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「今日は、ありがとうございました。……また、来週」
「ああ。とりあえず来週な……但し、」
ペンギンのカードで、千都香の額をぺちんと叩く。
「何か有ったら、次は無ぇぞ。俺は、二度は折れねえ」
「望むところです」
おやすみ、と言い置いて玄関を出る。
ドアの閉まる音がしないと思って振り向けば、開けたまま見送って居るのが見える。手振りで「閉めろ」と伝えると、ぺこりと頭を下げてから閉めた。来客は、いつもそうやって見送って居るのだろうか。いくらセキュリティのまともなマンションでも、防犯意識が薄いのではないか。来週説教だ。
道が単純だった上、来る時に千都香が曲がり角の目印を伝えながら来ていたので、迷わず駅まで辿り着く。ペンギンのカードで改札を通り、来たのと逆のルートで帰る。
乗り換えた電車は意外と混んでいた。ふと、甘い薫りがするのに気付く。千都香から香っていた薫りの、残り香だ。
おそらく、清子が防虫の為に箪笥に忍ばせて居たものが着物に移っていたのだろう。それが壮介の作務衣にも移って、時折ほのかに漂って来る──まるで、まだ千都香が隣に居るかの様に。
その重たい甘さに、思わず目を閉じる。目の裏にぼんやり項の赤が浮かんだ。
壮介は、揺れた。自分が折れたのは、正しかったのか。
従姉を亡くして家に来て、泣きながら眠った事が有った。その後で、本格的に手伝わせろと言って来た。取り合わなかったら、会社は辞めてきたと言った。なんとなくではなく生きてると思いながら生きたいと言われ、胸を突かれた。
千都香の気持ちは、今でもあの時と変わらないのだろう。
だが、壮介にとっては違う。決定的に違ってしまった。
あの朝、千都香の従姉妹は、治るとは考えない方が良いでしょうと言われたと泣いていた──もう千都香には関わらないで、と。
気持ちがどうだろうと、体は体だ。思った通りになどならない。
もう、あの頃に戻る事は無いのだ。
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