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初戦
日曜日。午後三時。
萌はマンションのエントランスで、大樹の車を待っていた。
服はオフィスカジュアルに近いものを選んだ。
真剣な話し合いという意味を含ませつつ、またいつぞやのギャル服を身に纏う彼女との差を演出することも兼ねて。
正直なところ、大樹はギャル系の女が好みだ。
芸能人にしても、街ですれ違う人にしても、彼が興味を惹かれるのはそっち系ばかり。
大樹自身が派手なわけでもないし、もっと言ってしまえば、多少もっさりしているというのに、女性の好みはそうだというのだから、人は見かけにはよらないと思う。
カッチリしたお姉さんファッションが多い萌は、そもそもはタイプが違うらしい。
一度、冗談で服装変えようかと言ったことがあったが、その時、大樹はためらいなく頷いた。
すぐにフォローのように、今のままでも十分可愛いよと付け足してはくれたけれど、萌はわずかに引いてしまったことを思い出した。
「遅い」
萌が目を落とした腕時計の長針は、まだわずかしか動いていない。
けれどこうして待っている身としては、定刻通りでないとイライラしてきてしまう。
大体、車なんかにするからだ。
おおかた、途中の渋滞を考慮していないで出発時刻を決めたのだろう。
何に対しても甘い見積もりしか出せない彼に、こうして苛立つのは日常茶飯事のこと。
萌は彼が来るであろう方向を睨み付けたが、まだどこにもその姿は見当たらない。
「だから電車にすれば良かったのに」
悪態をつきながら、何の連絡も入っていないスマホをぎゅっと握りしめる。
大樹のことだ。
十五分程度の遅れなら、何とも思わないで現れるだろう。
これは逆の場合もしかり、萌が三十分遅れたって、彼は文句一つ言わない。
自分に対しても、人に対しても、何に対しても甘いのである。
それを優しさと取るか、負の意味で取るかは人次第だろう。
そこからさらに五分経過。待ち合わせの五分前から待っている萌は、これで十五分程度ここに立ち尽くしていることになる。
いい加減に腹が立って来た頃、大樹の車が滑り込むように萌の前に止まった。
「ごめんね。道が混んでて」
「だろうね。ていうか、遅れるなら連絡してよ」
「ごめん。すぐ着くだろうと思ってて」
お決まりの謝罪を並べると、大樹は笑顔を向けてきた。
ムッとしていたのに、萌からはそれ以上の苦言が出てこなかった。
ようするに笑ってごまかされたということだ。
「いいよ、早く行こう」
「了解です」
ちらっと確認したところ、カーナビの設定はしていないようだ。
それほど通い慣れた道ということなのだろう。
いらない事実を突きつけられたような気がして、さっそく萌の気分が落ち込む。
「突然行くからさ、もしかしたらいないかもしれないけど」
「それは昨日も十分話したでしょ。連絡は取りようがないんだから、仕方ないよ」
この期に及んで、未だ彼の及び腰が伝わってくる。
萌は彼を叱咤するようにこう言った。
「とにかく行ってみなきゃ始まんない。そうでしょ?」
車はしばらく環状線を走った後、住宅街の中へと進んで行った。
特有の細い道や曲がり角がたくさんあって、とても萌なんかじゃ危なくて運転できそうにないけれど、大樹はいとも簡単にそれらを走り抜ける。
運転はもちろんのこと、この道に対する慣れもあるのだろう。
十年近く、毎週のように通った道なのだろうから。
「この駐車場入れるから」
「はい」
大樹がそう言って止めたのは、五台が満車の小さなパーキングだ。
空いていた右端にバックで駐車する。
これも萌には高度な技に思えた。
そしてその姿をカッコいいと評価してしまう自分がいる。
こんなときにそんなのんきなことを思うのだから、萌だって大樹といい勝負かもしれない。
「こっちだよ」
萌は先を進む大樹を小走りで追いかけた。
気分に合わせて歩みも遅くて良さそうなものだが、そこは違ったようで、いつも通りの速度でスタスタ行ってしまう。
そうして数十秒歩いたところで、今日の目的地に到着した。
「ここ?」
「うん。二階の一番手前」
目の前にあるのは五階建ての普通のマンションだ。
高級そうでも、その反対でもない。
築十年程度の、いたって普通の建物だった。
大樹はエレベーターには乗らずに階段で上へと向かった。
「いるかな」
萌はちらっと時計を確認する。
四時を少し過ぎたくらい。
外出したとしても、まだ小さな子どもがいるなら、もう戻って来ても良い頃だ。
ピンポーン。
呼び鈴を押す大樹の手は少し震えているように見えた。
萌は中からは見えない位置取りに陣取って、相手の反応を待つことにした。
「ダイちゃん」
中から確認したのだろう。女は大樹の名を嬉しそうに呼びながら、飛び出してきた。
一方で大樹は、彼女が出てきてしまったことに落胆しているようだった。
「やっぱり会いに来てくれたんだ。りい、信じてたよ」
「…違うんだ。今日は用があってきただけだから。一人じゃないし」
「え?」
リエは訝しがるように眉根を寄せると、大樹を押し退けるようにして外に出てきた。
「何で?」
一気に負のオーラを纏いだした彼女に触発されるよう、萌の方も攻撃態勢を整える。
「こんにちは」
淡々とした口調を目指したが、無理だった。
顔を見た瞬間、色んな怒りがさあっと湧き上がって、どうしても感情的になってしまったのだ。
「どうしてカノジョさんが?」
「彼女ではありません。婚約者です」
婚約者という部分をやたらに強調してみた。
実際は、まだ口約束しかしていないけれど。
リエはその萌の言葉に不快感を持ったらしく、あからさまに顔を歪めて、嫌みったらしくこう言った。
「あっ、そ。で、何の用?」
「これまでのことと今後のことについて、お話させてください。お子さんに聞かれたくないなら、場所を移動して」
「あたし、あんたと話すことないから」
リエはバッサリそう言うと、大樹の腕を取った。
「ダイちゃん。ほら、みいたちも待ってるよ」
「待って。今日は遊びに来たわけじゃない。結婚するにあたって、問題になることを解決しに来ただけだから」
「問題って、どういう意味?りいが何か悪いことしてるっていうの?」
「実際していますよね。私の同僚もひどく迷惑をかけられています」
「同僚ってさ、あれ、あんたのオトコでしょ。隠してもわかるんですけど」
「誤解されているようですので、その件も含めてお話を」
「いーやーだ。あんたウザい」
「場所を変えないなら、この場でも結構です。近所迷惑になるかもしれませんけど、構いませんよね」
萌はあくまでも丁寧語を心掛けた。
こんな女と同じ土俵で争うなんて吐き気がするほど嫌だったからだ。
相手が感情的になるなら、こちらは冷静に徹する。
それをしつこく自分に言い聞かせた。
「りいちゃん。真面目な話なんだ。喫茶店でもフェミレスでもいいから、少し付き合って欲しい」
大樹に真剣に言われて、リエはようやく黙り込んだ。
「ママ?」
玄関先の揉め事が心配になったのだろう。奥から子どもの声が聞こえた。
多分、上の子だろう。
「…入って。子ども置いて出かけらんないし。あの子たちにも関係ある話だし」
夜中まで飲み歩いているくせによく言うものだ。
急に母親面し始めたリエに、萌はまたぐっと怒りが込み上げてきた。
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