か、北海道の大雪山系」
この打てば響くというか、思いもしない反射速度の返答にはとにかく驚く。インテリってすごい、と単純に感心する。
「うん、あれは好い山だよな、悠然として。日本で一番はじめに紅葉する山だ。ま、君の場合、秋より冬山っぽいか」
ふゆやま?
初めて言われた。どのあたりが、だろう? と思ったが、訊ねるには何かが足りない気がして、穂高は結局、黙った。
とりあえず足下に転がった硬球を拾い上げ、バッグに集めようとして、元の数を知らない事に気付いた。数の確認は片付けの基本だ。
「あ、楓さん、ボール何個あるんですか?」
そう呼ぶと、彼はぎょっとした。
「君、俺の話聞いてた?!」
「聞いてましたけど… でも、好い名前なので」
正直に応えると、彼は口を開きかけたが、声を出す前に閉じる。そして逡巡した結果、
「…どうもありがとう」
と、柔らかそうな髪をかき上げながら、なんだか仕方なさそうに笑った。
それから二人でボールを回収し終わると、メシにするか! と楓は大きく伸びをして、穂高を促して歩き出す。
そのぴんと背筋の伸びた後ろ姿を見ながら、穂高は、それでもその名前はこの人によく似合う、と、思った。
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