冷たい七面鳥

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 犬の鳴き声が聞こえる。初恋の女の子がいる。  何度も思い出しては後悔した過去の光景。  子供の頃に読んだSF小説では、主人公はタイムマシンに乗っていたな。  僕が今乗ろうとしているのは、この自転車だけど……。    「やっぱり、あの女優に似てると思わない?」  隣に座っている友人に訊くと、彼は煙を天井に向けて吐き出した。  「もしかして、あの口元に黒子のある女優か? 前も言ってなかったか?」  「そうだっけ? でもやっぱ似てるなあ」  「ふーん。あ、悪い、そろそろ約束の時間だから行くわ」  友人は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消して立ち上がると、颯爽とコートを羽織り休憩室を後にした。  その一連の動作に"大人の魅力”というものを見た気がした。  僕は缶コーヒーの残りを一気に飲み干すと、再び友人と顔を合わせることのないように、時間を置いてから駐輪場に向かった。そして、今朝会社に到着した直後に起きたアクシデントを思い出した。  茶色い車体に角のような大きなハンドルの愛車、"レインディア号”の前輪がパンクしたのだ。  僕は腕時計を見て、“髭爺さん"の店がまだ営業中であることを確認し、大通りを歩いていくことにした。  きらびやかなイルミネーションが、そこここの店に飾られている。スピーカーから流れてきた楽曲に聴き覚えがあったのは、例の口元に黒子がある女優が出ているCMに使われていたからだろう。  あの日、もしあのとき野良犬に怯えていたあの娘を、友人ではなく僕が助けていたなら、その後の人生はどう変わっていただろうか。あの瞬間から、幼いあの娘の心は友人のものになり、そのまま現在に至っている。  もし時間を遡ることが出来たとして、あいつより先にあの娘に出会えていたら……。  僕はピカピカに磨かれたレインディア号を見て、首を振りながら笑った。そんな夢みたいなことを考えるのは、僕がまだ大人になりきれていないということだろうか。  髭爺さんの店につくと、中では薄明かりの下、爺さんがパイプ椅子にもたれかかってテレビを観ていた。ここだけは普段と変わらないようだ。  ガラス戸をノックすると、爺さんはこっちを見て、恰幅のいい体を椅子から浮かせた。  「おじゃまします。前のタイヤがパンクしまして」  「いらっしゃい、今日初めてのお客さんだ。まあ、どうぞ」  爺さんは中に入った僕に丸椅子を勧めると、テレビ台の脇に放ってあったパンクキットを手に取った。  ふんわりとした肩までの白髪にモジャモジャの白髭、着ているツナギは赤地で中央に白い縦線が一本走っている。  こんな奇抜な格好で昔から修理業をしているらしいが、隣町で育った僕はこの町で働くようになるまで、この人のことを知らなかった。もっとも、それは僕が近場でしか遊ばない子供だったからかもしれないけれど。  「これ、買ってからどのくらい経つんだっけ?」  爺さんは水を張った盥にチューブを入れながら訊いた。  「今日で丸三年ですね。おかげさまで重宝してます」  「彼女からのプレゼントだっけ。可愛い娘だよね、ほら、あの女優に似てる。なんつったっけ、口元に黒子のある……ええと」  「あの、誰かと間違えてません?」  「ああ、あれはあなたの友達の彼女だっけ。あなたの彼女に似てるのは、ええと……」  「いや、誰にも似てないと思います。地味な娘なんで」  「いいや、でもいい娘じゃない。聞いたよ、料理上手なんでしょ。さてとパンクはOKと」  「あの……それも友達の彼女のことです」  爺さんはチューブをタイヤに戻す手を止めてこっちを見ると、大袈裟に肩をすくめた。西洋風の顔立ちも相俟ってか、外国のコメディ映画を観ている気分になった。  「いやいや、この歳になると忘れっぽくていけない。たしかあの二人とあなたは古い付き合いなんだっけ?」  「ええ、幼稚園の頃からですかね。疎遠になったときもあったけど、彼氏の方とは同じ会社に勤めることになって」  「そうか、おや、チェーンが弛んでる。ブレーキも外れそうだ。あ、ここにも油差しとくね」  爺さんは体格からは想像も出来ない俊敏な動きで、作業を進めていった。  「すいません。メンテとか一度もしたことなくて」  「でも、綺麗に磨いているじゃない」  「それも彼女がやってくれてるもんで……」  「そうか、やっぱりいい娘じゃないか。はい終わった」  僕は爺さんに料金を払い、外に出るとレインディア号に跨った。さっきまでとは違うタイヤの感触が伝わってくる。  「気をつけてね。あと今夜は特別な夜だからね、少しおまけをしたんだ。まあ、ちょっとしたプレゼントだよ。ああ、こっちの道から行ったほうがいいよ、寄る所があるんでしょ?」  「はあ……ありがとうございます。では、これで」  僕はライトを点けて、爺さんに促された道を進んだ。たしかにこの道の方が、馴染みのケーキ屋には近いかもしれない。  それにしても、おまけとはなんだろうか。去り際に見せた爺さんのウィンクを思い出したとき、急に空が明るくなった。  面食らった僕は、自転車を停めて辺りを見回してみた。町の風景が、ついさっきまでとは全く違う。だがどこか懐かしい感じもする。  あの和菓子屋、見覚えがある。たしか僕が引っ越す頃には店を閉めていたはず……あのポスターの議員は、何年か前に公職選挙法違反で捕まったんじゃなかったか……それになんだか暖かい。とても冬の気温とは思えない。  僕はコートを脱ごうと肩に手を当ててみたが、いつの間にかYシャツ一枚になっていて、ズボンも薄手のものに変わっていた。これは、僕が通っていた高校の夏服じゃないか。  一体何が起きたのだろうか。乗っている自転車もレインディア号ではなく、十代の頃に愛用していたものだし、籠に入っているのは入学祝いに叔父さんがくれた通学用バッグだ。  これってもしかして……いや、きっとそうだ……。僕の意識は高校時代に戻ってしまったのだ。ひょっとして、これが爺さんの言っていた"おまけ“というものだろうか。  僕はとりあえず爺さんの店を目指して、また自転車を漕ぎ始めた。  昔からというからには、この時代でも営業をしているのだろう。僕とは初対面になるけれど、話を聞けばこの状況をわかってくれるはずだ。  ビールや煙草のホーロー看板と、古めかしいデザインの立て看板が目の前を通り過ぎる。妙な気がした、これらは僕の記憶の中でも最も古い部類に入るものだ。  なんだか視線が路面に近づいている。気温もまた下がっているようだし、着ている服も厚手のセーターとズボンに変わっている。またもや異変が生じているようだ。  ブレーキを掛けてから何気なくベルを見ると、僕が幼稚園の時に流行っていた特撮ヒーローの顔の形になっていた。  思い出したぞ、これは僕が6歳のクリスマスイブの日に、両親が買ってくれた自転車だ。僕の意識は更に時代を遡ったのだ。  「まったく、よく飽きずに乗り続けられるもんだ。よっぽど気に入ったんだな」  聞き覚えのある声がし、横を向くと、十字路の向こうに父が立っていた。びっくりするほど若く見えるが、それも当然のことだ。  「ほら、道の真ん中で止まってんじゃない、車が来るぞ。そうだ、友達にもその自転車を見せてやりな」  前を向くと、家と家の間にある細路地の先で、今の僕と同い年くらいの女の子が、怯えた横顔を見せて座り込んでいた。甲高い音が聞こえたが、犬の鳴き声のようだ。  全てが理解出来た気がした。これは髭爺さんからのクリスマスプレゼントだったのだ。まだあいつの姿は見えない。僕はペダルを踏む足に、思いきり力を込めた。  「駄目だ! そこを通っちゃいけない!」   父が叫んでいる。だか問題無い。この間隔ならギリギリ自転車は通れる……はずだった。  僕の体は路地に入った瞬間、突然前に進めなくなったのだ。まるで何か見えない力に押し止どめられているようだ。  どういうことだ? やはり、過去を変える行為は許されないということなのか……。  「だから言っただろ、通っちゃいけないって。まったく、子供のすることは」  駆け寄ってきた父が、呆れたように僕を小突いて抱き上げた。  「ほら見ろ、補助輪が出っ張りに引っ掛かってる。家の人に見つかったら怒られるぞ。さあ、もう帰ろう、今夜はママの作った七面鳥料理だ。それにしても、おまえも来年は小学生になるんだから、もうハマナシで乗れるようにならないとな」  気がつくと、僕は自宅があるマンションの駐輪場に立っていた。  どうやって、ここまで来たのだろうか。たしか、会社を出てから……そうだ、ケーキ屋に寄ったんだっけ。  部屋のドアを開けると、彼女が安堵の表情を浮かべて僕を迎えた。  「良かった、遅かったのね。あと……ごめんなさい。夕飯作ったんだけど、また失敗しちゃった」  「いいよ、そんなこと。一緒に食べよう」  僕は彼女にケーキの入った箱を渡してキッチンに行き、冷えきった黒焦げのローストターキーをオーブンに入れた。
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