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復帰
「…きさん、鈴木さん、聞いてます?」
「あ、はい。すみません」
同僚の苛立った声に、やっと反応する。
当然のごとく、そんな萌に相手は相当に不快感を覚えたらしい。
態度は素っ気ないし、視線も鋭い。
もう一度、すみませんと呟いた萌は、とっくに手渡されていたであろう資料を見ながら、意味の無い頷きを繰り返した。
自己評価では、公私混同をしないだけの分別があるつもりだった。
が、現実はそうじゃなかった。
今度のことで負った傷はかなり重症らしく、もう一週間も経つのに仕事にまでこんなに支障を与えてしまっている。
「締め、近いから」
「はい。わかりました」
呆れ半分、苛立ち半分の強い口調でそう言われて、萌は慌てて返事をする。
しかし、相手はちらっと睨むような目を返してきただけでさっさと立ち去ってしまう。
これはもう、成果で挽回するより他はない。
そう気合を入れてデスクに向き直るも、相変わらず力が入らない。
まるでどこかから漏れ出てしまっているようだ。
大樹という存在が、こんなにも大きなものだったとは思わなかった。
道理で、今までどんなに周りに騒ぎ立てられても別れられなかったはずである。
あれから一度も彼からの連絡はない。
きっと、これからもないのだろう。
そうして自然消滅を狙うのが、なんとも彼らしい。
別れたことは親しい友人達には打ち明けた。
事情をほとんど余すことなく伝えたところ、誰しもが大樹の態度に憤慨していたけれど、それよりもようやく別れたということの方が重要な点らしい。
皆、泣いて落ち込む萌を優しく受け止めてくれて、別れについては安堵の気持ちを伝えられた。
それなのに、これで良かったとはちっとも思えないのだ。
大樹がいない。
その事実は萌の生活を一変させたといってもいい。
何をやっても楽しくない。
元気がでない。
やる気が起きない。
朝起きることすら辛くなった。
食事も満足に取れなくて、見るからにやつれがあった。
失恋なんて初めての経験でもないのに。数年間振られ続けた過去だってあるのに。
それなのに大樹を失ったことは、味わったことのない格別の痛みを萌に与えた。
萌は今までの半分以下の速度で(それでも自分なりには精一杯頑張っているつもりだ)、ノロノロと仕事に手を付け始めた。
「鈴木、昼行こう」
いつの間にか昼休みになったらしい。
目の前には財布を手にした山田がいた。
「ああ、ごめん。ちょっと仕事おしてるから、今日はパスで」
食欲もないし、忙しい。
断りの判断は萌の中で一択だった。
「最短の締めは明日だろ?夜に回せよ」
「いや、でもちょっと」
「いいから、来いって」
山田は無理やり萌を立ち上がらせると、勢いよく腕を引っ張ってきた。
その対応が遅れたせいで、萌は机の角にしたたかにわき腹をぶつけた。
「いったぁい」
「わり」
一言かい。
思わず文句が口をついて出そうになったが、強引な山田の背中を軽く睨みつけるにとどめておいた。
会社を出た彼は萌の意見を聞きもせずに、社内であまり人気のない店に入った。
人も少ないし、半個室になっているここは秘密裏に何かを話すにはうってつけの場所だ。
頭の回転が鈍い今でも、ここまで来れば彼の考えが多少は読めた。
さっさとしろと言わんばかりの彼の無言の圧力が伝わってきて、萌も彼と同じ日替わりメニューを注文する。
運ばれてきたお茶を一口すすると、山田はすぐさま本題を切り出した。
「最近さ、ちょっと目に余るっていうか。何か、おかしいよな?」
やっぱり。思った通りだ。
彼が部を代表して、叱責役を買って出たのだろう。
「ごめんなさい。仕事は気を抜かないようにしてるつもりなんだけど。ちょっとコントロールがきかないっていうか」
「ってことは、プライベートでなんかあったわけか」
山田は淡々とそう言った。
問題点が社内でないと察したせいか、ほんのわずかだけれど、ほっとしたような印象も受ける。
「…話したいことあれば聞くけど」
「ううん、大丈夫。ごめんね」
萌は細く息を吐いた後でそう答えた。
失恋話を山田と二人きりの場でする気にはなれない。
ましてや飲みの場でも、プライベートでもない、単なる仕事の休憩時間に。
山田はもう一度お茶を飲むと、少しだけ視線をテーブルへと泳がせた。
そしてその後で、意を決したようにきっぱりとこう告げてきた。
「じゃあさ、同期として言わせてもらうわ。最近のお前、見ててイライラする。仕事へのやる気が無さすぎる」
あまりに的確な叱責だ。何も言えない。
そんな萌に彼はこうも続けた。
「俺たちはさ、仕事が出来ると判断してお前をうちに推薦したわけ。やる気も実力も評価してるんだよ。それなのに、何?仕事中にぼけっとして手は止まってるわ、人の話は聞き流すわ、正直、社会人としてあり得なくね?プライベートで何があったかは知らないけど、それを仕事に持ち込むなよ」
テーブルを叩かん勢いでそう言われて、内心びくりとしてしまったが、幸いにも表には出なかった。
彼の言うことは何一つ間違っていない。
いくら同期であっても、ここまで正直に言ってくれる人は他にはいない。ちょっと怖かったけれど、感謝すべきことだ。
萌は素直に謝罪した。
「そうだよね。ごめんなさい。私が悪かったです」
「ごめん。俺もちょっときつくなった」
気まずい雰囲気が漂う。
息苦しくなって、萌の方から何か話そうと思ったとき、幸か不幸か、二人分の定食が運ばれてきた。
「とりあえず、いただきます」
山田が丁寧に挨拶したのを受けて、萌も小さな声でいただきますと告げた。
食べ始めるといくらか空気も和んだ。
さっきまでの張りつめた感じはなくなり、いつも通りの二人に戻る。
「でもさぁ、さっきは偉そうに言ったけど、切り替えって結構難しいよな」
「会社にいる山田はいつでも仕事モードに見えるけど」
「俺の場合は逆。プライベートに仕事を持ち込んじゃう」
「ああ、そうなんだ。なんとなくわかる気がする」
「それで彼女にも振られてるわけだし、ほんとはお前にあんなこと言う資格は無いんだけどさ」
そう言って苦笑いを浮かべた山田に、萌は微笑を返す。
「ううん。私のが問題だよ。お金貰って働いている以上は、それに見合う仕事しなきゃだもん。どんな理由があっても、手を抜いたらいけないよ」
「さすがだ。俺なんかに言われなくたって、鈴木にはわかってることだよな。余計なこといってごめん」
「なんでよ。ガツンと言ってくれて嬉しかったよ。なんか、アクセル入った感じ」
お世辞なんかじゃなく、本音だった。
ぼうっともやがかっていた視界が急にクリアになったように感じる。
今ならさらりと事実を口に出来そうだ。
「要は失恋したわけよ。それでちょっと気分が落ち込んじゃって。まぁ、この話は飲み会やった時にでも聞いてよ」
萌は自然と明るくそう言えた。
意外そうな顔をした山田がおもしろくて、更に元気が湧いてくる。
「でも、山田のおかげで吹っ切れた気がする。ありがと。ここから巻き返すわ」
「俺で良ければ、二十四時間受け付けるよ」
「うん。さっそく残業申請お願いします。とりあえず三時間かな」
一瞬、ぽけっとしていた山田だったが、すぐにわかったと答えてくれる。
さて、今日は何時に帰れることか。デスクに溜まりにたまっている書類の山を思い出して、萌はぐっと体に力を入れた。
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