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外堀
やっと終わった。
萌がほっと一息を吐いたのは、日曜の午後六時のことだった。
休日だというのに、第五のエリアはほとんどの席が埋まっている。
そしてまだまだ誰も帰る気配はなさそうだ。
隣の美奈子は、机に触れただけでも放電しそうなほどイライラしていた。
初めての舵取りが思うように進まないらしく、山田に対してもつんけんしている.
何度かヘルプを申し出たけれど、仕事を人に振る余裕さえもないらしく、その度に今忙しいからと突き放された。
よって、萌は自分に与えられた分だけをいそいそとこなし、ようやく帰れるまでの状況を整えられたのだった。
頼まれていたデータをメールで送信した後で、一応山田に声をかける。
「とりあえず、今日はもういいかな?」
「ああ、お疲れ」
振り向いた彼は見るからに疲れ切っていた。こんなに憔悴した彼を見るのはかなり珍しい。
よほど、美奈子のサポートの方で力が削がれているのだろう。
「大丈夫?」
「なんとかな。でも、ちょっと休憩。帰るんだろ?下まで行こ」
山田はくるりと椅子を反転させると、上着の中から財布だけを手に取った。
「先行ってるわ」
彼にさっさと行かれてしまった萌は慌てて自席に戻って、パソコンの電源を落とした。
ちらっと美奈子を覗き見たが、必死に何かに取り組んでいるらしく、こちらに何の反応も示さない。
萌は小声で、お疲れ様とだけ告げて廊下へと急いだ。
「…きつい」
誰もいないエレベーターホールで、山田は伸びをしながらそう愚痴った。
「弱音なんて珍しいね」
「うん。今回はさすがに無理だ。人に仕事を任せるのって、自分でやるよりよっぽどきついのな。よくわかったわ」
見れば、彼の目の下にはクマがある。
気遣いが出来る山田だからこそ、余計なところまで気を回してしまうのかもしれない。
美奈子としてもそれがせっつかれているように感じられて、さらに焦っているのだろう。
結果(まだこんなことを言うべきではないのかもしれないが)共倒れだ。
「人を育てるのって大変なんだね」
「ああ。ほんっと、教育係だった加瀬さんには今更ながら感謝だよ」
不意に出てきた加瀬の名に、思わず萌は眉を寄せた。
山田が尊敬するくらいなのだ。
仕事人としては優秀なのだろう。
けれど百合の話を聞いていたせいで、萌の彼への評価は最低ランクにまで落ちていた。
「あのさ、この前の話なんだけど、加瀬さんの」
「ああ、わかった?」
気まずさ全開で切り出した萌とは対照的に、山田は何でもないといった風にそう言った。
「こういう話って、身近にいてもわかんないもんだろ」
「うん。私ひとりじゃ、絶対気付かなかった」
「鈴木ってさ、なんていうか鈍いとこあるよな。特に対人関係」
「悪かったね。気が付かないことの方が幸せなことだってあるじゃん」
鈍いとはっきり言い切った山田に、萌はムキになって反論した。
たしかに事実かもしれないけれど、こんなことを言われて、へらへら笑えるほど穏やかな性格ではない。
「いや、それでいいと思うんだ。色々勘ぐってばっかの奴より、よっぽどね」
「どうせ私は、社内で情報仕入れるのは、トップクラスに遅いですよ」
「だからさ、変な噂話で盛り上がる奴らより、ずっと良いって言ってるじゃん」
「噂話は嫌いじゃないけど」
「でも、確証ないデマは流さないだろ」
「それは、そうだね」
こんな妙なタイミングだったが、萌は改めて自分を振り返ってみた。
噂話で盛り上がるのは好きだ。
あくまでも自分に関わりのない部分のみで。
けれど、山田が言ってくれた通り、萌自身が発信源となることは全くなかった。
勘が良い方ではないし、人の観察も得意じゃないからだ。
聞いて初めてその人に注目するといったパターンがほとんどだった。
社内恋愛を見抜いたことなんて一度もない。
唯一の例外が、美奈子のこと。
彼女くらいあからさまに態度に出してくれれば、さすがにわかる。
ただ、山田の方については感情がさっぱり読めないから、なんとも言えないけれど。
「話変わるけどさ、彼氏とうまくいってるんだろ?」
「あ、うん。どうして?」
山田はかなり確信を持って聞いてきたようだ。
萌の普段の様子から察したのだとすれば、彼の観察眼はやはり大したものなのだろう。
そんなことを思っていた矢先、彼が出した答えは全く違う面からのものだった。
「言うかどうか迷ったんだけど。俺が止めておくのも変な話だから、言っとくわ。俺さ、例のママと会ったんだよね」
例のママ?
どこのママだ?
萌が考えあぐねていると、山田は困惑したようにこう続けた。
「ほら、お前の彼氏と一緒にいた女だよ」
頭の中に一人の女が映る。
萌がこの世界で一番嫌いな存在だ。
全くもって予想もしていなかった事態に、萌は数秒間フリーズした。
「…どこで?いつ?」
「何日か前に、帰りの電車で。向こうは飲んでたみたいだったけど」
「何か話したの?」
イライラしてきたせいで、つい尋問口調になる。
山田はちょっと引き気味になりながらも、きちんと受け答えしてくれた。
「ああ。じゃなきゃ、わざわざこんなこと言わないよ。最初は目が合っただけだったんだけど、どっかで見た顔だなって思って二度見したら、相手も同じだったみたいでさ。そこで声かけられた。ダイちゃんの彼女の浮気相手さん?って」
なんだそれ。
山田にしてみたら、意味不明この上ないだろうに。
萌はぞわりと怒りが湧いてくるのを感じた。
「最初は何言ってんだと思ったけど、よくよく考えたら繋がってさ。ダイちゃんはお前の彼氏だろ?」
「そうだけど。山田は私の浮気相手じゃないでしょ」
「まぁ、それはな。なんか誤解してるんだろうなと思って、鈴木とは単なる同僚ですって言ったら、突然泣き出してさ。電車の中だったから、焦ったよ」
山田はその時のことを思い出したようで、苦笑を浮かべた。
萌はというと、確かめる術はなかったけれど、おそらく怒りの形相に違いない。
無関係な彼まで巻き込むなんて、どこまで迷惑な女なのだろう。
とどまるところなしに腹が立ってきた。
「ちょうど降りる駅に着いたから、一旦彼女にも降りてもらってさ。少し話をしたわけ。まずは泣き止んでもらわないと、周りからの視線が痛かったから」
「で、何だって?」
「とにかく彼女の言い分は、ダイちゃんに戻ってきてほしいってことだったな。だから、私はあなたを応援しますとか言われちゃったよ」
「意味わかんない。マジ最低」
「彼女なりに、かなり必死みたいだったけどね」
「そりゃそうだよ。生活が苦しくなってるはずだもん。大樹は所詮ATM、それだけの存在だよ」
「金だけだったら、他に誰か見つけりゃいいんじゃね?でも彼女はどうしても彼がいいって、ずっと訴えてたよ」
「あんなに都合のいいのは、そうそう見つかんないよ」
勤務先もいい。
家柄だって、学歴だっていい。
見た目だって悪くはない。
そして何より、要求すればすぐに動いてくれるのだ。
自分のためになんだってしてくれる、そんな人が簡単に見つかるわけがない。
「お前が入れ込んでるくらいだから、相当良い人なんだなぁってのは想像つくけどね」
「相当なバカって言った方が正解だね」
沸々してきた怒りは、この場にいない大樹に向けることにする。
山田に八つ当たりなんて、一番しちゃいけないことだ。
「まぁまぁ、それは置いといて。結局、その辺で一時間近く話してたかな。終電無くなっちゃって歩いて帰るっていうから、それはマズいと思ってタクシー代渡して帰したよ」
「渡したの?タクシー代?」
萌は声が裏返るほど驚いた。
見も知らぬ相手に突然泣きついて、あげく帰りの費用まで負担させるなんて、あり得なさすぎる。
と同時に、そんなことまでしてやった山田にも呆れた。
「ほっとけばいいのに。子どもじゃないし」
「そうなんだけど、でも、俺と話してたせいで危ない目に遭われるのも気分悪いからさ」
「そんなの自己責任でしょ。ほんっと最低な女」
「たしかに計算高そうだね。かなり頭は回ると思う」
「それがわかってなんで、親切心出しちゃうかな」
あんまりにも感情が昂ったせいで、今度は涙が出てきそうになった。
嫌い、憎い、消えろ。
あらゆる負の感情が、全てあの女に向かっていく。
こんなに心の底から毛嫌いする相手なんか、今まで一人もいなかった。
それなのに、どうあっても萌はあの女から逃れられないんだろうか。
大樹と離れない限りは。
「連絡先も聞いてないし、俺は多分もう会うことはないだろうね。でも、お前の方は一筋縄じゃ行かなそうだな」
「彼は、もう完全に切ったって言ってるけどね。大樹の口座は私が管理してるし、連絡も拒否してる。家も知らないはずって言ってたから、多分大丈夫だとは思うけど」
「…そっか。なら、平気かな。ま、また何かあったら言ってよ。相談くらいなら乗るからさ」
「ありがと。ほんとごめんね」
萌は仕事のミスを謝る時のように、深々と頭を下げた。
自分が悪いわけじゃないけど、萌と関わったばかりに、山田にまで火の粉が飛んでしまったのだ。
その点は素直に申し訳ないと思う。
「彼にもよく言っておく。山田は、余計なこと考えないで仕事頑張って。佐久間さんのサポート大変だろうけどさ。こっちこそ、出来ることあるならいつでも声かけてよ」
「おう、サンキュ。じゃ、お疲れさん」
バイバイとそう告げるときは、何とか笑顔を見せることが出来た。しかし、山田に背を向けた瞬間、萌の額には即座に青筋が浮かんだ。
絶対に許さない、あの女。
これ以上萌の生活圏に侵入して来ようものなら、ただじゃおかない。
どんな手を使っても制裁を与えてやる。
山田との会話の一部始終を萌から聞かされた大樹は、ぽかんとしていた。
萌の口調が激しかったせいもあるのかもしれないけれど、それよりも彼女が起こした大胆な行動に呆気にとられたせいだろう。
見も知らない相手に泣きついてまでも、自分に縋ろうとしている女を、男はどう思うものなのだろう。
萌にはその行動を欠片も理解できそうにない。
「山田さんには、申し訳なかったね」
大樹がやっとのことで絞り出した言葉がこれだった。
「申し訳ないじゃ済まないよ。はた迷惑もいいとこだよ」
「とりあえず、タクシー代返しといてくれる?」
大樹はそう言って財布に手を伸ばしたが、萌はそれをぱしりと叩いた。
「何であんたが、あの女の代金払う必要があるの?」
「それは、違うけど。でも、とにかく俺のせいで出費しちゃったことには違いないし。俺からの迷惑料ってことで」
まぁ、言われてみればそんな気もした。
元はと言えば、間接的にだが、大樹に関わってしまったせいなのだ。
あの女に囚われすぎたおかげで、萌の方も冷静な判断力は欠けていた。
「で、あんたはどう思うわけ?そこまで想われて嬉しい?」
「んなわけないでしょ。ここまで来たら、怖い方が勝つよ」
「ね、あっちはさ、ほんとにこっちの情報は何も知らないの?家とかばれてたら、嫌なんだけど」
「俺の実家も詳しい住所は言ったことないし、萌の家なんてもちろん知らないと思うよ。ただ、会社名は知ってるから、追えるとしたらそこからくらいかな」
「会社わかったって、正式な手続き取らなきゃ何もできないか」
「と思うよ。弁護士通してとか何かやれば出来なくもないだろうけど、そこまでやられる関係性もないからね」
のほほんとしている大樹とは反対に、萌の警戒心はマックスだった。
あの女、何をするかはわかったもんじゃない。
下手したら結婚詐欺だとか喚いて、会社に乗り込む可能性だってあるだろう。
「相手を褒めてるみたいで微妙だけど、多分あの人は大事にはしないと思うよ。自分に不利になるようなことは、多分しないはず」
大樹の言葉には妙に真実味があった。
付き合いが長いだけあって、そこそこ人となりは理解しているのだろう。
が、あの陳腐な演技に騙されるのだから、そんなに信頼のおける判断ではないかもしれない。
「あの人のことは、うちの両親は知らないよ。紹介したのは萌が初めてだし。だから、結婚を前提に付き合っていたって言うことは否定できると思う」
「あっちだって、子どももその父親もいるわけだからね。世間的に見たら、あんたに固執する方が異常か」
「そ。そう見えれば、もし法的手段に迫られても常識論ではじき返せるよ」
にかっと笑ってそう言った大樹に、萌は目を丸くした。
珍しく彼が頼りになりそうだ。
この件に関してはオロオロする姿ばかり見ていたから、堂々としているところを見せつけられるとまたコロッと惚れ込んでしまう。
「もうさ、大丈夫だから。絶対に萌を裏切らないから、安心して俺に着いてきなさい」
大樹は萌をぎゅっと抱きしめた。
とくんとくんと穏やかな心臓の音が伝わってくる。
萌は体を彼に預けて、目を閉じた。
大樹は変わった。本当にそう思う。
彼女という存在が、婚約者という存在へと格上げされようするとき、男はこんな風に変わるものなのだろうか。
真実はわからないけれど、そんなのは大したことじゃない。
大事なのは、大樹が揺るがないでいてくれること。
そうすれば萌の気持ちはいつでも落ち着いていられる。
そう、大樹が揺るがなければいい。
これさえ守られれば二人はずっと平和にいられる。
と、萌は頭から信じ込んでいた。
だが、やはり現実はそこまで簡単ではなかった。
あの女は、そんな大樹の性格は知り尽くしているのだ。
そして長所であり、短所でもある彼の優しさにとことん付け込んでくるのである。
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