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「んじゃ、俺帰るね」
雪彦が立ち上がる。
「ちゃんと話して、もう泣かないでも良い様にしぅっ!?」
戸口に向かおうとした雪彦のシャツの背中を引っぱって止めた。首が多少締まった様だが、千都香も必死だ。気にしている余裕は無い。
「だめ、待って!!居て!!」
「んな」
「千都香」
久し振りに、呼ばれた。
大きな声ではないし、雪彦と言い争っていた中で呼ばれたから、ぎりぎりで耳に届くくらいの音だった。それなのに、呼ばれた名前は無視できないほど千都香の体にじわりと沁みた。
「……なにっ……」
「痩せたな。」
「久し振り」、名前と来た後に「痩せたな」だ。センスが無い、と思い掛けて慌てて取り消す。自分は何を言って欲しかったのかと考えてしまって、それも取り消す。
二度と会わないつもりだったのだ。言葉だって声だって、二度と聞かない筈だった。
「体調、大丈夫か?」
「……べつにっ、せ……んせいに、関係ないっ……」
先生、と簡単に口に出しそうになって、口をつぐむ。そんな風に呼んでも良いのかと思うが、牧さんと呼ぶのも落ち着かない。
「私、もう……帰るので、」
混乱した千都香は何を言って良いのか分からなくなって、しどろもどろになった。人のセンスにどうこう言える状態では無い。後で雪彦に文句を言わなくては、というのだけは、はっきりしているのだが。
「悪かった」
「なにがっ」
「色々。全部」
「全部ってっ」
ぽんぽんと言葉が行っては返ってくる。
いつもの会話に近くなったと思ってしまって、はっとして唇を噛む。
「いつも」は二度と戻らないと、分かっていたのではなかったか。
「……それは、」
「失礼致します」
千都香がためらいながら口を開きかけた時、個室の扉が開かれた。
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