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意外な秘密
「鈴木、今日は一緒に昼行こうよ」
昼休憩に入るなり、山田は財布片手にそう誘ってきた。
隣で美奈子がぴくりと反応したのがわかったけれど、萌は気が付かない振りをした。
「ありがと。行きます」
相変わらず、この時間に立ち上がる人はごくわずかだ。
それ以上メンバーが増えることがなかったため、廊下を連れ立って歩くのは二人だけだった。
山田と二人でゆっくり話すのは、あのベンチ以来だ。
あの時の礼もろくに言っていないことを思い出して、萌はなんだかそわそわしてしまう。
切り出すタイミングをうかがっていると、彼の方からその話題を出してきた。
「最近、彼氏とはどう?」
「この前はありがとね。話聞いてもらえてすっごく助かった。ちょこちょこ問題はあるけど、なんとか上手くやってるよ」
「そっか。なら良かった」
山田は何の他意もなさそうにそう言ってくれた。
そしてあっさりと話は終わった。
同僚の恋愛にそんなに興味はないのだろう。
深く突っ込んできたならある程度は話してみようかなどと考えていたが、まったくもって余計な心配だったようだ。
彼は適当に選んだイタリアンの店に入ると、日替わりの大盛りを注文した。
「何にする?」
「えっと、カルボナーラ、普通盛りで」
「デザートセット、二つ付けてください」
山田はこちらの意見も聞かずに勝手に店員にそう告げた。
金額を確認すると、プラス五百円。
ランチの予算は大幅オーバーだったが、この前の負い目もある手前、文句は言わないことにした。
むしろ、こっちから御礼としておごるべきかもしれない。
「今更だけど、異動祝い。おごってやるから気にすんな」
「ええ、そんなのいいよ。私の方こそ」
「それはもう言わなくていい。今は仕事中。プライベートの話は封印ということで」
山田はきっぱりそう言うと、何かを飲み込むかのようにごくごくと水を喉に流し込んだ。
「で、本題なんだけどさ。うちの部署、きつくない?大丈夫?」
「きっついよ。管理とは全然空気違うんだもん。なじめる気がしない」
相手が同期ということもあって、本音がぽろりと零れ落ちる。
「仕事量も多いしさぁ。第五の離職率が高い理由がわかるわ」
「やりがいはあるんだけど。確かに忙しいのは事実だな」
「よく体調壊さないね」
「丈夫なのは取り柄だからな」
山田はにっかり笑った。
浅黒い肌は健康そのものに思えるけれど、実際は不健康な毎日を送っているはずである。
「部長も加瀬さんも癖があるんでしょ。噂だけどさ」
萌は少し声を低めてそう言った。
すると、山田の顔つきが変わった。
「それって管理での噂?」
「そうだけど」
問題発言でもしてしまったんだろうか。
考え込んだ山田を見て、萌はちょっとばかり焦った。
が、ちょうど料理が運ばれてきたのを幸いに、食に逃げることにした。
「部長はともかく、加瀬さんはちょっとね」
少し経ってから、山田は重々しくそう口を開いた。
「加瀬さん?細かいとか、しつこいとか、タチが悪いとか」
「いや、仕事のことは別だよ。あの人の実力は確かだから。じゃなくてさ、なんていうか、女関係」
「社内で手を出してるってこと?」
加瀬は、色素の薄い髪色に、彫の深い顔立ちで少々日本人離れした容姿である。そこそこカッコいい。
その爽やかな風貌ゆえに年齢よりもずっと若く見えるから、憧れる人がいるというのもわからなくもない。
だが、確か彼は既婚者だ。
「俺が知ってるだけでも四人はいる。そのうち二人は辞めてるってか、辞めさせられたみたいだけど」
「はぁ。その点はダメな人なんだね」
加瀬に興味があるわけでもないから、ワイドショーでも見ている気分だ。
ただ、相手の方は少し気になる。
既婚者とわかって相手になるのはどんな人なんだろうか。
「お前は何も知らない?」
「うん。聞いたことはないね」
萌がそう言うと、山田は一瞬迷ったようだったが、この話を終えることにしたようだ。
「そうか。まぁ、お前に限っては大丈夫だろうけど、引っかからないように気を付けろよ」
「ご忠告、ありがとうございます」
おどけて言った萌に、彼はわずかに困惑の色を見せたけれど、それ以上のことは話さなかった。
「悪いんだけどさ、これ急ぎでお願い」
午後イチで、萌は加瀬からそう仕事を振られた。
当然、他を後回しにせざるを得ない。
「わかりました。今日中ですね」
「そう。よろしく。もし他の仕事が終わんなくなったら、週末の申請してくれていいから」
「…はい」
半ば無理やり休日出勤を命じられたようなものだが、今週はあまり出たくなかった。
既に一日は予定が入ってしまっているからだ。
「土日、どっちでもいいけど。俺は土曜ならいるよ」
「土曜はちょっと、結婚式の予定があって」
「ああ、しょうこ。あ、いや、中野さんの結婚式か」
萌は前半の単語の耳を疑った。
聞き間違い?そんなことはない。
加瀬は確かに祥子と口にした。
思わず山田の方を見てしまったけれど、彼は熱心にパソコンに向き合っていて、こちらの様子になんて気付いてさえいない。
どういう関係なんだろう。
もしかしたら、親戚とか。
そんな子供じみた思想が湧いてきたけれど、祥子からはそんなことを聞いたことはない。
むしろ、加瀬については悪評しか下していないはずだった。
一人で抱え込むにはちょっと厄介な疑問だ。
気になって仕方がなかったけれど、とにかく今は目の前の仕事を片付けることが先決だった。
萌はすうっと息を吸い込むと、気合を入れて取り掛かった。
三時過ぎ、化粧室に行った萌はたまたま百合に会った。
「おつかれ」
いつもの綺麗な笑顔を見て、やさぐれそうになっていた気持ちにぱっと花が咲く。
と、同時に、一旦はしまい込んだはずの謎がムクムクと湧いてきてしまった。
「祥子さん、今日はお休みですか?」
「うん。週末の準備だってよ」
そうですか、と何気ない返事はしたものの、心中はかなり緊張していた。
聞いてしまおうか。
そう誘惑にかられるけれど、地雷かもしれないと思うとブレーキがかかる。
萌のそんな妙な態度に百合が気が付かないはずがなかった。
「どうかした?」
「え、いいえ。何でもありません」
「ウソつくな。顔に困りましたって書いてあるよ」
萌はとっさに自分の頬に触れたが、そんなことが書いてあるはずもない。
動揺ゆえの奇行に、百合が苦笑する。
「ここじゃマズい感じかな?今日、定時?」
「多分残業です」
「ん、そっか。でも三十分くらい抜けたって平気でしょ。近くでお茶しよ」
百合はそう言うと返事も聞かずに、バイバイと行ってしまった。
どうしよう。聞くべきか、否か。
後者なことは重々承知だが、萌は百合の前で隠し事はできない。
抜けられなかったと言って、話を流してしまうのが一番の解決策だろうけれど、多分その嘘も見抜かれる。
とりあえず終業までは忘れよう。
萌は鏡の中の自分にそう言い聞かせた。
「お疲れ様です。先程の件ですが、五時から打ち合わせが入ってしまったので、リスケしていただけますか。よろしくお願いします。」
萌は百合宛にそう社内メールを送った。
これなら業務連絡にしか見えないだろう。
作成中も送信後も、いかにも業務中ですという風を装っていたから、怪しまれることもないはずだ。
社員間での個人的なやり取りはあまり推奨されていない。部署の違う者同士のプライベートな約束事を送信するのは、特に。
それでもやっている人はいるし、罰則があるわけでもない。
ただ、萌の心情的になんとなく抵抗があるだけだ。
実際、速攻百合から返ってきたメールはラフそのものだった。
「りょーかい。また今度ねー」
せっかくのカモフラージュが全くの無意味だったことを思い知らされて、萌はどっと力が抜けた。
でも、とりあえずはこれで一安心だ。
余計な情報をペラペラ話してしまって、自分への信頼が失われでもしたら、それこそたまったものじゃない。
ある意味での重要会議を避けられたことに心を撫で下ろした萌は、打ち合わせ用の資料に作成することに没頭した。
「では、今度のテーマはこれでいきましょう」
萌が急ぎでまとめた資料を手にしながら、山田が堂々とそう告げた。
今度もまた彼がリーダーだった。
こんなにも次々と案件を立ててばかりいたら、全く休む暇なんかないだろう。事実、彼はあの買い出し以来まともに休んでいないらしい。
前回のチームとは多少顔ぶれが変わっていたけれど、美奈子と後輩の高橋くんは組み込まれていた。
二人ともどうしても山田との仕事がしたいようで、他の業務が圧しているにも関わらず、自ら志願してのことだった。
そんなことを百合たちが知ったら、仕事バカだと鼻で笑うに違いない。
萌だって、感心する一方で多少呆れてもいた。
「今回は比較的軽そうだし、締めも遠いからじっくりできるかと。だから実質的な仕切りは佐久間さんにお願いしようかと思っています」
事前に打ち合わせがあったのだろう。
美奈子は山田に対して小さく頷いて見せてから、全員に挨拶を述べた。
「まだまだ不慣れでご迷惑をかけることもあるかと思いますが、頑張ります」
彼女にとっては初の大仕事なのだろう。
堂々とした態度に見えたが、隣にいた萌にはわずかに震えているのが伝わってきた。
「もちろん、俺もサポートはするから、安心してやってください」
山田の口調が優しすぎで、思わず萌もきゅんとしてしまった。
当人なら、尚のこと。
美奈子は嬉しくって仕方がないとばかりに、満面の笑みを彼に返していた。
打ち合わせ後、データが入ったUSBを手に、山田が萌の席までやって来た。
「鈴木、悪いんだけどさ、しばらくは佐久間さんのヘルプを頼むよ。ちょっと取りまとめの方に専念させたいからさ」
「もちろん。やることあったらすぐに言ってね」
萌は山田に返事をした後で、美奈子に向けてそう言った。
彼女は、ありがとうございますと言ってくれたものの、その視線は妙に刺々しかった。
原因は多分、山田の位置取りのせいだ。
彼は萌の椅子に両手をのせて、寄りかかるようにしながら話をしていたのである。
「ちょっと、重いんだけど」
「ああ。わり」
椅子の回転が悪くなったことを口実に苦言をいうと、山田はすぐに体をどけた。
すると、美奈子の雰囲気も多少柔らいだような気がしたのだが、それはほんの一瞬でしかなかった。
「鈴木、今日はどうする?」
まるでデートの誘いのような文句に、明らかに美奈子が反応してきたのだ。
もちろん萌には彼の意図はわかっている。
だから、演技も交えて少しばかり嫌そうにこう返した。
「二時間つけてください、リーダー」
「ほい。りょうかい。申請しといて」
案の定、美奈子は残業のこととわかってほっとしている。
こんなに感情をむき出しにする彼女が、取りまとめなんかできるんだろうか。萌はなんとなく今度のチームの失敗を思った。
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