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4.
見合いが延期されたことで、暁斗は少しだけ解放感を味わっていた。残り少ない学生生活も、今頃になって楽しむ気分になった。授業が終わればさっさと帰ることが多いのだが、今日は学内のカフェで無駄な時間を過ごしてみたりしている。
アイスカフェオレを片手にもう片方の手でスマートフォンを操作し、少ない友人の一人にカフェで待っている旨を連絡する。素っ気ないメッセージを送信すると、丸いテーブルにスマートフォンを放った。
暇を持て余し、なんの気なしに顔を上げる。少し離れた席の女子学生二人が暁斗を見ていて、暁斗が気づくと慌てて目を逸らした。二人は頬を赤らめ、顔を寄せ合い興奮気味になにか囁き合っている。自惚れでなく、自分のことで盛り上がっているのだろう、と暁斗は冷めた目で彼女たちを見やった。
暁斗が通う湊美(そうび)学園大学は、有名セレブの令息令嬢が通う名門私立大学として名が通っているが、暁斗の実家はその中でも特に裕福な方だ。その上暁斗は、数多いる芸能人の子供たちや、自身もモデルだという学生たちにまったく引けを取らない美貌を兼ね備えている。
暁斗はスーパーセレブのイケメン御曹司として、学園内の超有名人なのだ。特に女子学生たちからはアイドルか――王子様のように扱われていた。
「王子! お待たせ!」
と、実際に面と向かって呼んでくる者は珍しいが。――しかも男子学生で。
暁斗はストローを噛みながら、ふざけた友人を冷たい目で見上げた。
「王子、はやめろ。マツリ」
「あれ? ダメ? じゃあ……若!」
「若はもっとやめろ!」
暁斗がムキになると友人はケラケラと笑って、暁斗の隣の椅子に腰を下した。
「暁斗なら王子、呼びも全然違和感ないんだけどなぁ」
しつこく王子イジリをしてくるのは、暁斗と同じ四年生の友人――吉岡茉理(よしおかまつり)。中等部からの腐れ縁で、暁斗の数少ない友人で――たった一人の親友だ。
「じゃあお前は、王子様の……馬、な」
「ええ~、ひっど! 俺、そんな馬面じゃないよ! 暁斗には負けるけど……可愛い系だし?」
茉理は自分のスマートフォンのインカメラを立ち上げ、そこに映る自分の顔にニヤリと笑った。茉理はふざけた奴なので冗談なのだろうが、角度を変えてキメ顔を確認しているのを見ると、半分ぐらい本気なのかもしれない。暁斗は失笑した。
茉理は今時の爽やかな――イケメン、と言ってやるのは友人のよしみだが、クリッとした目の可愛い顔立ちではある。今はスリム体型だが、出会った頃は丸々と太っていたのを、数年かけてダイエットに成功し、スマートな見た目を手に入れた努力家でもある。
「あ、茉理、お前就活終わったんだし、たまにはジム顔出せって蓉司が」
茉理のダイエットに協力したのは、暁斗と蓉司、そして志信だった。中学時代に茉理と友人になってから、自然と茉理は蓉司や志信とも親しくなっていった。志信は三つ、蓉司は五つも年上だが、茉理は明るく人懐っこい性格なので、あっという間に二人とも親しくなった。特に蓉司とは、格闘技を取り入れたエクササイズの個人レッスンを受けるぐらい仲が良かった。二人で遊びに出かけたことも何度かあると聞いている。
「あ~、そうだなぁ、最近ちょっと太っちゃったし……でもいきなり蓉司とジムはハードかも。かなり鈍ってる気がする」
「あいつ、やっぱ医者よりトレーナーの方が向いてるよな。もしくは、親父の跡継いでうちの警備会社に入ればよかったのに。で、指導教官とか」
蓉司の父は、御城の系列企業の中核を担う大手警備会社の取締役に就いている。舘山家が御城の護衛を務めてきたノウハウを生かし、商業施設などの警備から、VIPの個別警護まで幅広く事業を展開していた。
「でもそれだと、蓉司が俺の上司になっちゃうから……俺的には微妙だったかも。蓉司、医者のくせに体育会系だよね。練習、めっちゃスパルタなんだもん」
茉理が心底怯えたように話すので、暁斗は声を立てて笑った。茉理はその御城の警備会社に就職が内定している。暁斗のコネではなく、自分で就職活動をして手に入れた内定だ。
茉理が御城の関連企業に就職活動していると知った時は、その会社に入りたいなら自分を頼ってくれればいいのに、とも思ったし、中学からの付き合いなのにさらに会社までついてこなくても、とも思った。茉理は友人なのに、いつまで経っても暁斗に恩、のようなものを感じているのだ。
暁斗が茉理と親しくなったキッカケは、中等部時代にイジメを受けていた茉理を助けたことだった。
茉理は暁斗と同じく、中等部から湊美学園に入学した。学園には幼稚舎からのエスカレーター組も多く、学園内のカーストはエスカレーター組の方が高い。家の裕福度と、いつから学園に通っているかで決まる学園内カーストにおいて、中等部からの入学で、両親はともに医者だが勤務医、という茉理は底辺に近く、また、太ってどんくさくもあったので、イジメの標的になりやすかった。
対して暁斗は、中等部からの入学だとしても、御城の名はそれだけでカースト上位に上るのに十分だったし、なおかつ見た目は王子様のような超がつく美少年で、カースト上位は約束されたようなものだった。しかも暁斗に付き従って三つ年上の志信が同時に高等部に編入し、わざわざ中等部の暁斗の世話をしにきていた。今時、お付の者を従えて学園に通う者はセレブ学園でも珍しく、暁斗はイジメとは程遠かった。友人ができにくいのは同じだったが――。
暁斗が茉理と一緒になるようになると、誰も茉理にチョッカイを出さなくなった。初めはイジメを受ける茉理を気の毒に思って助けただけだったが、つるんでみると茉理は明るくて楽しい奴で、暁斗はすぐに茉理を好きになった。
茉理はそんな何年も前の、暁斗にとってはなんでもないことを、いまだに恩義に感じている。だから就職した後は恩返しとして暁斗を支えたいのだと、内定が出た時に聞かされた。茉理が示してくれた厚い友情は嬉しかったが、シャイな性格の暁斗は、俺が社長になったらコキ使ってやる、とだけしか返せなかった。茉理は、それもわかって笑ってくれた。
暁斗は生まれ育った村を出て初めて、親友というかけがえのない存在を手に入れたのだ。
「ジムはちょっと考えちゃうけど、久しぶりに志信と蓉司とも遊びたいな。社会人二人と一緒だと……大抵奢って貰えるし」
可愛い顔をしていても、茉理はチャッカリ者だ。年上の友人の扱いを心得ている。
いつもならそこで笑う暁斗だが、志信の名前に表情が曇る。
「……あれ? 暁斗、どっちかとなんかあった?」
もしくは両方? チャッカリ者で勘もいい茉理が暁斗の顔を覗く。暁斗は少し考えて、辺りを見回した。ちょうど四限が始まって、学生は減っていた。暁斗たちのテーブルの近く、内緒話が聞こえる距離には学生の姿はなかった。
「……お前が引くような話、してやるな」
暁斗は茉理に顔を寄せ、声を潜めて自身の見合い話を伝えた。まだ大学も卒業していない暁斗に縁談が持ち上がったことにも茉理は驚いたが、可愛い顔を引きつらせたのは、男子が何人か生まれれば男遊びでもなんでも好きにしろ、という御城家の総意を明かした後だった。
「なにその……おっかない話。今って平成……も終わって令和だよね?」
「な、引くだろ? だったらまだ、男が好きなんて変態か! 勘当だ! て家を追い出された方がマシだよ。その方がよっぽどフツー」
暁斗は頬杖をついて、ストローをガシガシと噛んだ。志信が見たら思いきり顔をしかめるだろう。
「はえ~、上級国民様も大変なんだねぇ。よく漫画とかでさ、望まない結婚が嫌だから同性愛者のフリをして、とかあるけど……それも通用しないんだもんね」
こっわ、と茉理が震える。コントチックなリアクションも、上級国民などというふざけた言い回しも暁斗を笑顔にした。
暁斗は、この親友の存在に、親友が思う以上に感謝している。茉理は明るくてお喋りでお調子者で、それでいて勘が鋭く、空気を読んだり他人の気持ちを察するのが得意なので、暁斗は茉理といると非常に楽なのだ。
志信や蓉司とも長年の友人として気楽に接しているが、やはり彼らは幼い頃から暁斗の従者として育てられ、それが抜けきらない。暁斗もまた、ただの友人というには彼らとの距離が近すぎ、特殊に感じていた。
だから、御城家とはなんのしがらみもなく、自身のバックホーンを完全に忘れさせてくれる茉理が、暁斗は友人として大好きだった。茉理といると、御城の跡取りであることや、親や親戚が殺し屋であった重い事実を忘れて、ただの二十一歳の青年として笑えるのだ。
「お前の言う通り、そんなのなんとも思ってないから、うちの実家。なんなら、男相手でも女、幼女相手だとしてもとにかく男として役に立つかどうかの方が大事だから。いきなりJKを妊娠させてきても喜ぶぜ、うちのばあさんなんか。種があってよかった、とか言って」
「ひ~、メッチャ炎上案件じゃ~ん。人権団体が血相変えて抗議してきそう。セレブの感覚はわかんないなぁ。てゆうか暁斗……大丈夫?」
ふいに茉理は真面目になって、心配そうに暁斗を見つめた。
暁斗は茉理に、自身の性的指向を打ち明けている。高校生の時、親友に嘘をついているのが苦しくなって、暁斗からカミングアウトした。茉理は年頃の少年らしく、アイドルの誰誰が好みだとか、クラスの女子の誰誰と付き合いたい、とか暁斗に話してきて、そのたび暁斗ははぐらかしたり、興味もないのに自分だったら、と答えるのが辛く、心苦しかった。
友人の少ない暁斗にとって、茉理に打ち明けるのは不安でもあった。たった一人の親友を失ってしまうかもしれない、と恐怖した。しかし茉理は、数分間言葉を失うほど驚いたが、暁斗を拒絶することはなかった。それどころか、大事なことを話してくれてありがとう、とまで言ってくれた。
恩を感じているのは、茉理より暁斗の方かもしれない。茉理が暁斗の性的指向を受け入れてくれたから、暁斗は親友を失くさないですんだのだ。
それでも、御城の裏稼業のこと、暁斗の力のこと、それに――志信との関係については今でも話せておらず、秘密は抱えたままだったが、それらは永遠に伝えられないだろう。
暁斗のことをいつでも気にかけてくれる優しい友人に、多くの秘密を持ち続けるのは辛い。けれど、彼を守るためにも秘密を守った方がいいとわかっている。暁斗は心配そうにしている茉理に、平気だよ、とうそぶいた。
「とりあえず、今回は志信が手を回してなんとか回避したし。でもま……そのうち結婚はしなきゃなんないんだろうなぁ……。俺、女とデキんのかな」
「やっぱ平気じゃないじゃん、暁斗がそんな言い方するなんて。誰だって……好きでもない人と結婚なんて考えられないよ。て、一般庶民の考え方?」
暁斗より怒っていそうな茉理に、暁斗はまた救われる。特殊な家に生まれたが、きっと暁斗の感覚は茉理の方に近いのだろう。同性愛者だということは除いても。
「俺は……お前よりだよ。とはいえ好きな奴には、まったく相手にされてないんだけどな」
「もぉ~、それがまたすっごい切ない! 好きな人に縁談伝えられるとか……辛すぎない?」
暁斗は茉理に、自分が好きな男の話も伝えている。高校の時、同性愛者だと打ち明けたのと同じタイミングで志信の話をしていた。
「辛い……のかもよくわかんね。俺にそういう話を伝えるのが、あいつ、志信の近習としての役目だし」
「上級国民の生活とか考え方はよくわかんないけど……暁斗、志信に伝える気はないの? 好きだって」
それは、暁斗も何十回、何百回――何万回も考えたことだ。もし、志信に思いを伝えたら――。
暁斗はクチャクチャに顔をしかめた。
「わかった、じゃあ暁斗はどうしたい、とか言いそう」
暁斗のシミュレーションでは、暁斗に好きだと告白された志信はものすごく困った顔をし、それから暁斗の望みを聞いてくるはずだった。
茉理が、言いそ~、と相槌を打ち、やはりと肩を落とす。
「志信なら、暁斗の望みはなんでも受け入れちゃいそうだもんね。付き合ってくれって言ったら……付き合ってくれそう」
「それ、俺が嬉しいと思うか?」
八つ当たりで茉理を睨む。茉理が弱ったように肩を竦める。
「俺だったら……嬉しくない。虚しすぎる」
「だろ? だから……告白とか、マジで無理」
「でも……二人って、すっごく仲がいいじゃん? 暁斗が告白しても二人の関係は変わらない気がするけど。……てゆうか、志信って彼女とかいるの? 好きな人とかいるのかなぁ。志信が女の人のことで悩んだりするの、想像できない。暁斗、志信とそういう……恋愛の話とかはしないわけ?」
お喋りな親友の矢継ぎ早の質問に、暁斗はますます険しい顔になった。
「……いつからかさ、志信が考えてること、よくわかんなくなったんだよな。あいつの忠心とか、俺のこと……大事に思ってることはわかるんだけど、それ以外? 本音? そういうのが、最近はまったく読めない。あいつ、あんまりにも俺中心の生活で自分がなさすぎだからさ」
「それってすっごいノロケにも聞こえるけど……二人の関係が特殊すぎてなんとも言えないよね。それでも……可能性ゼロってわけでもない気がするけどなぁ」
「……ない。完全にゼロ。だってあいつ、時々女と付き合ってるの知ってるし。男に興味ねぇよ。ま、あいつが元カノと別れたのはどうせ俺を優先させたからだろうけど」
「そこが……おかしいよねぇ。彼女より暁斗の方が大事なのに、暁斗のこと、そういう対象じゃないっていうの。でも傍から見れば、志信の暁斗への構い方は異常、てゆうか好きじゃなかったらおかしいレベルだよ。志信、暁斗しか見てないじゃん」
どちらかが女性だったなら、話はもっと単純だったのだろうか。それとも、主と従者という時代錯誤の関係でなかったら、二人の形はもっと早く決着していたのだろうか。
暁斗はいくら考えてもわからない。わかるのは、志信から向けられる思いは自分のものとは種類が違うことだけだ。
「あいつも……恩に報いろうと必死なんだろうな……」
「志信の……子供の時の手術の話? 暁斗がお父さんに強くお願いしたっていう」
志信が幼い頃に患った心臓病は、当時日本では手術が難しいものだった。そのため渡米しての手術が必要だったのだが、奥野家はそれを渋った。志信には兄が三人いて、志信がいなくなったとしても御城家を守ることは出来ると判断し、志信の手術を時間と金の無駄だと判断したのだ。
志信の家族の、父のあまりの非道な仕打ちには、幼い暁斗も打ちのめされた。なにより悲しかったのは、まだ子供だった志信もそれを受け入れたことだ。志信は、暁斗を守れないことを謝ったが、冷酷な両親や家に怒ることはなかった。
受け入れられなかったのは暁斗だ。志信がいなくなるなんて、耐えられなかった。暁斗は父に直訴し、志信を助けてくれなければ自分も後を追う、とまで訴えた。父は暁斗が志信と仲が良いことを知っていたので、志信の手術に費用を出すことは厭わなかった。むしろ奥野家や他の一族の者が、主家が家来を助けるために多額の費用を投じるなんてあり得ない、と反対したと後で聞いて愕然とした。
志信は自分が手術を受けられたこと、命を長らえられたのは暁斗のお陰だと思っている。アメリカから帰国した志信は、暁斗への絶対服従を誓った。
そんなもの、暁斗はいらなかった。ただずっと志信にそばにいてほしかっただけなのだ。
「どいつもこいつも、恩返しに必死すぎなんだよ」
暁斗という人間が好きだから、そばにいたい。自分のそばにいる理由はそれだけでいいのに、暁斗の周りの人間は色々理由をつけすぎだ。恩だとか、忠義だとか――。
暁斗はその一人、茉理を恨めしげに睨んだ。
「そりゃあ……恩返しの一つもしたくなるよ。暁斗がいなかったら、俺の学園生活は間違いなく悲惨だったもん」
「そうかあ? お前のコミュ力があれば、きっとどうとでもなってたよ」
「そんなことないって。……ま、そうだったとしても、俺はあれがキッカケで暁斗と友達になれてよかったよ? 暁斗と遊ぶの楽しいから」
茉理がニカッと笑う。茉理の素直で明るい性格は、本当に羨ましい。
「お前……いい奴だよな。俺にもその能天気さとバカ正直なとこわけてほしい」
「うわっ、褒めてるようで褒めてないやつ! でも……俺の素直で可愛いところはわけてあげたい」
「素直はともかく、可愛いって自分で言うな」
「だって、暁斗は志信がなに考えてるかわかんないって言うけど、暁斗だって結構なに考えてるかわかんないよ? 上級国民様は本音なんておおっぴらにするもんじゃないのかもしれないけど」
真っ直ぐな茉理の言葉が、スッと胸の深くに刺さる。言われてみれば、自分ももう何年も志信に正直ではなかったかもしれない。
子供の頃は、眠れない夜は一緒に布団に入ってほしいと言えたし、母が恋しくて寂しい時は志信に抱きついて泣いたし、優しい志信が大好きだと面と向かって伝えることもできた。
今となっては、志信の食事を美味しいと伝える時ぐらいしか素直になれない。
もしかして――と気づく。あの時だけ暁斗が素直になるから、志信は頻繁に食事を作りにくるのだろうか。
そう思ってすぐ暁斗はその考えを否定した。期待は後々自分を傷つける。あれは、志信の仕事の一環だ。
余計な期待をしないよう自制する暁斗を煽ったのは――親友だった。
「いい機会だし……素直になっちゃえば?」
茉理がグッと暁斗に迫る。
「素直に、なる?」
「いきなり告るのはハードル高いだろうけど……暁斗の結婚を志信がどう思ってるかぐらい、聞いてみたら? 志信も暁斗にお見合いの話するの、辛そうだったんでしょ?」
「それは……俺が望まない結婚するのをかわいそうに思っただけで……」
「わかんないよ? 志信、暁斗に結婚してほしくないのかも。俺にはよくわかんないけど、一応従者って立場だから、志信からはそんなこと口が裂けても言えないでしょ?」
期待するのは危険だと知っているのに、茉理が煽ってくる。茉理に悪気はないだろうが、人の気も知らないで、と腹が立つ。
けれど、腹が立つのに――その淡い期待に賭けてみたくなる。
志信は、暁斗の結婚を望んでいない。もしかしたらその理由は――。
「志信、今夜空いてるかな。俺、飯でもって誘ってみるよ」
元イジメられっ子とは思えないコミュ力と行動力を待ち合わせる茉理は、いつのまにかスマートフォンを取り出し、素早い動作でおそらく志信にメールを送信しようとしていた。
「ちょっと待て、茉理!」
暁斗は空気を切る鋭さで茉理のスマートフォンを奪った。
「なにすんの暁斗! スマホ返してよ!」
「いや……いい。俺が志信に聞く。……つうか、ちょっと電話してくる」
奪ったばかりのスマートフォンを、素直に返す。
「電話って……今? 志信、仕事中でしょ」
「俺からの電話なら、あいつはいつでも、どこにいても出る」
暁斗にとってはそれが当たり前だった。茉理は大きな目を何度も瞬かせたが――。
「そう言い切れちゃう関係なのに付き合ってないって……一般庶民からしたらホント謎」
「お前、ここでちょっと待ってて」
暁斗は鞄を置いたまま、スマートフォンだけを握りしめ、茉理のそばを離れた。
カフェからも出て、人のいない場所を探す。カフェの外の広いロビーの奥には人影がなく、暁斗は一番端にあるベンチに腰を下した。
深呼吸し、毎日のようにかけているいつもの番号を鳴らす。呼び出し音は何回か鳴って、予想通り繋がった。
『……暁斗? どうした、迎えが必要か?』
事務的な硬い声だ。仕事中、暁斗からの電話だと同僚か上司に伝えて出たからだろう。
「いやぁ……じゃないけど……」
志信が仕事モードだったので、急に恥ずかしくなった。自分は気楽な学生で、友人との恋バナの延長で仕事中の相手に電話してしまったことが、あまりに子供っぽく感じた。
「悪い。当たり前だけど、仕事中だったよな。もう……戻ってくれ」
『なんだ、それは。そんな言い方されると心配になるぞ。なにかあったのか? 体調が悪いなら隠さないでくれ』
「だよな……ううん、体調が悪いとかじゃなくて……」
『ならどうした? ……暁斗、ちゃんと話してくれ。心配でこの後仕事が手につかない』
今から行くか? と重ねて訊いてくる志信の声は――ひどく優しかった。志信もどこか人のいない場所に移動したのかもしれない。
甘く優しい声がすぐ耳元で聞こえ、暁斗の心臓は勝手に騒ぎ始めた。
「……この前はありがとう、てちゃんと言ってなかったな、と思って……」
『この前?』
「見合い、延期させてくれただろ。お前が無理したのはわかるから……申し訳なかったなって、今さら」
電話の向こうで志信が一つため息を吐いた。仕事中にそんなくだらないことで電話したのかと呆れられたのかもしれない。うるさい心臓が一瞬で止まりかける。
『礼を言われることじゃない。……あくまでただの延期だ。いずれは、お前に見合いしてもらわなければならない。暁斗に負担を強いるのは間違いないんだから、礼なんて言わないでくれ』
志信のため息は、暁斗に対するものじゃなく、志信自身へのものだった。志信は、暁斗が望まない結婚をすることを望んでいない。それは間違いない。
その理由が、暁斗の望むものだったら――。
「志信……俺に結婚、してほしい?」
してほしくない? とは聞けなかった。そこまでの勇気は持てなかった。
志信の返事は、一瞬の間があった。
『……暁斗が望んだ結婚なら、それは嬉しいな。ただ、お前が嫌がっているなら俺も喜べない』
志信の答えはわかりやすかった。志信は、暁斗の感情を最優先している。暁斗が喜ぶなら嬉しいし、暁斗が拒否しているなら志信も受け入れられない。
つまり、志信の意志はそこにはない。志信の暁斗への思いは――なにもない。
あまりにわかりきった答えだったから、暁斗は思ったより傷つかなかった。
「……だよな。俺が望んでるなら、お前も俺の子供、抱きたいよな」
平気だ、と思ったのに――声が震えそうになった。自分が愚かなまでに強がっていることに気づかされる。
『暁斗の子なら……男でも女でも可愛いだろうな。でもそれも、お前が望んでないなら俺はちっとも嬉しくないぞ? 俺にはお前がなにより大切だ』
愛の告白のような文言を、二十歳を過ぎた血も繋がらない同性の相手に平然と言いのけられる感覚は、やはり茉理のような普通の人間には理解できないことだろう。
暁斗も自分が世間一般の普通の大学生だったら、志信のそれは愛の告白だと受け取って舞い上がったと思う。
けれど、二人の関係は違う。二人は――普通ではない。
「はいはい、知ってるよ。……ま、色々面倒かけて悪かったって言いたかっただけだから。仕事中に悪かったな。もう戻っていいぞ」
暁斗は自分が普通じゃないとわかっているのに、普通の男のように傷つくことを滑稽に感じた。精一杯強がる自分が、間抜けに思えた。
『まだ大学なら、今から迎えに行く。少し待っててもらえるか?』
「ああ、いいって。この後茉理と飲みに行くし、来なくていい。……つうか、来るな」
『そうか……わかった』
暁斗が来いといえば来るし、来るなといえば来ない。わかりきっているのに――悔しい。
「……じゃあな」
一方的に電話を切った。余計なことを口にする前に。
暁斗はスマートフォンを強化ガラスが割れそうなほど強く握りしめ、乱暴な足音を立ててカフェで待つ茉理のもとに戻った。
「あ、おかえり。志信、電話出た?」
煽り上手な親友がのん気に聞いてきて、いら立ちがピークに達する。
「……よくも俺に恥をかかせてくれたな」
「……え?」
「茉理、今夜は帰さねぇから、覚悟しろ」
「…………ええぇえ?!」
青ざめる親友を、暁斗はまるで殺し屋の目で睨みつけた。
◇◇◇◇◇
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