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「おはようございまーす、お世話になりまーす」
千都香のマンションに着いた雪彦は、まず管理人室に声を掛けた。不在な事も多い管理人だが、この曜日のこの時間は在室している。
「おはようございます。何かご用ですか?」
白髪混じりの髪を適当に分けて撫でつけている初老の管理人は、読んでいた新聞から目を上げて、小窓を開けた。見慣れない顔だからか、眼鏡の縁から上目遣いでじろりと雪彦を見る。
「三〇三号室の平取の従兄弟の、城山と言います。今日、荷物を運び出すんですが、本人が体調を崩しまして……代理で伺いました」
「ああ……」
雪彦の素性が知れたからか、管理人の態度が柔らかくなる。事務用のA4横型のクリップボードを手にとって、挟んである紙をめくった。
「……はい、承ってます。平取さん、風邪か何か?」
「病院では、多分そうだろうって事でした。退去日には来れると思うんですが……業者さん、もう少ししたら来ると思います。宜しくお願い致します」
「はい、了解です。……インフルエンザじゃなくて良かったですねえ。鍵、開けましょうか?」
「ええ、お陰様でインフルエンザ検査は陰性でした。鍵は預かってるので、大丈夫です」
雪彦はインターホンと数字ボタンの付いた入口のパネルに、間延びしたクマの付いた鍵を翳した。赤いランプが点滅し電子音が鳴って、エレベーターホールに続く自動扉が開く。
「あ」
「え?」
自動扉が閉まる瞬間、管理人が何か言いかけた気がした。しかし、閉まった扉が外から開く気配は無い。大した用事では無いのか、もしかすると単に何か思い出しただけで、雪彦への用事ですら無かったのだろう。
エレベーターの脇のパネルに並んだボタンの中から、上向きを押す。ちょうど一階にいたエレベーターの扉が、すぐに開いた。
エレベーターに乗り込んだ雪彦は、わずかの間、玄関ホールとの間のすりガラスのドアを見ていた。ドアは開きもせず、誰も入っても来ない。それを確認すると三のボタンと閉のボタンを立て続けに押して、目当ての階へと上がって行った。
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