お母さんの話

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お母さんの話

あの子が産まれてすぐ、夫は事故で命を落とした。幼いながらにそれを理解したのか、娘はわがままを言わない子に育った。 娘が4歳になる日の仕事帰りに、たまたまクマの人形が視界に映った。たまにはプレゼントでもと思った私はそれを買って帰った。 娘はそれをとても喜んでくれた。その日からずっと肌身離さず持ち歩いている。だからこそボロボロになるのも早かった。 「もうボロボロだから、このお人形は捨てようか?」と娘に言った。私は喜んでくれると思っていた。だが、娘は予想外にも怒鳴りつけてきた。……娘が大きな声を上げて怒ったのは、これが初めてだった。 それから私は何も言わないようにした。 小学校に上がり、クマの人形はボロボロの姿で棚の上に寂しく座る毎日だった。人形遊びを忘れた今なら捨てても何も言われないだろうと、私はあの子が学校に行っている間に人形を捨てた。 娘が学校から帰ってきた。「一緒にご飯を食べよう」と声をかけると顔をキラキラさせて部屋へと向かった。中々休みのない私とのご飯でこんなにも喜んでくれるとは思っていなくて、思わず涙が出そうになった。 中々部屋から戻ってこないのが気になり、私は娘の部屋を覗いた。娘はさっきとは打って変わって、恐ろしい形相で私を睨んできた。 娘「クーちゃんを、どこへやったの!?」 私の背中に冷や汗が流れる。この嫌な感じは前にも感じたことがある。 私は捨てたことを話した。「また買ってあげるよ」と言うと、娘は何も言わずに家を飛び出した。私は娘の背中に手を伸ばすだけで、その場から動くことが出来なかった。 このままでは娘は死んでしまうのだろう。そんな気がする。あの嫌な感じは、前に夫で感じたものと一緒だったから。 あの日、「夜は外に食べに行こう」とあの人が言ってくれた。母に娘を預け、仕事終わりのあの人と外で待ち合わせをしていた。私の方が少し早く待ち合わせ場所についた。「もうすぐ着くよ」とメールが来て辺りを見渡した。斜め向かいにあの人がいるのを見つけた。信号が変わるのを確認して、こちらに向かってきた。その途中で私を見つけたようで、こちらに笑顔で手を振っていた。私も手を振り返した。 …そのとき、あの嫌な感じがした。 キューーーッという音がしたと思うと、信号無視の車があの人の体をはねた。パトカーから逃げていた車が突っ込んできたらしい。目の前で人がはねられるのを初めて見た衝撃、それが愛しい人だったという悲しみ……あの時も、私は力なく座り込むだけで側に駆け寄ることは出来なかった。 結局、私はあの頃と何も変わってはいない。嫌なことを忘れるために仕事に没頭して。生きていくために仕方のないことだと自分に言い訳をして、娘のことを気にかけたこともなかった。 生暖かい風が私の頬を撫でるのと同時に、あの嫌な音が部屋に響いた。 キューーーッ。 ベランダから見下ろすと、目の前の交差点で女の子が車に轢かれていた。……あの服は、娘だ。 大切なものが手から零れていく。もうこの手には何も残っていないと思うと、何もかもがどうでも良くなった。私はリビングにあった台をベランダに運び、台に乗った。このまま重心を前にすれば落ちられる。ゆっくりと前に体重を移動させていると、部屋の中からカタンという音がした。 その音に私は思わず振り返った。張り詰めていた緊張の糸が切れてしまい、足から力が抜ける。棚の上のあの人の写真たてが倒れた音だった。 守れなくてごめんね……。
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