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1.
陽太は、小さくため息を吐いた。
夏休みはまだ始まったばかりである。
本来ならウキウキワクワク浮かれていてもおかしくないのだが。
実家の自室のベッドの上で、彼はゴロリと寝返りを打って、もう一度小さく息をつく。
三月末に家を出て、たったの四ヶ月。
それなのに、それまでの十八年間自分の城だったはずのこの部屋にいることが、なんとなく落ち着かない。
原因は、もちろんわかっている。
隣にそのひとの体温がないから。
―――陽太、My precious,You’re my everything.
その腕に包み込まれるように抱き締められて、止まない雨みたいに途切れることなく、耳許に囁かれる愛の言葉をBGMにしていないと落ち着けなくなってるなんて。
夏休みが始まってすぐ、陽太と鷹城が東京に戻ってきたのは今日の昼過ぎだった。
鷹城はそのまま、本拠地にいないとできない仕事が山積みらしく、陽太を実家に送り届けたその足で仕事先へと向かってしまったのだ。
「どーしてもやんなきゃダメなこと、片付けてくるから。久しぶりの実家でご両親に甘えてきな?」
そう言われても、両親は二人とも仕事で夜まで帰宅しないし、姉もバイトで留守にしている。
一人で家にいるとき、いつもかまっていた愛犬のタロウも今はもういない。
家の中に、自分の他に生きているものの気配がないことが、こんなにもさみしく孤独感を煽るだなんて。
ここにいると、ついうっかりタロウの気配を探してしまう。
無意識に、自然に。
タロウは陽太が三歳のときに、成犬になっても売れ残って処分寸前だったところを引き取ってきた犬だ。
共働きで忙しい両親の代わりに、いつも陽太の側にいてくれたかけがえのない家族だった。
父親と姉と一緒に始めた早朝のタロウの散歩は、なかなかふれあう機会のない忙しい父親との貴重なひとときを作ってくれて。
父親の仕事が忙しくなってからは、姉と二人、遅刻しそうになるほど、タロウと川原で転げ回って遊んだ。
そして、姉が中学に上がって、部活や勉強で忙しくなってからはずっと、タロウの散歩は陽太の仕事だった。
いや、陽太にとっては、家族がみんな留守でも、タロウがいてくれたからさみしい思いをすることがなかったわけだし、タロウの散歩は仕事というよりも、一緒に遊ぶ楽しい時間だったのだが。
そして、タロウとのその散歩の時間が、鷹城との出逢いももたらしてくれたのだ。
まるで、先に天に旅立つタロウの代わりに、その先も長く生きるはずの陽太に寄り添ってくれる相手を引き寄せたかのように。
そういえば、主人にとても忠実な、警戒心の強い犬だったタロウが、鷹城にはかなり早くから懐いていたような。
それは単なる気のせいかもしれないけれど。
そして、鷹城はその遺志を知っていたかのように、タロウを亡くして心にポッカリ穴が空いた陽太の側にずっと寄り添って居てくれたのだ、としみじみ思い知る。
タロウを亡くしたのは受験勉強の最中で、ゆっくり悲しんでいる間もなかったし、その後は新生活に飛び込んでしまって、常に鷹城が側にいてくれたから、そこまで悲しみに落ち込むことなくいられたのだろう。
でも、今、こうして独りで実家にいると、嫌でもタロウの思い出に浸ってしまいそうだった。
そんなふうに陽太が悲しみに沈むことを、きっとあの主人想いの賢い犬は望んでいないはずなのに。
気持ちを切り替えようと、スマホのゲームアプリを開いてみるものの、少しも気持ちが乗らずにすぐに閉じてしまう。
ついでのようにメッセージアプリを開いてみても、いつも陽太が学校やバイトで一緒にいないときにはどうでもいいメッセージをストーカーばりに送ってくる鷹城なのに、やはり仕事に忙殺されているのだろう、何度確認してもメッセージは一つも入っていない。
俺ってこんなに情けないやつだったかな。
思わずそんなことを思ってしまう。
鷹城がいないだけで、こんなにも何もすることがなくなってしまうなんて。
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