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 底冷えのする都の冬は厳しい。  …はずだった。  しかし、その寒さを感じる余裕も必要も、穂高にはなかった。  おそらく、楓にも。 「なあ、結局、リニアってどのルートになったん?」  穂高は座卓に広げた標高図と中央新幹線の資料を見比べながら、キッチンの楓に声を掛けた。  もうこの頃では特に同意も確認もなく、京都に帰る度、楓のアパートに寄っている。祖父母の家を出てから寮生活しか経験したことのない穂高にとっては、大学生のひとり暮らしはそれだけでも憧れだったが、今やそんなことはどうでもよかった。  家主はケトルに水を汲み、立ち働いていた。ちなみに楓は由緒正しいコーヒー党だが、カフェインを制限している穂高にはゆず茶など煎れてくれる。それが少し面映ゆい。  楓は食器を取り出しながら簡潔に応えた。 「南アルプス突貫、最短距離」 「ふうん… ん? 突貫って?」 「山脈の下、掘るんだよ」  えっ、できんの?! と慌てて標高図を開いていると、楓がこちらにやってきて、素早く資料をめくったり、ノートPCを操作してルート比較の地図を表示させた。  JR東海肝煎り、というより国家主導プロジェクト、超電導リニアによる中央新幹線は品川から名古屋、はては大阪までの建設を予定しているが、とにかくルートで大揉めに揉めた。建設費や工事の難度、所要時間以外に、オトナの事情や政治の思惑も絡んで、だいぶん残念なことになっていた。が、20年以上の騒動の末、ようやくルートが決定したのがつい数年前のことだ。 「このルート最大の難所は南アルプストンネルだな。計画では、全長25km」 「長っ!」  楓は穂高の背中から標高図を覗き込むと、長野のこのあたりから、と地図の等高線が密集している箇所を指し示す。 「南アルプスの地下を突っ切る。その後はこっちの中央アルプスだ。こっちも20km超になる」 「…マジか。え、あれ、こっちの下にある線は?」 「中央自動車道、元はといえばこの高速の計画が日本で一番早かったはずだ。けど、全線開業は東名高速に抜かれた」 「へえ、最初って東名やないんか… え、抜かれたって、なんで?」 「技術的に難しかったからだ、トンネル掘るのが」  ああ、なるほど、と納得していると、背中にかかる重みが増すのが解った。後ろから抱きしめられたまま、穂高はしばし地図を眺めていたが、図形の意味は消え失せている。  楓は、いい匂いがする。  そのうち、首筋に楓の唇が当たるのが分かる。生暖かくて湿った感触に、ぴくりと身体が震えた。そのまま、項を這う舌の感触に呼吸が浅くなる。思わず、かえで、と彼を呼ぶ。 「…まつげ、くすぐったい」 「我慢しろ」  彼は取り合わず、柔らかく笑う。楓のしなやかな指が、穂高の胸や腹をするすると撫でる。それから耳の後ろを強く吸われた。ん、と穂高は息を詰める。  このまま、振り返ってしまうと、きっとキスをするんだろう、と、思う。  初めてではない。ちょっと前に初めてして、それ以上のこともすこし、した。穂高としても男相手にするのは初めてだったが、あまりそういうことは考えなかった。(オンナノコ相手だって、そんな大した経験値でもない。)  ただ、唇は甘い、と。  初めて知った気がした。でも、いま、振り返るのはあまりよくない。よくは、ないのだが。  どうしよう、と迷っていると、ピー、っとケトルの笛が鳴って、ちっと楓が舌打ちする。穂高はそっとひと息吐く。  渋々とキッチンに向かう楓の方をなるべく、見ないようにした。彼に触れられた部分が熱い。中途半端なことになっているのはよく解っていたし、彼がそれに焦れているのも解っていた。だが、 「あさひ!」  その声が、胸に刺さった。  楓はひょいとこちらを振り返ると、尋ねてくる。 「おまえ、まだ腹減ってる?」 「…あ、いや、大丈夫」  その先に進まないのは、まだ、彼に言えないでいるからだ。  本当の名前を。  呼ばれるたび、違うんだと動揺し、何度か告白を試みたが、穂高にはどうしても決心がつかなかった。ただでさえ、別の意味で決壊しそうなこの関係は、その秘密の暴露できっとまったく違うものになる。恐らく、悪い方へ。  そう思うとますます言い出せず、こうしてまだ惑っている。 「冷え込んで来たな。もう冬コートの時期か」  そう言いながら、戻って来た楓はゆず茶のマグを穂高の前に置いて、隣に座る。 「…おれ、コート持ってへん」 「は? なんだって?」 「え、あ、いや、なんかコート… あんまり必要なくって…?」  穂高は元来とても暑がりなのと、そもそも外出はほぼ仕事&トレーニングと同義なので、厚着をしない。走っていることも多い。そのため、あまりコートを着用することがないのだ。 「意味がわからない」 「…せやな」  まあ、さすがにそれもどうかと思っている、というより祐輔や聖に言われているのだが。おまえね、と楓は大きな溜息を吐いた。 「社会人でそれはマズイだろ。明日、買いに行くか」 「あ、明日は病院、経過観察で…」 「その後は?」 「…うん」  マグを両手で持ちながら頷く。それでも簡単に明日の約束をする自分は、いったいどんな嘘吐きだろうと思う。でも穂高に断る選択肢などなかった。  気付けば、楓との距離はほぼ0センチだ。触れあった二の腕や太股から伝わる熱に、また少しずつ浸食されていく。しばらく二人、その温度と深度を味わっていたが、楓がそっと尋ねてくる。 「足、経過はどうなんだ?」 「うん、フツーに順調やねんけど、筋肉に傷が付いたし、足は体重がかかるから、念のため長めに観察しようって言われてて」 「そうか。そうだよな。てか、そもそもそれ、どんな怪我?」 「え、あ… 割れた木片が飛んできて、脛に刺さった、というか…」 「マジか! なにそれ、すげえ物騒だな」  まあ物騒だ。場所によっては選手生命ではなく、ホンモノの命に関わったのかも知れない。具体的に状況を想像したのだろう、綺麗な顔を歪めた楓に、穂高は曖昧に肯った。 「でも傷はもう塞がったし、リハビリも細かく面倒みてもろうて…」  ぼそぼそと言い募っている間、彼が自分の左足を注視していることに気付く。その、酷く冷徹な眼差しに少し、気後れする。ただそのまま沈黙できる胆力もなく、「なん?」と尋ねれば、彼はその尖った顔のまま訊いてきた。 「その傷、見ても良いか?」  ああなんだ、それくらい、と。「別にええけど」と応えた時点で、穂高ははたと気付く。左脛のその傷の位置からして、ジーンズの裾を捲り上げるのではなく、脱いだ方がいい。  それくらい、なら…  それ以上考えたらいけない気がして、穂高はマグを置いて立ち上がると、思い切りよくジーンズを脱いだ。別に、患部を見せるだけなのだし、と。自分に言い聞かせながら、ふと楓の様子を窺ってみれば、本当に眉一つ動かさなかった。おかげでその真意はまったく読み取れず、穂高は下着姿のまま楓の隣に座り直すと、左足を差し出した。 「ここ」  折れたバットが刺さった傷は、引き攣れた跡を残している。元々、穂高は色黒だが、さすがに日やけしない位置なので、皮膚も薄く、青い血管が浮く脹ら脛の傷跡は無闇に目立った。  二人でしばらくそれを眺めていたが、楓はまた尋ねた。 「触ってもいいか?」  …なにを、と聞き返すのは野暮だ。うん、と穂高が頷くとの彼の指がそれに触れるのはほぼ同時だった。  傷跡をそろそろとなぞる彼の指先に、互いの意識は集中していた。ひやりとした指先の温度とさらさらとした感触に、腹の底がさわさわとざわめく。彼の指先を追いかけるように、ほぼ完治しているはずの傷が熱く、甘く疼くような気がして、穂高は息をひそめた。  どくどくと脈動の音さえも聞こえそうな程の静寂。  互いの熱く浅い呼気を感じて、ああ、これはよくない、と思ったのに身体は動かない。と、 「あ」  声には、ならなかったかもしれない。  内股をすっと撫でられ、股を開かされた。楓の唇が患部に触れる。さすがに左足に力を込めたが、ぴくりとしか反応しなかった。疵を舐められる。ちょっと待って、と制止するのと同時に押し倒された。  楓は意外にもしっかり筋肉がつくタイプで、実は穂高とウェイト差があまりない。無論、穂高の筋力であれば振り払うのも難しくはなかったが、その重みと熱に胸が震えた。そのまま唇を奪われる。  侵入してくる彼の舌を受け入れて、ほとんど必死に応えていると、彼の手が下着の中に入ってくる。「力抜け」と囁かれても、本当にそうしたら、ぐずぐずに溶けてしまうだろう。  それは、それでは。そうなるわけには。 「ま、待って、って」  なんとか声を出すと、当然、拒否される。 「無理言うな」 「あ、あした、びょういんいかないと、」  病院という単語に、楓の瞳が険しく陰って、手が動きを止める。「クソ」と苦々しい声が聞こえて、慌てて穂高は言葉を継いだ。 「つぎ、次のとき、なら、」  いいからと、言う自分に、内側の別の自分が『いいのか?』と尋ねるが無視した。楓は溜息を呑み込むと、穂高の耳元で囁く。 「…次、は、いつ?」 「ら、来週」  ほんとうに? と聞き返す彼の顔はあまりに真摯で、美しかった。  うんうんと何度も頷きながら、穂高は最後通牒が来たことを感じていた。   嘘が、嘘に、うそ、を
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