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どうぞ、という言葉と共に、古伊万里写しのコーヒーカップが、壮介の目の前のテーブルに音も無く置かれる。
「……何の相談もなく引っ越すなんて、ねえ……」
「更新ですか……」
「同僚の話だと、その様ですね。……頂きます」
麻に礼を言うと、壮介はひさびさに飲むまともなコーヒーを、一口飲んだ。
壮介は清子宅に、現在までに分かった千都香の件を報告に来ていた。
何も言わずに消えた千都香は、相変わらず今どこに居るかは分からない。だが、千都香の勤め先のビヤホールの同僚である木村は、大変な事を教えてくれた。しばらく仕事を休んでいるという事と、それは引っ越しの為であり、壮介と一夜を共にする前から決まっていたという事だ。
「どこに引っ越すのかしら……」
「都内住みの従姉妹のとこか、新しく探したとこか……同僚の話では、近くの物件を探してたらしいんですが」
壮介宅に歩いて行ける所を探していたと木村に聞いて、壮介は胸を突かれた。千都香はずっと壮介の元で、仕事をしていく積もりだったのだ。
千都香の事を思い出したり話を聞いたりする毎に、頑なだった自分への反省と後悔は日に日に増すばかりだ。
壮介の仕出かした諸々によって、千都香が近くの住まいを探す必要は、無くなってしまった。壮介の元に来る事が二度と無いのなら、どこに住んでも構わないだろう。ビヤホールはまだ辞めてはいない様だが、あそこは駅の近くに有る。駅から出たらすぐなのだから、多少電車に乗る場所でも支障は無い。
「奥様。先生。」
千都香が引っ越す先について清子と壮介が考え込んでいると、麻がきっぱりとした声で、二人の思考を遮った。
「この際、どこに引っ越すのかより重要なのは、いつ引っ越すか、です」
「え」
「ええっ?!どうして?」
「引っ越しには、住人が立ち会う必要が有ります。引っ越し作業もですけど、退去手続きは基本的に必ず立ち会って、貸し手と借り手の双方で、部屋の状態を確認しあうじゃないですか」
「あ」
「……そうね!敷金の返金額に関わるものね!」
「ええ」
敷金は、退去時の部屋の状態によって返金額が決まる。経年劣化以外の明らかに住人の責任だと思われる部屋の損傷は、敷金が修繕費の一部に当てられるからだ。
麻は、清子と壮介に頷いた。
「先生。その時がいつなのかが分かれば、千都香さんに会えますよ」
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