不在

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 懸命に手を伸ばされて(すが)られて抱き付かれ、子どもの様にいやいやと顔を擦り付けられる。まるで、壮介に恋い焦がれて、求めてくれているかの様に。  愛おしさが、胸に迫る。壮介には、それを振り解くことなど出来なかった。 「どうなっても良いから、ずっと触って欲しかったっ!!だって、先生、私に、なにか越しにしか、触らなくって……まるで」 「おい、待て」  スローモーションの様に、戸が開く。  千都香が目を伏せて壮介の胸元に口づけた時、開いた戸の向こうに来客の姿が現れた。 「……まるで、私が、毛虫みたいに、」  何か言わなくてはと思うより先に、千都香の痛ましい叫びが壮介の耳朶を打った。 「バカかお前は!?」  なんという事を言うのだ、この女は。  そんな事を思った事は、一瞬たりとも無い。  いつでも、触れたいと思っていた。千都香が漆にかぶれる前も、かぶれた後も。  大切な人を亡くして泣いていた時も、従姉に千都香にはもう関わるなと言われた時も、冗談混じりで毅に千都香とのことを焚き付けた時も、和史に釘を刺された時も、毅に千都香を託した後も、そして、今もだ。  震えている体を、抱き締め返す。誰が見ていても構わなかった。千都香の痛みを減らしてやる事しか、考えられなかった。  打たれても、罵られても、地獄に落ちると言われても良い。千都香の心を守る以外に、今壮介がすべき事は無かった。  次に玄関に意識が向いた時には、来客の姿は──立岩毅の姿は、まるでそこに来てなど居なかったかの様に、消えていた。
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