茜の少女

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いつものように、ぼくは桜の木の陰で、本を読んでいた。 ここは暑さをしのぐことができるし、人があまり来ないから、お気に入りの場所だ。 熱風の中にも、時折そよ風が吹いていて、気持ちが良い。 いつしかぼくは本をおなかの上に置いて、そのまま眠ってしまった。 目を覚ましたら、大きな赤い蝶が僕の目の前を通り過ぎた。 僕は有名な蝶の種類なら、いくつか図鑑で名前を確認するぐらい好きだけど、この日見た蝶は違った。 大きさはオオゴマダラに似ていたけど、羽の色が夕焼けみたいに赤い。 僕が持っていたどの図鑑にも載っていなかったし、その姿に全く見覚えがなかった。 何という名前の蝶なのか、知りたかった。 図書館で借りてきたこの図鑑になら、載っているのかもしれない。 あいにく今は本を読むことより、蝶を追いかけることの方が先だ。 でもすばしこくて、なかなか捕まえられない。 あちらこちらの花の蜜を吸いながら、ふらふらと羽ばたく。 「待ってよ」 ぼくは、捕まえられないもどかしさにいらいらしながら、蝶を追いかけた。 相変わらず、予測できない飛び方で僕を翻弄する。 いつの間にかぼくは公園を飛び出して、見知らぬ道を走っていた。 一度も通ったことがない街を通り抜け、猫が通りそうな路地裏を伝い、広場に出た。 慣れない走り方をしたからか、ぼくの息は上がっていた。 いつの間にか日が沈みかけていて、空は夕焼けに染まっていた。 でも、蝶の姿が見当たらない。 「あれ?一体どこに行ったんだ?」 戸惑った僕は、あたりを見回した。 「ここよ」 可愛らしい女の子の声がして、ぼくは振り返った。 さっきまでなにもいなかったはずなのに、そこには確かに女の子の姿があった。 肩ぐらいある黒髪を、赤いリボンで二つ結びにしている。 太陽のように真っ赤なワンピースと、小さな黒い靴が彼女によく似合っていた。 歳はぼくと同じくらいだ。 「きみは誰?」 「あたしはアカネ」女の子はくすくす笑いながら、自己紹介をした。 「あなた、あたしのことをずいぶん追いかけまわしてたじゃない」 「全く失礼しちゃうわ」 アカネと名乗る少女は、むっとした表情を顔に浮かべた。 「何を言っているんだ?」彼女が言うことが理解できなかった。 遠くまで来たこともあって、気が動転しているのだろうか。 「あなたにいいことを教えてあげる」とアカネは言った。 「ここはね、あたしのお気に入りの場所なの」そういって、アカネは空を指さした。 「夕日が綺麗に見えるでしょ?」 「ほんとだ」ぼくは空を見上げた。 オレンジ色の鱗雲がたなびいて、夕日を美しく染め上げていた。 「それに、あたし人ごみが好きじゃないのよね」うんざりしたような表情で、アカネが首を振る。 「カメラのシャッター音がカシャカシャうるさいし、食事中ぐらい静かにしてもらいたいのに、たまらないわ」 「すごい……」 ぼくは夕日に見とれていて、彼女の言葉に耳を傾ける余裕がなかった。 こんなに美しい夕日を見たのは、生まれて初めてのことかもしれない。 「きみは、どうしてこの場所をぼくに伝えたんだい?」気がかりになって、ぼくは質問した。 彼女は振り向いて応える。黒目がちの大きな瞳が僕を捉える。 「だって、あなたは純粋だからよ」 「虫取りと読書が好きで、自然と遊ぶのが好き」 「混じりっ気がない子供だから、あなたに心を開くことができたのかもね」 「そうか」ぼくは分かったようで分からない、曖昧な気持ちになって返事をする。 君も子供じゃないか。面と向かっては言わないが、心の中で毒づく。 と同時に、ぼくは大切なことを思い出した。 「あ!もうそろそろ母さんが、料理を作ってぼくを待ってる!」 今更になって、遠い場所に来ていることを思い出した。 潮風が香る、見知らぬ港町。 「でもどうしよう、帰り道がわかんないよ……」 「大丈夫よ」アカネが胸を張る。 「帰り道はあたしが知ってるから、心配しなくていいわよ」 「でも、どうやって帰るんだい?」 「まずはね、あたしと手をつなぐの。 「そしてあたしが1,2,3って言うから、目をつぶって歩きなさい。」 「分かった」 「そんなに心配しなくても、来年の今頃になったらまた会えるわよ」アカネが励ますように言う。 ぼくは彼女の右手を握る。白い肌がすべすべしていて、気持ちいい。 「行くわよ!そーれ、1,2,3!」 ぼくは慎重に足を踏み出した。その瞬間、ぼくは光の粒に包まれたような気がした。 「さようなら」 アカネの声が聞えたような気がしたけど、多分気のせいだ。 *** 気が付くと、ぼくはあの桜の木の陰で、うつぶせになって倒れていた。 蝉の鳴き声は止んで、コオロギか何かの囁くような声がする。 読みかけの本が、ページを開かれたままの状態でそこにあった。 草にまみれて汚れてしまったそれを、ぼくはなんとなく開く。 そこには、「アカネマダラ」についての情報が載っていた。 学名はLimenitis Macaria。 全翅長は約135ミリ。 オスの表面の体色は黒色。メスは赤褐色。 雌雄ともに白いまだら模様がある。 翅に太陽光が当たることにより、メスの翅は鮮やかな赤橙色に見える。 メスはオスより少し大きい。 裏面は雌雄ともに黒褐色。 幼虫はガガイモ科の植物の葉を食べる。 成虫はアベリアやサルビアの花で吸蜜する。 渡りをすることで有名で、8月に南から日本に飛来する。 別名はワタリマダラ。 北はロシア、南は南西諸島まで渡りを行う。 飛び方は素早い。およそ時速50キロで飛翔する。 準絶滅危惧種であり、標本やペット目的の乱獲による被害が後を絶たない。 「もしかして、あの子って……」 頭の中にあるひとつの推測を、ぼくは頭を振って忘れようとした。 「母さんが心配している。もうすぐ帰らなきゃ。」 図鑑を手に持って、急いで家に向かった。 見覚えのある赤いリボンが、アカネマダラのページに挟まれていることも知らずに。
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