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新聞を読んでいた管理人は、ふと漂ってきたゆかしい薫りで目を上げた。お香の様な、匂い袋の様な、無機質なマンションの管理人室には似つかわしくない雅な薫りだ。
「こんにちは、恐れ入ります」
目を上げた拍子に見えたのは、着物姿の品の良さそうな老婦人だった。手に風呂敷包みを持ち、困った様に微笑んでいる。
「ああ……いらっしゃいませ。何か御用ですか?」
「三〇三の千都ちゃんに……平取さんに、会いに来たのですけれど……」
老婦人は、小首を傾げた。今もなかなか可愛らしいが、若い頃はさぞかしもてただろうな、と思わせる仕草だ。
「ピンポンを鳴らしても、反応が無くて。留守ですかしら?」
「あー……電話してみたらどうですか?」
平取千都……千都香、と言ったか。その女性が留守かどうかは知っては居るが、口には出来ない。しがないパートの管理人でも、個人情報の守秘義務が有る。
軽く提案したら、老婦人は戸惑った様に片手を頬に当てた。
「それがねえ……知らないの。」
「知らないんですか?メールは?」
「そういうのは、年寄りには分からないのよねえ……困ったわ。おはぎ作りすぎちゃったから、お裾分けに来たのだけど」
しょんぼりしている姿を見ると、悪い事をしている様な気がしてくる。管理人は、昭和の人間だ。目上の人は敬い、お年寄りには親切に、という道徳が染み込んでいる。
「……平取さん、しばらく留守にしてるんですよ」
管理人は熟考の末、守秘義務よりも親切を取る事にした。
「えっ?!そうなの?!」
「ええ。もうすぐ引っ越す予定だからね。新しい家を探してそこに居るのか、友達んちにでも居るんじゃないかな」
それか彼氏の家とか、と言おうとした管理人は、途中で止めた。この女性と三〇三の彼女がどんな関係かは知らないが、このくらいの年のご婦人に、あなたの知ってる若い女性は男と住む為に引っ越したんじゃないですか?などと言ったら、ショックで倒れてしまうかもしれない。
「そう……そうなのね。引っ越しがまだなら、ここのお家に帰る時は、一回くらいは有るのかしら?落ち着いたら千都ちゃんから連絡くれると思うのだけど、一度会えたら会いたいわ」
「家財道具の運び出しは、来週の金曜ですよ」
毒を食らわば、皿までだ。
それに、この老婦人が、三〇三の彼女の個人情報を悪用するとも思えない。
管理人はこの老婦人が納得して安心するまで、親切を継続する事に決めた。
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