停電の夜に

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午後4時。いつもより早く帰路についたのは、その夜から未明にかけて上陸するという台風15号の為だった。総務部から順次帰宅を促すメールが一斉に流れた。私は家が都心から少し遠くにあることもあって、先に退社することにする。 仕事が早く終わっても、家に帰るということ以外に私は何も思いつきはしない。いつもより混雑の少ない電車で、いつもと同じように都心から離れていく。ノーアイデアな帰り途。台風が来るといっても、まだ空は快晴で、車両内は時間が止まったように長閑だ。 私はノートパソコンを取り出して、残りの仕事に取り掛かった。膝の上にパソコンを柔らかく置いて、電車の振動に揺られながらする作業はオフィスで固まって仕事をするよりはずっと効率が良いことに気付く。 私が気分良く作業に集中していると、お年寄りのグループが乗ってきた。最長老のお婆ちゃんが私のとなりに座ったかと思うと、ぞろぞろと私の周りを取り囲んだ。 「最近はもう腰が痛くてダメねぇ。」 「いや、本当に。軟骨がすり減ってるのよ。」 「色んなものをすり減らして生きているだから。仕方ないわよ。」 私は仕事を諦めて、彼らに席を譲る。私がそうすると、隣に座っていた乗客たちも続いて立ち上がった。お年寄りには親切にするものだ。 「すみませんねぇ。」 彼らは口々に言って、空いた席に座るとあっという間に車両を占拠してしまった。 「この大会のスコアもやっと200ってところ。腰が本調子ならもうちょっと良い線いったのに。」 「まった腰のせいにばっかりして。」 「え?何か言ったかい?」 「やだねぇ。今度は耳のせいかい。」 ゲートボールの大会か何かだろうか。彼らは今しがた終えたばかりのスポーツの話に興じている。平日の昼間の、どこか私の知らない公園で、老人たちが楽しそうに集まる。それは完璧な平穏だ。私は一時的に仕事や家庭の事情を忘れて、老人たちの話に耳を傾けた。 「今日は晴れてたからまだ良いけど、雨の日はダメだねぇ。気圧のせいかいね。」 雨の日でもやるスポーツなのだろうか。私は頭の中のイメージを室内に切り替える。ビリヤードだろうか。 「ほら、9番目のフレーム、スプリットになっちゃったでしょう。」 「あれは、仕方ないよねぇ。」 「いやいや、腰が万全なら、スペア取れる自信あったんだけどなぁ。」 なるほど。ボーリングだ。だけど、ボーリングでスコア200なんて、私は多分一度も取ったことのない点数だった。私たち若者は両手を吊り革にぶら下げて、参ったとばかりに降参するしかない。やれやれ。日本のお年寄りは元気だ。
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