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嘘
「名乗りそびれたぁ?」
相手の頓狂な声に、小林穂高はひゃっと首を竦めた。
「はあ… その、隠すつもりは… そのうち言おうと…」
自らの不明は解っているので、どうしても歯切れ悪く、というか言い訳がましくなる穂高に、会話の相手、同僚かつ先輩かつ幼馴染みの赤谷祐輔は呆れたように返す。
「そりゃ、故意にとは思われへんけど。名乗りづらいのもまあ、解るけどな」
この仕事をしていれば、易々と身分を明かすことが憚られるのも現実だ。なかなか一見さんには言えないことも多い。穂高の場合、姓だけならともかくフルネームだと相応に目立つので、いつもは地味なのをいいことに、必要が無ければスルーすることがほとんどだ。
とはいえ。
「でも、それって信用問題になるだろ?」
沈着かつ的確に痛いところを突いてくるのは相方の鈴木健人だ。だよなぁ、と頷きながら、穂高はよいしょっとパーカを着る。
ペナントレースも終了し、残念ながらポストシーズンと無縁な三人は、トレーニング後、今日も今日とて寮の共有スペースでたむろっている。もうすぐ秋季キャンプだが、穂高はそれも今年に限っては無縁である。
「てか、なんで知り合ったの?」
「えっと、こないだのSさんの結婚式で…」
「ああ、京都の」
「そう」
シニア時代のコーチが結婚することになり、シーズンから離脱していた穂高は披露宴に顔を出したのだが。というか、断り切れなかったというのが正直なところだ。
「ちょっと話す機会があって… でもそんな、続くとは思わなくて…」
まさか、こんなことになるとは思わなかったのだ。
のろのろと言い募る穂高を横目で見ながら、ふうん、とケントは鼻を鳴らし、祐輔は片方の眉を上げた。
「で、どんな子や。年は? 学生? 社会人?」
「カワイイ系とキレイ系ならどっち? てか、顔より胸派だっけ」
「は、はい?!」
今度は穂高が外れた声を上げる番だった。何のハナシ? と瞬きをしていると、
「古今東西、結婚式がきっかけで付き合うってのはメジャやろ。新郎新婦の友だち同士が~とか。てか、むしろそれ狙いの奴が多いやないか」
「やっぱそうかー。最近、妙に楽しそうに帰るなァ、と思ってたけど」
「いやいや、違います! そーいうんやのうて」
まあ、それなら名乗り辛いのもわかるなあ、でもなあ、と勝手に話を進める二人を穂高は全力で止めた。
「ち、ちがうて! 男やし!」
「嘘つきはドロボウの始まりや」
「隠さなくていいって。てか、祐輔さん昭和っすね」
端から信じない祐輔とケントに、穂高はぶんぶんと手を降った。
「式場の、バイトの学生さんで… そしたら、変化球のことが知りたいって」
「はあ?」
「変化球って、あの変化球?」
予想通り、二人は鳩が豆鉄砲を食ったような顔になった。そんな鳩は穂高も見たことがないが。それでもとにかく、穂高は正確を期して丁寧に答える。
「そう、球の… 変化球の軌道を正確に知りたい、いうて」
「きどう」
「いろんな変化球の軌道を記録できたら、球種別に式で表現出来るんやないかって、いう話で…」
穂高の言葉に明らかに祐輔とケントが反応しない。言い直そうかとも思ったが、穂高としても他に言い様がなかった。結局、一周回って「えーと」とケントが切り出した。
「わりい、ちょっと今、意味がわからなかった」
「うん… だよな…」
しかし大学で物理を専攻しているというその青年は、確かに最初、そう言ったのだ。
「変化球の軌道は波だっていうて… 流体力学?」
「波」
「りゅうたいりきがく」
腕組みをするケントはともかく、明らかに祐輔は今の単語を日本語としてインプットしていなかった。どうしようか穂高が迷っていると、左の次期エースは思い切りよく言い切った。
「うん、わかった。解らないっつーことがわかった」
「正しいっすね」
「いっそカッコいいです」
穂高にしてもきちんと理解しているわけではない。いずれにせよ、伝わるべきコトが伝わったようなので、この話題を切り上げることにした。
「だから、ちゃんとした学生さんで、真面目な話で…」
自分の言葉に、ちりちりと火傷のような痛みが舌に残った。もちろん気のせいだ。そう、真っ当な… 至極まともな青年なのだと、誰よりも穂高自身がそのことを知っていた。
黙り込んだ穂高に、ケントはちょっとため息を吐いてから、改まって忠告をくれる。
「まあ、詐欺とかとは違うだろうけど、早めに知らせた方がいいぞ」
「せやな。それ、別ルートでバレると相手、傷つくとちゃうか」
「ですよね…」
祐輔の指摘も尤もだった。穂高は深く頷く。
解っては、いるのだけれど。
ケントが振る舞ってくれたシイタケ茶が入ったマグカップを両手で持ち、穂高はしばらく淡い琥珀色の液体に視線を落としていた。そんな彼の様子を少し、不思議そうに眺めながらも、祐輔は思い出したように訊ねた。
「そういや、足の方はどうなん?」
「ああ、そっちは順調です」
「良かったなあ」
「うん」
そこで穂高は柔らかく笑うと、ようようシイタケ茶に口を付けた。
芳ばしい香りがする。
「春までには戻せると、いいにゃけど」
祈るように呟きながら、しかし穂高は違うことを考えて、いた。
彼に、嘘を吐いた。
たったひとつ、決定的な嘘を。
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