霽月

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 心は軽いのに、身体は沈むように重い。  きっと、身体の方は、ろくに運動せず、ずっと寝たまんまの生活をして、筋肉が衰えてきてしまっているのが原因なのだろう。  けれど、心が軽いのは、どうしてだろう。  まるで、心がそこにないかのような感覚を“心で感じて”いる。胸にぽっかりと穴が空いていて、そこに風が吹いているような喪失感。そして、そのぽっかりと空いた穴にどういうわけか顕在している“ないはずの心”は、結局はただの虚空でしかなく、僕が感じているものは所詮は迷妄の錯覚でしかなかった。  もはや、目に映る何もかもがどうでもいい。  口から入った空気は、胸のあたりまで届くと、そのまま外に出て行ってしまう。息を吸った気がしないのは、たぶん、胸に穴が空いているからなのだろう。 「……」  嘉人が帰ってしまって、暫くが経った。  その“暫く”が一体、どれほどの時間なのかと言うと、実際はたったの二時間程度であったりする。壁にかかった時計を見て、思わず驚いてしまった。  感覚的には、もう二日や三日はとうに過ぎたのではないかと思っていた。  勝手に死ぬなよ、  どうにも苦しそうで、ちょっと気が緩めば奈落へと墜落してしまう機体を操縦しているような、そんなまどろっこしくて嫌な気分。僕は、嘉人の言葉を聞いて、そう感じた。それが一体、どんな感情なのか。はたまた、これは感情といえるほどの代物なのか。なんだかもっと小汚くて、拙い気がする。 「行くか……」  三本目のタバコを吸い終えると、僕は財布を持って外に出た。  すっかり外は秋の色へと変わり始めていた。夏休みが終わってしまう、そんな言葉を吐き出しそうな枯れゆく木々は、きっと僕に現実を押し付けるために存在しているのだ。 「………」  一歩ずつ、一歩ずつ、足を運ぶ。行き先も分からない旅路を、乾いた息を吐きながら歩いていく。    時間というのは残酷だ。  止まってくれと叫んでも、絶対に止まる事はない。戻ってくれと願っても、振り返ることすらしない。  時間というのは幸福だ。  過ぎていく時の中で、人は痛みを忘れることが出来る。少しずつ、あの日の衝撃が薄れていく。  傷なんてものは、いつか時間がなんとかしてくれる。けれど、傷跡に出来たかさぶたは……自分で何とかするしかない。  僕はその傷跡(かさぶた)が、気持ち悪くて仕方がない。どうにかしたくて、悔しくて、後ろめたい。    人はそれを“後悔”というのだろう。    あの日、あの時、あの場所で。もしも僕が彼女の側にいれば、彼女は死ぬことなんてなかった。  その確かな後悔は、僕の中で、僕の魂を巣食っている。いつかは、僕の魂はその後悔によって跡形もなく食い破られて、やがて何もなくなるのだ。  そうなってしまう前に。  そんなただの愚図になる前に。   「海まで」    僕は自ら命を絶つ。  依然として、僕の目の前には、彼女を殺した赤信号が悠々と車を足止めしているのだった。   ◆    タクシーの運転手は、「西綾乃(にしあやの)海岸でいいですか?」と僕に訊く。 「はい、それでお願いします」  外はすっかり暗くなっている。この町は、いつもどこか寂しい。なにかが欠けているわけでも、何かが他の町と違うわけでもない。あずさが僕の隣にいた頃から、いつもそうだった。  この町は、どうやら煩わしいモノを全て取り除いたらしい。いや、それでは正しくない。この町は、あまりにも便利になり過ぎた。  手を上げたらすぐにやってくるタクシー。  最新式の信号機。  真っさらなガードレール。  どんな階段の側にも必ず設置されているバリアフリーのスロープ。  周りを見渡せばどんな所にも公共用のWi-Fiとポイ捨ての注意書きが忙しいゴミ箱が設置されている。  僕はこの町で地面に張り付いて黒く変色したガムを見た事はないし、そもそもタバコの吸い殻が地面に落ちているのすら、見た事がない。  きっと、この町の偉い人は凄い実力の持ち主なのだろう。  けれど、そんな完璧なこの町の事が、僕は寂しく見えて仕方がない。それはきっと、あずさとこの町の事を重ねているからだ。時間と苦労をかけた分だけ、“それ”はより綺麗に輝く。たしかに面倒くさいところもある。こちらの完璧な方が、無駄な苦労をせずに済む。けれど、たとえ、それが正しかったとしても。僕はまだ、苦労をしていたかった。彼女のめんどくささを背負っていたかった。   「こんな夜にどうして海へ?」  乗車してしばらくすると、タクシーの運転手が赤信号で止まった時に、僕にそう訊いてきた。 「まぁ、色々ありまして」 「忘れ物ですか?」 「そんなもんです」  僕はそう返す。  その後、タクシーには沈黙だけが残った。  しばらくすると、タクシーが海岸沿いに止まる。 「ここでよろしいですか」 「はい」  僕は料金を払って、タクシーから出る。    ここから見た海岸は、真っ暗だった。  まるで暗闇が沈んでいるようで、何か危ない生き物が棲んでいる気がして、少し恐ろしい。けれど、今から死ぬ僕にとっては、そんなものは関係ない。町中が明る過ぎた所為で、明るい環境に慣れた目では、海岸が真っ暗に見えたのだろう。  そうして僕は、街灯の明かりから逃げるように、夜間進入禁止の札を無視して、海岸の砂浜へ足を進めた。 「遺書とか書いてなかったな」  砂浜を歩いている時に、それに気づいた。  そういえば親の事も一切考えていなかった。僕と嘉人が一人暮らしを始めてから、たまに会ってはいたけれど、引きこもってからは一切会っていない。連絡もしていない。きっと心配しているだろう。僕の「親元を離れたい」という我儘を受け入れてくれた親なのだ。少なくとも、ありがたいという気持ちはある。産んでくれて、育ててくれて、ありがとう、と。    僕は、母親にそんなメールを送信した。そして砂浜を海の方へ歩きながら、嘉人に電話をかける。  二回目のコールで、嘉人の声が聞こえた。 「どうした」  いつもみたいに冷静で、爽やかで、優しさに包まれてしまいそうなほどの温かさのある声だった。 「今から死のうと思う」 「そうか」 「それでなんだけど」 「なんだよ」 「もし死にきれなかったら、代わりに僕を殺してくれないか」 「嫌だね」 「そう、分かった」  そんな話をしていると、僕はいつのまにか海の中に足を突っ込んでいた。波が僕の足首を飲み込む。  冷たい。  足が一瞬にして冷やされてしまった。  僕は一歩戻って、砂浜に腰を下ろす。 「結局どうやって死ぬんだ」 「さぁ、どうやって死ぬでしょう」 「……波の音が聞こえるな。入水か」 「せいか〜い」  僕は電話越しの嘉人にそう言った。 「遺書は書いたか?」 「そういえば書いてないんだよね」 「そうか、馬鹿だな」 「うん。馬鹿だよ」  結局、嘉人には僕が遺書を書き忘れた事なんかお見通しらしい。嘉人はいつもそうだった。二人で一緒に住んでいた頃から、いつも。たとえば僕が家の鍵を無くした時だって、嘉人は真っ先に鍵を見つけてくれたりしていた。他にも、僕が学校のテストで赤点を取った時、彼女と喧嘩して少し険悪になった時。僕が自分の口から言わなくても、嘉人はそれを受け取って平然と一日を過ごす。友達として入ってはいけないプライベートの空間を測るのが得意らしい。 「俊男」 「なに?」 「“そこ”綺麗か?」  嘉人の声は急に少し暗くなった。不安定な風の強い日の灯火みたいに、僕の中での嘉人の完璧人間なイメージが揺れて歪んでいく。 「どうだろう」  僕は思った事を口にした。  背中には眩しい街灯が両手を広げて意気揚々と僕を照らしていて、目の前には暗闇に落ちた水面が静かに夜の波の息を零している。 「星空、見えるか?」  嘉人はそう言った。  まるで僕の隣にいるんじゃないかってくらい落ち着いた声。相変わらず、嘉人はこんな状態でも嘉人だった。 「見えるよ」 「銀河は?」  嘉人はそう訊いてきた。 「なに?宮沢賢治?」   「……そっからなら、あずさちゃんの乗ってる銀河鉄道にも乗れるかもな」  嘉人の言葉を聞いて、僕は空を見上げた。    もうすっかり暗闇に目が慣れてしまい、暗闇の天空に、針でくり抜いたような数えきれない数の星を目で確認することができた。一つ一つが、少しずつ違う輝きを持っている。同じものなんて一つ限りとして存在しない。それぞれが、それぞれの存在理由と存在価値がある。それは、僕にはまるで命の灯のように見えて、なぜだか悲しく思えてきた。  どこかの神話で、亡くなった人が星座になった話があった気がする。それなら、あずさも、この満天の星空のどこかで星座へと昇華したのだろうか。  僕は無意識に赤い星を探す。白い星や、黄色い星があるのだ。赤だって、あってもいいだろう。    あずさがトラックに轢かれた原因は、主にあずさの不注意にある。典型的な信号無視による、最悪な事例。最近は滅多に聞かない信号無視によるあずさの死亡事故は、ニュースにも取り上げられていた(未成年だから名前は伏せてあったけれど)。  そして、どうやら僕は無意識にその“赤”に固執していたらしい。 「星ってさ」  僕は口を開く。 「なんか、天国の覗き穴みたいだよな」  満天の空に広がる、眩いほどの星屑は、“ここ”と“向こう側”を繋ぐ、唯一の隙間のように感じられた。そう思うと、星空が急に近くなったような気がした。ぐっと、一段階空に近づいたような、そんな気がする。  星空には無数の命が煌めいている。そこは遥かに広大な世界で、僕のものさしでは測りきれないほどの大きさで、だからこそ“それ”は、果てしなく遠いものに感じていた。けれど、今はどうだろう。  彼女は死んで星座になった。  僕は死のうとして、少し星座に近づいているのだろうか。    星屑の草むらで、そっと息を吐いた。      海の音が止んだ。     ◆    ふと、異変に気付く。  座っていたという感覚も、気づけばどこかに消えてしまい、今では“確かに二足で直立している”感覚が僕にはあった。一体、いつの間に僕はその場で立ち上がったんだろうか。 「……あれ」  そんな確かな不可解な現象に困惑して自分の周りを見渡していると、もっと不可思議なこの状況に気付く。 「あれ……駅か?」  先程まで眺めていた海は、“あまりにも大きすぎる月”の灯りに照らされて、目に優しいふわふわした結晶のようなピンポン球サイズの光の粒を反射していた。そして、蛍のような光の粒が飛び交う海面の奥。ここから五十メートル程離れたところに、“海に浮かぶ駅”が見えた。  どれだけ目を擦っても、確かにここには幻想的な空間が広がっていた。 「……」  気がつけば僕は、砂浜から海の中に足を踏み入れていた。  反射した光の粒子は僕の眼前を何度もゆらゆら過ぎていく。たまに、魚の群れのように集団になった粒子が僕の目の前を過ぎていくこともあった。  思わず笑みが溢れる。  あまりにもこの空間が現実を逸脱し過ぎていたのもあるけれど、同時に、僕にはこの世界がどうにも可笑しくてたまらなかった。 「あはははっ」  膝下まで海に浸かった足をゆっくりと前に進める。いつのまにか、大きめの声で僕は笑っていた。  何もかも、すべてに解放されたようだった。  どうにも息苦しかったのだ。君のいない世界が、僕はつまらなくてどうしようもなかったのだ。それは、朝まともに起きることすら困難になってしまうほど。 「綺麗だなぁ」  光の粒はそれぞれで意識があるような動きをする。僕に執拗に戯れてくるやつもいれば、手を伸ばしてもサッと避けていくやつもいる。こちらとしては若干傷つくけれど、楽しかったので、そんな気持ちはすぐに無くなった。  輝く海をどれだけ歩いても、水深は一切変わらず、依然として膝下の位置をキープしていた。水温は適切で、ひんやりと気持ちがいい。僕が作った海面の波紋は、まるで芸術品のような幾何学的な模様を作って消えていった。そういえば、この不思議な海には自然が発生させる波がない。だからこそ、僕が起こした幾何学模様の波は一層儚く散っていった。    そして、しばらくすると海面に浮かぶ駅に着いた。  その駅は、西綾乃町の最寄駅の形ではなかった。どちらかといえば、ここから少し田舎の方にありそうな駅の形というイメージが強かった。明らかな老朽化を感じる錆びた柱。ボロボロになったアスファルトの地面。当然、自販機などは設置されておらず、休憩室なども、この駅にはなかった。必要最低限の駅のシステムが老朽化した状態で存在している。  入口を探してみる。  見たところ、改札なんてものはない。ただ単に、ホームが忽然とそこに在るだけなのだ。 「……いや、……そもそも、電車が来るかどうかも分かんないだろ……」  そっと吐いた独り言は誰もいない駅と海に響く。 「……仕方ないかな」  僕はそう言い、この駅のホームが電車一両分の長さしかない事に感謝しつつ、無理やりホームによじ登った。若干の罪悪感を味わいながら僕は、駅のホームに誰もいない事を確認しつつ、設置されているベンチに腰をかける。 「……んで」  僕は、どうすればいいのだろう。とりあえず、現状の確認をしてみよう。 「……」  ほんの数分前まで、僕は確かに死のうとしていた。死のうと思って、海岸まで来たのだ。けれど、嘉人と電話をしていると、何故だかこんな所にいた。瞬きをするよりもずっと一瞬で、欠伸をする事が決して許されないほど不可思議に満ち溢れた空間。世界中の冒険家が喉から手が出るほど夢見る光景なのだろう。海面に反射する光の粒、通常の五倍ほどの大きさで天に浮かぶ満月。そして、海面にぽつりと佇む電車一両分の幅しかない駅。 「……なんなんだよ」  しばらくすると僕の感情は、ここの不可思議な空間にいる楽しみよりも、せっかく死ねたのに死なせてくれない事実に、だんだんと苛立ちを感じていた。  まだ、月明かりがしっかりと駅のホームに降り注いでいた。しばらくすると、反対側に駅のホームがない事に気づく。ということは、ここに来る電車は一方通行。まぁ、そもそも、電車が来るかどうかも怪しいところではあるけれど。  僕は立ち上がってホームの黄色い線の外側に立つ。そっと、ホームの下(本来なら、線路があるはずの場所)を覗いてみたが、やはりそこに線路なんてなかった。 「……でもまぁ」  僕はため息を吐く。 「綺麗だし……いいや」  疑問も苛立ちも、不安も欲も。そんな数々の感情が、この場所にいるとふわっと浮き出しては一気に浄化されていくような気がした。全てのことが本当はとてつもなく小さく些細な事だったような気がして、……今では、何も感じなくなってきていた。    いや、それは正しくないかもしれない。本当は“ただ一つの感情”を遺していた。   「…………あずさ…」    ぽつり、と、声を溢す。    もしここが銀河鉄道の駅だとするならば、いつかやって来るであろう電車の中に彼女が乗っているのだろうか。  もう一度顔を見たい。声を聞きたい。髪の色、肌の色、唇の色、眼の色。服の匂い、髪の匂い。今では全てが尊くて、懐かしい。 「……一人が寂しいわけじゃない……」    君がいないのが、寂しいんだ。    
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