霽月

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 “僕”と言うのは、ボクが彼女と交際する以前の一人称だった。彼女と交際を始めてからは、無理やりにでも“俺”という一人称で喋ることにしていた。  強くあろう、格好良くなろう、男前と言われるような、そんな人間になろう。  馬鹿みたいだ。  好きな人が出来たからではなく、好きな人と交際を始めてから自分を変えようとするなんて、僕は本当に馬鹿野朗だ。けれど、彼女はそんな僕の事を好きだと言ってくれたのだ。大切に思ってくれたのだ。  本当にいい女の子だった。  オシャレに疎くなくて、いつも会うたびに色んな話をしてくれる。笑った顔にできた可愛いえくぼを当の本人はコンプレックスらしく、無意識に謙虚さが滲み出ていた。けれど、付き合い始めてからは、というと。  ドジ。  笑い声がうるさい。  喧嘩するとすぐに拗ねる。  声を出して欠伸をする。  遊びに行く時は誰と行くのかメールをしないと怒る。  部屋が汚いと怒る。  返事が曖昧だと機嫌が悪くなる。  仲直りするとすぐにベタベタしてくる。  買い物に行くと選ぶのが遅い。  謝る時はいつも向こうから。  買い物が遅くなると、いつもごめんって謝ってくる。  手作りご飯は美味しい。  俺がヘコんでも、すぐに慰めてくれる。  いつもありがとうってちゃんと言葉で伝えてくる。  おつかれ、とか、ごめんね、とか。ちゃんと言えるやつだった。   「ホント……馬鹿な女だよ」    僕なんか、好きにならなければ、死なずにすんだのに。出逢わなければ、お互い好きになる事も、こうやって別れる事もなかったのに。  あずさは、一体誰のために死んだんだろう。どうして、死んだんだろう。あの時、赤信号の横断歩道で一体何があったんだろう。  僕は、どうすればいい。  トラックの運転手を恨めばいいのか。それとも、いきなり死んだ彼女を責めればいいのか。  どうして。    その時、電車のけたたましい走行音が駅内に響いた。    僕は反射的に、いつのまにか俯いていた顔を上げる。この駅に電車が来たという事実よりも、僕は“その電車に誰が乗っているのか”というのが気になっていた。電車は、どういうわけか宙をぐるぐると円を描くように走行していて、降下してきたかと思えば、一旦離れて、位置を整えてから再びこちらに向かってきた。電車……いや銀河鉄道は、右から左へ(ここから海岸の方が電車の頭になるような向きで)停車した。  僕の予想通り、電車はわずか一両分しかなく、電車の装甲には星のマークが彩られていた。   「あずさは……」    ベンチを立ち、電車の側まで走って寄っていく。そして、車両の中を覗き、必死にあずさの姿を探した。  そして、    一番前部の窓際の席に座っていたあずさと目が合う。    息が止まったかと思った。  心臓が誰かに握り締められたんじゃないかと思うくらい、強く、きつく、僕の心はかつてないほど締め付けられた。それは、初めてあずさとキスをした時のものとは比べ物にならないほどだった。  プシューと、車両の二つのドアが開く。  僕は彼女から一番近い、車両前部のドアへと駆け寄り、あずさと、今度は堂々と対面する。  あずさは、目を丸くして、微かにはにかむような笑顔を溢して、席を立ち上がって僕の方へ近づいてきた。   『当車両は、十分間停車いたします』    スピーカーなんてないはずの駅から、そんな一般的な駅のホームのアナウンスが流れた。   「久しぶり」  僕は、近づいてくる彼女にそう言った。 「――どうして?」  艶やかな髪が揺れる。 「どうして来ちゃったのよ」  彼女は、悲しそうな顔をしていた。  まるで目の前で仔猫が死んでしまったかのような、そんな悲しげな顔。 「ごめん。ホントにごめん」  僕は謝った。  出来る限り精一杯の気持ちを込めて謝った。 「ダメ。無理、……ホントに……」  彼女の表情は曇った。  あずさと僕は依然として、電車と駅のホームを跨いで会話をしていた。  僕は、それがどうにもまどろっこしくて、彼女の手を引いて駅のホームに連れ出してやった。 「——ッ!」  彼女は驚きの顔をしている。そのぱっちり二重の両目を丸くして、僕の事を見ていた。そして、しばらくすると、それは再び悲しみの視線へと変わる。困り眉になって、下唇を噛んだ彼女は俯いたまま、僕の両手を握った。 「……ダメだって……」 「ごめん」  あずさは、今にも折れそうな声を出していた。対する僕は、彼女に出会えた、もう一度再会する事が出来たという事実に脳が追いついておらず、謝ったのも彼女を引っ張り出したのも、全部本能的な行動だった。 「……死んじゃってごめん」  しばらくして彼女が口を開く。  あの日着ていたデート用のオシャレな服を身に纏った彼女の顔を、僕は見つめる。  涙の跡があった。  鼻がほんのり赤くなっていて、泣きじゃくったというのが見て伺えた。 「どうしてここにいるの?」 「…君に会いたくて」 「馬鹿じゃないの」 「馬鹿だよ」  よく見ると、彼女の服は血に滲んでいた。もとから紺色が基調だった所為で気づかなかったけど、手足なんかは赤い鮮血塗れだった。やはり、どれだけ現実を否定しても、彼女は事故死したのだ。  そして今“此処”にいる。 「俊男は、死んだの?」 「分からない。……けど、……」  僕は彼女の手を握って、確かな“違和感”に気づいた。あれだけ夢見た彼女の身体は、もうすっかりと“冷え切っていた”。まるで、木や石なんかを触れているかのような、そんな無機質な温度。  僕は改めて、彼女は死んでいるんだなと思った。 「……どうしても君に会いたくて」  それでも、僕は彼女の両手を離さなかった。たとえ、その両手に温度が無くても。たとえ、これが最期の時間だとしても。 「だから、……会いに来た。それだけだよ」  今はもう、僕が死んだかどうかなんてどうでもいい。ただ、あずさと二人で入れるこの時間をしっかりと頭に焼き付けていたかった。  時間が止まればいいって、本気で思った。 「……でも、ダメよ」  あずさは拒絶を続けた。  僕の手を離そうとする。けれど、僕は離れようとする彼女の両手を握ったまま離さなかった。離したら、そこで“終わる”ような気がした。 「どうして……」 「あなた、“切符”を持ってないでしょ?」  そこでハッとする。  そうだった。  もし本当にこの電車が銀河鉄道ならば、この電車に乗るための切符があるはずなんだ。  そう思った僕は、必死になってズボンのポケットを漁る。けれど、何度確認しても、僕のポケットには財布しか入っていなかった。念のため、財布の中身も確認しておく。紙幣、小銭、カード……“切符”なんて、どこにもなかった。 「ほら。……あなたは、『特別な切符』すら持っちゃいないのよ。だから、——あなたは乗れない」  彼女の顔からは、痩せ我慢を感じた。心の内側から溢れ出すものを必死に押さえ込もうと、歯を食いしばって僕に笑いかけている。 「……乗っちゃダメなの」  だんだん彼女の声が鼻声になる。 「だから、もう帰って」  ぐっと堪えたその感情が何かなんて、僕でも分かる。けれど、一体なんて声をかけたらいい。死んだはずの彼女と再会して、今こうやって両手を握っている。距離はゼロ、お互いの呼吸さえ届いてしまうほどの距離なのだ。一番困惑しているのは、この僕だ。  もっと話したい事がある。もっと訊きたい事がある。 「……まだ、帰りたくない」   「——帰って!」    彼女が声を張り上げた。  この誰もいない駅のホームに反響したその声は、まるで子供を叱る母親の怒声のように聞こえたけれど、僕にはそれが“なんで”なのかなんて、すぐに判った。 「……せっかく、……準備してたのに……」  彼女は嗚咽を漏らした。  両目からほろほろと、宝石のような涙が音もなく流れる。僕は、彼女の手を一旦離して、その涙を拭ってやった。 「…なんの準備?」 「……この世から……——消えていなくなる準備……」    たとえば、天国に行くのに三途の川を舟で渡るのだとするならば、現代版の天国に行く手段は、電車なのだろうか。  彼女はまだ、天国に行けていない魂だったのだ。そんな彼女が「天国に行く準備」をしていた……——つまりは、もう僕に会えないという心の整理をしていた。それなのに、僕がこうやって駅のホームに居たから……。 「それはごめん」 「……」  彼女は沈黙した。  俯いたその顔には、未だ感情が押し殺されているのが手に取るように分かる。  もっと泣いていいよって。  最期くらい僕に甘えてよって。 「……」  言えない自分が悔しかった。    一分ほどの沈黙の後、一番先に口を開いたのは彼女だった。 「新しい彼女、できた?」 「できるわけないじゃん」 「どうして?もう半年近く経ってるでしょ?」 「——君の事を忘れられないんだよ」  僕の口からは嘘偽りのない正直な言葉が出ていた。どれだけ考えないようにしていても、必ず頭の片隅に残り続ける彼女の片鱗が、今までずっと僕を追いかけていた。どれだけ目を逸らしても、見えないようにしても、“それ”は、しっかり現実として残っているのだ。 「……死んでほしくなかった」  “それ”がただの我儘でもいい。  恥ずかしくて痛い感情であったとしても、別に僕は構わない。 「……ずっと一緒に居たかった」  拙くて不細工で格好悪い。どうしようもないほど、焦れったくて眩しい。——少なくとも僕は、この感情をそう表現する。 「もっと話したいことがたくさんあった」  僕は全てを喋った。  たったこれだけの文だけれど、言い包めば、これだけの文で伝えられるほど単純な答えだったのだ。 「大好き。大好きだよ……」  僕はそっと呟く。  まるで生まれたての子犬を両手で抱きかかえるような、そんな慎重具合で、優しく丁寧に言った。 「私もだよ」  あずさが泣き腫らした目で僕の顔を見上げた。 「………離れたくない。本当は……もっといっぱい話したいことがあるの。でも、——もうお別れ」  彼女は、両目から涙を流していた。目を赤くして、鼻をすすって、嗚咽で言葉が途切れ途切れになっていたけれど、その声はたしかに僕の耳に届いていた。 「……やっぱり………————離れたくないよ」  彼女は僕の両手を握ったまま、自分の額を僕の胸にぶつけた。痛くはない。けれど、心が痛い。 「うん……」  あずさは、そう返事をした。    太陽が昇り始めた。  海の向こう側で、少しずつ明るい光が見え始めていた。 「……僕は、この先……君なしでどうすればいい?」  いつのまにか口に出していた“それ”は、あずさの耳にも届いていたはずだ。あずさは考え込むように涙を拭って呼吸を整えた。そして、僕は言う。 「……本当はもう…——全部知ってた」  死んだ人間が生き返ることはない。ましてや、人間の記憶なんて脆く儚いものだ。いつかきっと、彼女を愛する僕の心は、記憶の希釈化と共に薄くなって、やがて消えてしまうのだろう。 「……もう、会えない」  ただ残酷なほど冷徹な現実が、其処(そこ)に在る。もう決して動かない事実として「彼女が死んだ」という単純な答えが、悠々と僕の感情を蝕んでいる。  次の日、目が覚ませば、彼女がおはようって言って僕を起こしてくれる。そんな妄想はもう何度したことか。  その度に、やはり彼女が死んだという事を思い出す。その度に、今自分が生きている事を後悔する。やっぱり僕が死ねばよかった。そうした方がよかった。 「今から死のうかな…」 「だめ」 「どうして?」  彼女は僕の肩を掴んだ。そして、眼前にまで顔を近づけて額を僕と合わせる。 「——あなたは、まだ生きてる」    涙が流れた。  僕の視界は次第に歪んで、ぼやけていく。彼女が僕の頰に伝う涙を拭ったことで、ようやく涙が流れていたことに気がついた。 「そして、これからも生きて」  あずさの言葉が胸に刺さる。  それは心にぽっかりと空いた穴に、一寸の狂いもなく見事に突き刺さった。心から漏れ出していた僕の感情を、塞き止めたられたような、そんな気がした。 「それが私の最後のお願い」  朝日が昇っている。  “終わり”が近づいている。 「……そっか……」  僕は涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑った。    もう、仕方ないじゃないか。  彼女に「生きて」と言われたら、生きるしかないじゃないか。どれだけ死にたくても、この世からいなくなりたくても、もう死ねない。僕が死のうと思ったのは他でもなく彼女のためなのだから。その本人に、死ぬ事を拒否されてしまったら、もう生きるしかない。 「生きて、生きて、生きるのよ。老いぼれになる前に“こっち”に来たら、許さないんだから」 「ははっ、手厳しいなぁ」  僕は笑った、彼女も笑った。  誰もいない駅のホームに、僕ら二人の泣き声混じりの笑い声が響いていた。朝日が海の向こうから顔を出し、駅のホームには朝日が差し込む。暗闇の光の粒は、朝日の光を吸い、綺麗な橙色に輝き始めた。  そして、    僕はそっと彼女の唇にキスをした。  彼女も僕にキスをした。  二人で顔を見合わせて、笑った。                  愛してる。                  次の瞬間、僕は、あの何の変哲も無い西綾乃の海岸で一人だった。浜辺に打ち上げられたように砂浜で大の字で寝ていた。すっかり空は朝日に包まれていて、海の向こう側からは眩しい太陽が意気揚々と僕を照らしている。この世界には、もう、駅のホームも、銀河鉄道も、電車も、彼女も、どこにもなかった。  けれど、僕の心にはもう、穴なんてなかった。ぐちゃあ、と音を出して空いた穴が確かに埋まっていた。  僕は砂浜に放置されてあったスマホを手に取る。未だに流れ続ける涙を拭いながら、嘉人の連絡先を選択して電話をかけた。  電話はすぐにかかった。 「……嘉人、死ねなかったよ」 「……そうか」  嘉人は、いつもみたいに冷静だったけれど、どこか安堵しているような声だった。 「……何があったんだ」 「……べつに、何も無いよ。ただ…」 「“ただ”……?」 「…ただ……————生きるように言われた」 「…そっか」 「だから生きるよ。意地でも生きてやる」 「…乗り切ったのか?」 「乗り切る?……——無理だよ。一生無理だ。……でも、それでもいい」  僕は嘉人にそんな電話をすると、母親に「やっぱなんでもない」とメールをしてから、歩き出した。  海岸を背に、歩み始めた。    気持ちは()れた。  彼女の事を忘れるなんて一生無理だけれど、絶対に乗り越えられない壁があるなら、遠回りすればいい。ゆっくりゆっくり時間をかけて、少しずつ確実に前に進む。きっとこの先、彼女の死を受け入れるのには相当な時間がかかる。けれど、だからといって立ち止まるわけにはいかないのだ。何年でも何十年でも時間をかけて進んでやる。それが、今自分に出来る精一杯の事なのだ。  学校に行こう。友達と会おう。倉島にも会おう。心配かけて悪かったって、今度また喫茶店でも行こうぜって。実は僕の初恋の相手はお前だったんだぞって。きっと面倒くさい顔をされてしまうだろうな。  でも、どうしてだろう。  何故だか、不思議と悪い気はしない。    そうやって、僕は静かに笑ったのだった。                              
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