鉄博

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鉄博

 京都鉄道博物館には初めて来た。  よく考えればそれもそのはず、まだ正式開館して1年足らずだそうで、前身の施設から数えても穂高の小・中学時代とはかぶらない。まあ、たとえ開館していても来ていたかどうかはビミョウだ。なにせ、当時から通学と野球以外のことをした記憶がない。  楓に聞いたところによると、埼玉にも大きな鉄道博物館があるそうだが、京都の館はSLがメインとのことだった。  京都駅の西側にある博物館に到着し、入り口へ向かうと、すれ違う人たち(主に女性客)のうち幾人かが後ろを振り返って、連れに何かを囁いていた。ねえ、いまの人、とか、モデル?とかいう声が聞こえる。なるほど、解りやすい。  プロムナードに続くエントランスへ近付くと、その端麗な姿が目に入る。男性ファッション誌(祐輔が持っているので見たことはあるが、自分で買ったことは一度もない)の写真のようだ。これで物理学者… と内心、首を傾げたが、もちろんそんな事は言わない。 「すみません、お待たせしました」  穂高がそう謝ると、「遅れてないだろ。俺もいま来たところだから」と楓は笑った。 「まず、SLの運行スケジュールを確認しようか、あれだけ別だなんだ。あとジオラマの走行時間と」  率先して歩く山科の背中を眺めながら、きっと恋人が待ち合わせに遅れても、彼は同じ答えをするんだろうなと、思った。 「つまり、蒸気機関車の動力は熱エネルギー、というか圧力の変換だ」 「はあ」  びしっ、と断言され、頷くしかない穂高である。  SL試乗中、職員のお姉さんが蒸気機関車の成り立ちや仕組みについて説明してくれたが(主にちびっ子向けに)、その後、補講の憂き目に遭っている。 「機関車は動輪を動かしてレールの上を走る。その動輪を回す=動かすのがピストンだな。圧力を掛けて押し出す、圧が下がって戻る、を繰り返すピストン運動で動輪が前後に動く。そのピストンを動かす圧力を生むのが蒸気。石炭を燃やして水を沸騰させ、その蒸気を貯めておく、圧力が上がる、圧力が閾値を超えるとシリンダに閉じ込められたピストンを押す、って順だ」  と。鉄道のシステムや構造にまつわる色々な展示や体験施設の中で、楓は丁寧に解説してくれる。休憩スペースを兼ねたちょっとした広場は間仕切りの一部がホワイトボードになっており、そこに図解までするものだから、周囲の親子連れもついでに聞き入っていた。 「つまり、蒸気機関は熱エネルギーから動力への変換で、この発明でこれまで人力や牛馬に頼ってきた動力を機械化できるようになった。これが、いわゆる産業革命の核になる。特に最も成功したのが交通機関への転用で、蒸気船や蒸気機関車のおかげで交通、軍事のシステムが世界的に丸ごと入れ替わった。幕末の黒船来港も、元はといえば蒸気船の軍艦の発明があればこそだな」  社会科に話が飛んで一瞬、道を見失うが、なんとか教科書や授業の記憶を掘り起こし、穂高は口を挟んだ。 「黒船て… ペリーの?」 「そう、それ。ちなみに、蒸気船がアヘン戦争の勝因の一つとも云われている。ただし、蒸気機関の問題はかなりエネルギー効率が悪いということで、そこを解消するために動力の開発は更に進む。それがディーゼル機関と電気機関。ディーゼル機関は空気と軽油を混ぜて爆発させ、そのエネルギーでピストンを動かして発電機を回して電気を作る、その電気でモーターを回す、モーターが車輪を回す、というフローになる」 「電気でモータを回す、っつーのは一緒だけど、現代では電力の元が位置エネルギーか熱エネルギーか核分裂かってことで… コレ話すと日が暮れるな、また今度な」  その前段で既に追いついていなかったが、はい、と穂高は神妙に受け取った。ちなみに、二人の後ろで数組の家族連れがうなずいたり、ひそひそ話を続けていたが、気にならないフリをした。 「いずれにせよ、蒸気機関車から電気機関車に切り替わったことで、飛躍的に上がったのが速度だ。蒸気機関車の営業最高速度はだいたい95km/hだったのが、新幹線で最速のはやぶさは320km/hにまで到達する」  なるほど、と相槌を打った穂高に、楓はひょいと話を振る。 「慣性の法則は覚えてるか? 中学でやっただろ」  残念ながらほとんどうろ覚えだった。 「…ご、ごめんなさい… な、なんとなく…」 「まあいいや、ちょっと想像しろ。どんな電車でも発進させるときに一番エネルギーが必要で、一番速度が遅い。で、しばらく走って速度を上げていくと、いずれ最高速度に達する。ただ、ある地点で減速しなきゃいけなくなる。なんでか解るか?」 「え? スピードを落とす… あ、駅?」 「そう、停車するためにブレーキを掛けるだろ。ただ、スピードに乗った車を停止させるには、しばらく時間もエネルギーもかかる。この時、前に進む力=推進力とその逆に働くのが摩擦力だ。時速300km/hに近い新幹線のブレーキ踏んで、摩擦の力を大きくする。それできちんと駅で止まる=速度0km/hにもってくためには、距離にしてだいたい4kmだそうだ。つまり、4km前にブレーキを踏まないと駅を通り過ぎるってことだ」 「4キロ…!」 「運転士ってすげーよな。そんな鋼鉄の乗り物、数センチのズレでなんとか止めてるんだぜ」 「はぁ、たしかに」 「ま、だから新幹線に限らず、駅からしばらく行ったところで最高速度になって、駅にある程度近付いたら速度が落ちる。速度はこういうグラフになるな」  と、楓はホワイトボードにグラフを書き足す。移動距離をx軸、速度をy軸とした図に台形の曲線を描いたところで、その速度上限で平らになった線を指しながら続けた。 「のぞみの場合、このトップスピードになる地点は博多のあたりと山口のあたりだが、姫路駅でもけっこうなスピードが出る。上り下りのほとんどが直線だし、神戸から岡山までノンストップで走るやつがな」  ふんふんと聞き入る穂高に、楓はまた意外なことを言う。 「で、それが海外からの観光客に人気だ」 「は? 観光? なんで?」 「姫路駅のホームで、世界に名だたる新幹線の最高速度が体感できるからだ。おまえ、最高速度の新幹線、見たことあるか?」 「な、ない、です… たぶん」  新幹線はそれこそ何度も乗っているが、正直、駅に停車していたり、ホームに入ってくる車体以外は見たことがないに等しい。体感? と穂高が首をひねっていると、「すげーぞ、あれは」と彼がニヤリと嗤う。 「夢の超特急」 「え?」 「新幹線開業の時のキャッチフレーズだ。それがな、わかる」  そう、自信たっぷりに笑う楓は蠱惑的だった。 「姫路駅は写真も撮りやすいらしいし、姫路城もあるし、外国人観光客にはちょうど良いんだろう。そうだな、これから行くか!」 「は」  これから? 姫路に?  ぱちぱちと瞬きを繰り返す穂高を促すと、楓は立ち上がった。 「まだ入ってないとことかシミュレータとかもあるけど、また来ればいいしな。姫路までなら1時間半くらいか。あ、時間、大丈夫か?」  またもや勝手に話が進んでいくが、渋る気も起きなかった。平気ですと応えて、穂高は彼のあとについて歩いている途中、下半身に軽い衝撃を感じた。   ん?  左足に何か纏わり付いている。子どもだ。  小学校に上がる前ぐらいだろうか? 少年が穂高の足に縋り付いて、こちらを見上げていた。父親か、保護者と間違われたのだろうか。 「どうしたの?」  少年の目線に合わせようと屈んだ。昔、まだ弟たちと暮らしていた頃はこうやって、練習に行こうとすると邪魔されたものだ。そんなことを思い出しながら、穂高は微笑んだ。 「お父さんは?」  訊ねると、少年はふるふると首を振る。む、と首を捻っていると隣から高い声がかかった。 「ハルキ!」  弾かれたように少年が振り返る、前に、別の少年が先の少年を抱きかかえるように取り付いた。少し年長で、小学校3、4年生くらいだろうか。兄弟だろう、疑いようがないくらいに二人はよく似ている。だから穂高が「お兄ちゃん?」と訊けば、うん、と年長の少年は頷いた。 「よかった」  危ないからちゃんと手を繋いで、と言いかけると、兄の方がじっと自分を見ていることに気付く。ああ、この少年は自分のことを知っているのだな、と、すぐ気付いた。  この眼はよく知っている。 「…野球、やってる?」  そっと問うと、少年はまたこっくりと肯う。 「ポジションは?」 「…ピッチャー」  すこし、恥ずかしそうに答える少年に、穂高の頬は自然にほころぶ。なるほど。 「そっか。がんばれ」  右手を差し出すと、少年もおずおずと右手を伸ばしてきた。小さな手を柔らかく摑んで、握手する。指の長い穂高の手に比べると半分くらいの大きさだが、ちゃんと握り返してくる。  嬉しくなって少年と視線を合わせると、彼は瞬きして何かを言おうとする。穂高は小さく首を振る。人差し指を唇の前に立てて、「しー」っと声を出さずに合図を送ると、少年は開いた口を閉じて頷いた。その一連の二人の動きを、左手で抱えられた弟が不思議そうに見ている。  穂高はそっと、少年の手を離した。 「いい兄ちゃんが居てよかったなぁ。今度は、手ぇ離さんようにな」  そう言って、ぐりぐりと弟の頭を撫でてやると、兄は照れくさそうに笑った。  二人を送り出し、よいしょと腰を上げたところで、 「案外、手慣れてるな」  と声がした。  はっと振り返れば、楓が腕を組んで立っている。聞かれただろうか、と一瞬慌てたが、いや、大丈夫と胸の内で打ち消す。 「あ、あの… 弟と、たぶん同じくらいで」 「へえ、弟! どっちかっつーと兄貴が居ンのかと思ってたけど」  本当に意外そうに言う楓に、穂高は鼻の頭を掻きながら、促されるままにまた歩き出した。  年度末の生まれのせいか、これまで上級生に囲まれることが多かったせいか、振る舞いのせいか、末っ子扱いを受けることは多かった。しかし、実生活での10も離れた弟たちとの少ない思い出は貴重で、つい応対も甘くなるから、ファン感謝デーなどの催し物では子どもに人気が出る。  なんだか幼さを指摘された気がして、少し悔しかった。が、 「弟くん、やっぱ山の名前?」  問われて引き戻される。そういえば高校時代、友人に似たようなことを話したことも思い出しながら、穂高はもう一人の弟の名を答えた。 「はい、つるぎ、です」 「剱岳か! ガチだな、親御さん」  やっぱり知っていた。ほとんど守備範囲の広いショートストップのようだ。うちのチームに一人欲しい。密かに頷きながら歩いていると、ふと風が臭った。ああ喫煙室… と思って、そういえば楓が今日、一度も煙草を吸う素振りを見せていないことに気付く。我慢をさせてしまった、と、穂高は慌てて声を掛けた。 「楓さん、煙草、いいんですか?」  すると彼は寸の間、足を緩めたが、振り返らずにこう答えた。 「…いい、気にすんな、もう辞めたから」  え?  辞めた、ということは… 禁煙したということだろう。いつから?  そうですか、と、呟きながら、彼が煙草を吸う姿を見られなかったのを、穂高はもう一度、残念だと思った。  なんだか余計な事ばかり考えるな、と。  穂高は、先を行く楓の背中を茫洋と眺めた。
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