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「……たばこ」
「ん?」
「未成年だろ」
「おぉ、嘉人。久しぶり」
日曜の午後。
夏はピークを過ぎたらしい。
僕は自分の家に嘉人を招いていた。
「夏休み終わった?」
「もうすぐで終わる」
「僕、宿題貰ってないや」
「先生もある程度免除するって……“僕”って何だ」
「え?」
「そもそも、タバコなんてどうやっても手に入れた」
「なんか近所のお兄さんに頼んだら、五百円でくれたよ」
「……喋り方もさ……」
「どうしたんだよ、嘉人」
僕の部屋に入って、嘉人は直ぐにそんな事を僕に言ったけれど、僕は直ぐに嘉人に今日も目的についての話をした。
「んで?今日はどうして俺を呼んだんだ」
嘉人はいかにも好青年らしい服装で、常にパジャマな僕とは大違いだった。夏休みで少し焼けた肌から、海やプールに行った事が伺える。
「いやぁ、部屋の掃除手伝ってもらおうと思ってさぁ」
僕は、地面に転がっている(いや、散らばっている)生活の跡を指差す。大量の衣類、大量のコンビニ弁当のプラスチックゴミ。今回は、それを片付けるのだけれど、さすがに僕一人だけでは今日中に終わりそうにないので、こうやって嘉人を呼んだのだ。
「分かったよ」
嘉人は少し不満そうな顔をしてそう言った。
優しいやつだ。
僕はこいつの友達で本当に良かった。
そして、僕と嘉人の部屋掃除が始まった。
元々この部屋は、僕と嘉人が親元を離れて高校生活をするために賃貸した部屋で(今は嘉人と別居になったが)、嘉人にとっては懐かしの二つ目の我が家といった感覚だろう。
高校一年生の一年間だけの同居生活だったけれど、それは確実に、仲の良かった僕と嘉人の関係をより深く強固なものへと変えた。
高校二年生になって、嘉人がこの部屋を出て行ったのだが、正直こちらとしては少し寂しい反面、嬉しい気持ちもあった。それはもちろん、あずさと家で二人きりになれるからだ、むしろそれ以外の理由でなければ、もしかしたら嬉しいとは思わないのではないだろうか。
「にしても汚いな」
「褒めないでよ」
「褒めてねぇよ」
嘉人とまだこの部屋で同居していた時は、しょっちゅう嘉人が部屋を掃除してくれていたから、こんな惨事になる事なんて滅多になかった。
「不健康になるぞ」
「もう十分、不健康だよ」
嘉人は呆れたようにため息をつくと、ゴミ袋にぽいぽいとごみを突っ込んで、あっという間に部屋の一部を掃除してしまう。
そこからは、無言の時間が続いたり、どうでもいいたわいもない話をしたり、どうでもいい素っ気ない時間が続いた。
そして掃除が終わる頃には、もう外は夕日が出ていて、橙色の眩しい光が部屋に差し込んでいた。
「よしっ、終わったな」
嘉人が満足気にそう言った。
僕はいつの間にか頭に巻いていたタオルを取って、首にかける。
「ったく、よくここまで汚したなぁ」
「褒めないでよ」
「褒めてねぇよ」
嘉人は、すっかり綺麗になったゴミのない床にどっしりと座って、「飲み物ある?」と訊いてきた。僕は、「お茶でいい?」と訊き返す。
「炭酸ジュースは?」
「ないよ」
「どうして」
「あずさが飲めなかったからね」
嘉人は、まるで失言をしてしまったかのように、ぱっと口を開けて、すぐに「悪りぃ」と言ってきた。
「別にいいよ」
「…そうか」
僕は嘉人に二リットルのペットボトルに入っているお茶を、ガラスコップに注いで、机に出す。
「おう、ありがとう」
嘉人はそう言って、お茶をぐびぐびと男らしく一気飲みした。
「それで?」
「“それで”って?」
僕はもう着替えが散乱していないベッドの上に飛び込んで、あくびをしながら答えた。
「どうやって死ぬんだ?」
「なんだ。倉島から聞いたんだね」
「あぁ、まぁな」
嘉人は頷く。
まるで晩飯に何を食べるか話し合っているかのような落ち着きようで、僕に話してきた。
「車道に飛び込むのはやめとけ」
「どうして」
嘉人はポケットからスマホを取り出して、何食わぬ顔で続けた。
「迷惑になる」
「あー……」
「あとは、高いところから飛び降りるのも止めろ」
「なんで」
「ネットに晒される」
「納得」
「だから……そうだな」
「入水自殺?」
「苦しいぞ」
「どっちにしろ、全部苦しいよ」
僕は、ベッドで仰向けになる。
「自動車にぶつかって死ぬのは、速度や角度によっては死ねないかもしれないし、飛び降り自殺なんかも打ち所が悪かったら一発で死ねないと思う」
「なら、迷惑被らない入水が一番か」
「あ、でも僕の死体が地球の海を汚すかもっ!」
「もとから地球は汚れてる」
「それもそっか」
僕はそう言って笑って、本棚から雑誌を取り出して仰向けで眺める。
「にしても、死ぬ理由も、お前らしいな」
「そう?」
「自分の存在を一から削除するか……まぁ、夢はあるな」
「……、嘉人は止めないんだね」
「なにが?」
「僕が死ぬの」
「止めてもやめないんだろ?」
「まぁ……」
「それに、“死にたい”って言ってる奴を止めるのを、“生きていたい”って思っている俺が止めるのは、なんか違う」
「ほぉ」
「それじゃあ、俺はただお前に同情しているだけだろ?」
「うん」
「お前を止められるのは、同じく“死にたい”って思っている奴だけなんだよ」
嘉人はそう言う。
まるで数学の問題の解き方を教えるように。落ち着いて、分かりやすく、自分の状況を説明していた。
「ということは、倉島は僕に同情してるのか」
「俺だって、同情はしてるよ」
部屋には沈黙が走った。
あずさと付き合い始めたのは中学三年の春。そして、彼女が死んだのが高校二年の春だから、二年間の交際だった。嘉人がこの部屋を出て行ったのは、高一の秋頃。そこからは
、たまに彼女が来たり嘉人が来たり、結局いつもこの部屋は騒々しかった。ゲームしたり、勉強したり、だらだらしたり、将来について話し合ったり、愛を語ったり、……。
いなくなって初めて気づいたのは、彼女に対する愛の大きさなんかではなく(もとから十分気づいてた)、この部屋が実はただの“箱”でしかなかったということだ。
一人暮らしをしたい高校生のただのわがままで賃貸した、贅沢な2LDKのこの部屋は、その実質はただの部屋。幸せになれる魔法がかかっているわけでもなく、僕を笑顔にしてくれる天使が在住しているわけでもない。
何の変哲も無い、ただの部屋。
「あずさ、怒るだろうなぁ」
「そうだな」
嘉人はあっさりとした返事をした。
「俺たちは今、日本一命を軽く見ている」
「そうだね」
「俊男、間違えても人殺しなんかはするなよ」
「うん」
「そうしたら天国に行けなくなる」
「わかってる」
僕はそう返事をすると、ファッション雑誌をベッドに放置してベランダへと向かった。
それが部屋が汚くなる原因か、と嘉人が言っていたような気がするが気のせいだろう。
僕はベランダに出ると、ポケットに入れっぱなしだったタバコを咥えた。
「あ、火がないや」
「ライターなら俺が持ってる」
「おぉ、投げてよ。キャッチするから」
「ダメだ」
「どうして」
「俺は副流煙が嫌だ」
「なるほどね。じゃあ我慢するよ」
すっかり吸うのに慣れてしまったタバコは、もはや僕にとって犯罪だという認識はなかった。嘉人はどうせ「お前の命だから、好きにすればいい」だとか思っているはずだ。
「俊男」
「なに?」
僕は火を点けていないタバコを咥えたまま、ベランダに両ひじを出し、柵に乗り出すようにして、紅く眩しい夕焼けを目を細めて眺めた。
「勝手に死ぬなよ」
僕は振り返らなかった。
ただ俯いた。
三階に位置するこの部屋から飛び降りれば、死ねるだろうか。
「それだけ」
嘉人はそう言うと、じゃあな、と言い残し、部屋を出て行った。
僕は、ベランダから室内に戻って、最後に嘉人がテーブルの上に置いていったライターを手に取る。
タバコに火を点けた。
汚くて有害な快楽の煙が部屋を舞い、漂う。
嘉人は僕に同情した。
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