帰結

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 居ない方が助かると言われたのだから、壮介の答えは当然だ。  千都香は、馬鹿だ。聞かなくても良い事をわざわざ聞いて、一人で勝手に傷付いた。 『誰の為にもならない事を続けるのは、馬鹿げた事だと思わない?』  華也子の言った事は、正しかった。  漆アレルギーなのに今たまたま側に居るというだけの、弟子ですらない千都香より、学生の頃から壮介を知っていて、妻だった事も有る華也子の方が、壮介の事を理解しているのは、誰が考えても当然だろう。 「一日だけの手伝いとか半端な事を言ってねぇで、さっさと奴んとこに転職でも永久就職でもしちまえよ」  黙り込んだ千都香の耳に、壮介の溜め息混じりの声が聞こえてくる。 「あっちにだって憶えて欲しい仕事は山ほど有んだろ。妙な色が付かねぇ内に鞍替えする方が、誰にとっても身の為だ」 「…………帰りますっ…………」  言えたのは、それだけだ。  お世話になりましたもありがとうございましたも、口にしたならぎりぎりで堪えた物が決壊する。  無様な思い出を、これ以上ここに残したくはない。 「あー、帰れ帰れ、もう来んな。明日からお前の席は無ぇからな?忘れもんすんなよ、してたら捨てるぞ。わざわざご足労お疲れさん」  千都香が立ち上がって玄関に向かうと、何故か壮介が付いて来た。  その、理由は。 「じゃあな。今日まで有り難うな、平取。二度と漆に近付くんじゃねぇぞ」  そう言うと壮介は、玄関の戸を施錠した。    * 「……っ……」  最後に、鍵を掛けられた。  いつも開いていた扉の鍵を、壮介はわざと千都香の目の前で掛けたのだ。  それを思い出した千都香の胸に、ぐちゃぐちゃにもつれた糸の塊の様な嫌な物がこみ上げて、さっきとは違う感情を伴った涙が零れ落ちた。  ……つらい。悲しい。くやしい。腹が立つ。苦しい。つらい。  つらい。つらい、つらい。  他にも、名前の無い何かや、見たくない何か。  上着と着替えは、納戸に置きっ放しのままだ。  納戸に持ち込まずに玄関に置いていた、清子の着物を入れたキャリーバッグだけを引っ掴んで飛び出して、めちゃくちゃに歩いてここまで来た。  スマホと財布をポケットに入れていたのが、幸いだった。捨てられたとしても困らない物しか、もうあそこには残って居ない。
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