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5.
胃の辺りまで震わす重低音、機械的なダンスミュージックに、目がチカチカするド派手な照明。決して居心地がよいとはいえないが、来てみたい場所ではあった。
タバコの煙と、香水かなにかの甘い匂い。それに紛れた汗の臭いは、好きも嫌いも判別できなかった。
暁斗が外国産ビールのボトルを片手に立つのは、雑居ビルの地下にあるクラブだった。ドリンクカウンター近くの壁に寄りかかり、見慣れない風景をなるだけ慣れたフリで見回す。
「ねぇ暁斗……ホントに男の人しかいなんだけど……」
暁斗の隣で同じボトルを手にした茉理が、暁斗の耳元で不安そうに囁く。二人の距離がいつも以上に近いのは、フロアに流れる大音量の音楽のせいだ。その場所に倣ったわけではなく――。
「ちょっと異様な光景……て言ったら失礼かなぁ……」
茉理は男だらけのダンスフロアに目を見張っている。二人がいるのは、男性客限定のクラブ――ゲイ男性向けの店だった。
「今夜でよかったな。明日だったらドレスコード、海パンだってさ」
暁斗はボトルを持つ手で近くのポスターを指差した。そこにはこの店の日替わりイベントが書かれている。今夜はイベントのない日だったが、明日の夜は海パン着用が必須で、さらに次の日は髭が生えた男性限定のイベントデーだった。
茉理はすでに、はえ~、としか言えなくなっていた。
「暁斗って、いつもこういうとこで……彼氏? 的な人を探してるの?」
「言ったじゃん、初めてだって。俺がこういう店に出入りすんの、志信が許すと思うか?」
茉理が自分の性的指向を受け入れてくれたとはいえ、さすがに己の夜の事情を話したことはない。茉理は普通に女子が大好きだから、聞かされても困るだろう。
「……志信同伴、だったら許されるかも?」
「あいつ連れてきたら……俺よりあいつの方がモテそうなんだよなぁ」
「あ~、わかる。志信って女の人にもモテるけど、なんか男にもモテそう……」
自分で言ったくせに、茉理が同意すると腹が立った。この前のデリヘルボーイが志信に色目を使ったのを思い出し、いらぬ怒りが蘇る。あいつだけではない。暁斗が金で買った男が、客の暁斗ではなく志信の方にいい顔をすることはしょっちゅうあった。怒りを鎮めるために薄いビールを煽る。
「あ、ごめん! 暁斗だって絶対モテると思うよ? 女の子大好きな俺からしても、暁斗は超がつくイケメンだもん。……てか、俺はどうなんだろ? ナンパとかされちゃったらどうしよ……」
お調子者の茉理が急にソワソワし始める。暁斗はクスリと笑った。
「安心しろよ、茉理はゲイモテするタイプじゃねぇって。……お前、男にも女にもモテないのな」
「ええ?! ひっど~! ぜんっぜん興味ないのに付き合ってあげた親友にひどくない?!」
暁斗の性事情はほとんど明かしたことはないが、茉理が女性にモテず、大学一年の時に一人彼女がいたがキス止まりで、その後は寂しい身の上が続いていることは知っている。
茉理は可愛らしい見た目と、お調子者でおしゃべりな性格から、ありがちな――みんなの茉理くん、になりがちなのだ。
「俺はお前に煽られて……玉砕したんだぞ。失恋した俺を慰めるぐらいしろよ」
「出た~、謎の上から王子発言! てゆうか、玉砕なんかしてないじゃん。暁斗が中途半端な聞き方したからでしょ? 結婚したら嬉しい? て聞かれたら、大体の人は嬉しいって答えるよ。普通はめでたいことなんだから、結婚ていうのは。そこは、俺に結婚してほしくない? だったでしょ。それで、そんなことないって言われたら玉砕だったかもしれないけど……まだなんの答えも出てないよ」
茉理はお調子者のくせに痛いところを突いてくる。茉理の言うこともわかるが、あんな嬉しそうに、暁斗の子なら男でも女でも可愛いだろうな、なんて言われたら――大抵の恋する者は撃沈するはずだ。
「うっせ! 結婚どころか彼女もいないくせに、偉そうにすんな」
「うわ~、それ、言っちゃいけないやつだよ? 暁斗は俺の知らないとこでそれなりに遊んでるみたいだけど、俺はほんと、かわいそうなぐらいなんもないんだからね!」
「なんか可愛い喧嘩してるね。君ら……カップル?」
ここがどういった場所かを忘れ口論を続ける二人のそばに、いつのまにか男が近づいてきていた。茉理は声をかけられてあからさまに挙動不審になったが、暁斗は平然と男を振り返った。
二人に声をかけてきたのは、背の高い、中々の二枚目だった。スーツ姿だから、会社帰りのサラリーマンだろうか。スーツは特別高価なものではなさそうだが、サイズ感はピッタリだし、流行を取り入れ洒落てはいる。
十分イイ男、の部類だろう。暁斗が買う男はいつも華奢で可愛い、中性的な美少年タイプばかりだ。今度はこういう、爽やかイケメンを試してもいいかもしれない。暁斗の相手が男臭い男だったら、志信がどんな反応をするか興味が沸いた。暁斗より背の高いイケメンにも、志信は顔色を変えずにキスするのだろうか。
「そんな怖い顔しないでよ。声かけたらまずかった?」
「あんた……ナンパ慣れしてんな。いつもこんな軽い感じで男引っかけてんの?」
突っかかったつもりはない。純粋な好奇心だった。暁斗は性体験の数はそれなりにこなしているが、いつも金で買った相手ばかりで、口説いたり――口説かれたりという関係は新鮮だったのだ。
「俺らみたいなのは出会いが少ないでしょ? いいな、と思ったら積極的にアプローチしないと。で……その可愛い子は君の彼氏?」
「可愛い?!」
指差しされた茉理が声を裏返らせる。どこか浮かれているように聞こえておもしろくなった。
「だったらどうする? あんたは……どっち狙いなわけ? 俺? それともこいつ?」
「すっごい自信だなぁ。そんな風に聞かれると、なんか正直に話すのが悔しいかも」
「積極的、にアプローチするんじゃねぇの? つまんねぇ意地張ってると、目当ての男が逃げてくぜ?」
暁斗は男と会話を重ねるほど、楽しくなった。駆け引きめいたやり取りに心が浮つく。しかし、暁斗の現実は厳しい。
茉理が暁斗の腕を軽く引っ張った。目だけ茉理に向けると、茉理が下げた手に持つスマートフォンの画面をチラッと見せてきた。そこに表示された名前に暁斗の顔が曇る。
茉理のスマートフォンは志信からの着信で震えていた。きっと暁斗の携帯にも志信の着信があるのだろう。暁斗が出なかったら茉理にかけてきたのだ。
過保護――な幼なじみのせいで暁斗のテンションは一気に下がった。自分にはまともな恋愛はできないと無理やり思い出させられた。
「悪い。本命から……電話かかってきちった」
暁斗は自分のスマートフォンをジーンズの尻ポケットから取り出し、男に翳した。着信を知らせるランプが案の定点滅している。
「なんだ、本命が別にいるんだ」
男は残念そうに笑った。すぐに二人から離れていくだろうと思ったが、男はジャケットの内ポケットから小さな紙――名刺――を取り出し、手慣れた動作でなにか書き込み、暁斗が問う前に暁斗のジーンズのポケットに名刺を差し込んだ。
「プライベートの携帯と、ID。本命にフラれたら連絡して。あ、フラれてなくても俺は気にしないから、いつでも気が向いたら連絡くれていいからね」
男はフラれてもスマートだった。そして、スマートに諦めが悪い。暁斗も茉理も目を丸くした。
男はそれ以上暁斗にしつこくすることなく、二人の前から去った。人波と、目に悪そうな照明の中に消えていく後ろ姿を見送っていると、見た目の良さも、遊び慣れた雰囲気も、急に惜しくなった。あんな男と恋の駆け引きをしたら、ときめいて楽しいのかもしれない。そんなことができたら――不毛な恋も終わるのだろうか。
暁斗は小さく息を吐いた。もし出会いがあったとしても、実ることは難しい。素敵だと思う男に声をかけられても、暁斗がついていくことはできない。志信なしでそんなことをしたら、暁斗は人殺しになってしまうのだ。
感傷に浸る暁斗の手を、茉理が軽く突く。
「暁斗、志信に電話しなくていいの?」
「……ほっとけよ。今はあいつと話したくない」
「暁斗……逆に寂しくなっちゃったんじゃない?」
「……は?」
「さっきの人、格好良かったじゃん。暁斗も嫌いじゃなさそうだったけど、本命がいるなんて言って追い返しちゃうし。やっぱ……志信の方がいいな、て思っちゃったんじゃないの?」
お調子者だが茉理は友達思いだ。優しい言葉が心に染みる、不覚にも。
「ね、もう帰ろうよ。それで、志信に迎えにきてもらお? いかがわしい店に来たことは、俺も一緒に謝ってあげるから」
茉理が暁斗の手を取った。親友の優しさに、暁斗にも素直な気持ちが芽生え始める。志信に――会いたい。こんな場所にいても意味はない気がした。
誰と会っても志信のことを考えているのなら、出会いの場所も無意味だ。
「あれぇ? 御城先輩じゃないっすか?! 御城の王子様がこんなとこにいるなんてチョーイガイ~!」
帰ろうとした矢先、茉理が誰かに肩を抱かれた。そのくせ男は、茉理ではなく暁斗の名を呼んだ。
「あ、すいません。先輩は俺のこと知らないですよ。でも先輩、うちの学校の有名人だから」
不躾に茉理の肩を抱いたのは、下品な薄い茶色の髪の、ニヤけた男だった。どうやら暁斗たちの大学の後輩らしいが、セレブ大学生というより、ドラ息子感の強い男だ。
「……その手、離せよ」
「はい?」
「俺のツレなんだよ、馴れ馴れしく触んな」
暁斗が鋭く睨むと、男はこわ~と言いながらもヘラヘラして茉理から手を離した。
「先輩の彼氏ってこいつだったの? 背の高い超イケメンって聞いてたんだけど」
関わるのは時間の無駄、と無視して去ろうとしたが、男の言葉に引き留められる。
「先輩って、きれいな顔して、どエロい趣味してんでしょ? 3Pが大好きって聞いてるよ」
暁斗はギョッとして男を振り返った。
親友の茉理も知らない暁斗の夜の事情を、会ったこともない男が知っている理由はすぐに思いついた。最近よく呼んだ、志信に色目を使った口の軽い、プロ意識の低いデリヘルボーイがこの男の知り合いなのだろう。
「お前……あのボーイを知ってんのか? あいつと同じ店で働いてんのかよ」
「ちょっと待ってよ! 仮にも湊美(そうび)大生よ? ゲイ向けデリでなんか働かないって。俺はあいつの……彼氏です」
一応、と付け足し、男はニヤニヤと笑った。
暁斗は先日のボーイを何度も指名したこと、それからチップを弾んだことを激しく後悔した。プロ意識が低いとは思っていたが、客のプライバシーをここまでペラペラと恋人に喋っていたとは。――店ごと潰してやるしかない。
「ね、先輩。今度は俺も混ぜてよ。俺がいればあいつ金取らないから。……先輩、すげぇって言ってたよ。天国イかされちゃったって」
暁斗の一歩後ろに立つ茉理は固まり、言葉を失っている。
早く茉理にフォローを入れたかった。こんなことで、中学からの親友を失いたくない。
「茉理、帰るぞ」
ここはさっさと立ち去る方がいい。しかし後輩の男はしつこかった。さっきのスマートなリーマンと違って。
「そいつもうちの大学の奴だよね? 知ってるよ、中等部の頃から御城先輩の腰ぎんちゃくしてたの。元デブの陰キャが必死になっちゃって見てらんね~」
こいつが最悪なのは、下品な言動でも、口の軽いデリヘルボーイの彼氏ということでもない。暁斗の親友を口汚く罵ったことだった。
条件反射だった。暁斗は右手のボトルを左手に持ち替え、空いた右手で拳を握った。その拳は、格闘技未経験の者の多くが見切れぬスピードで、下品な後輩の顎を打ちつけた。
おそらくなにが起きたかもわからぬまま、後輩はダンスフロアの床に転がった。爆音のEDMのお陰で、騒ぎに気づく者は少ない。だから後輩を助けに入る者はいなかった。無様に転がる後輩の姿に少しだけ溜飲が下がる。
「俺を知ってるなら、うちの商売も知ってるよな? でかい警備会社もやってんだよ。その関係で俺、ガキの頃からプロにガチの格闘技叩き込まれてるんだわ。スポーツじゃなく、相手を確実に仕留めるためのやつな。だからお前の顎が砕けてないのは、手加減してるから。……今度茉理に舐めた口利いたり、俺のこと誰かにペラペラ喋ったら、確実に顎砕くからな」
久しぶりに人を殴ったので、右手が少し痛んだ。手首も捻ったかもしれない。蓉司に知られたら、稽古が足りないからだと特訓を命じられるだろう。
暁斗は顎を押さえる男を冷たく一瞥し、動けなくなっている茉理の手を引いて、ようやく店を出ることができた。
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