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「俺、帰っても良いよね?」
そう聞いて来たのは、帰ろうとしたのを千都香が止めて、黙ってここに居ろと言った人物──雪彦だった。
忘れていた。雪彦のことだけではない。
自分でも呆れる事に、自分達以外の人間がここにいる事も、この場所がどこかも、すっかり忘れ去っていた。
「ゅ」
「ああ」
雪彦に返事をしようとした途端に、壮介にむぎゅっと抱き締められた。これでは雪彦の顔も見れないし、声も出せない。
「引き止めて、悪かった」
壮介が返事をしているのが、作務衣の袖越しにぼんやり聞こえる。
「今日は、本当に有り難う。色々と、申し訳無い」
抱き締められていると、何もかもどうでも良いような気がしてくる。雪彦には済まない事をしたかもしれないが、そもそも自分に黙って壮介を呼んだのは雪彦だ。迷惑を掛けたのは、お互い様だ。
それに、壮介の言ってくれている事は、千都香の言いたい事と変わらない。千都香が答えなくても、同じ事だろう。
「この礼は、何でもする」
「それは、別に良いっすよ。俺もあんたのこと殴ったし」
「えっ」
このままお任せしといたら良いや……とのんびりし始めていた頭が、突然覚めた。壮介の胸から、身を起こす。
「ゆきっ?!先生のこと、殴ったのっ!?」
「うっ」
「あー、よしよし」
怯える雪彦を睨む間もなく、壮介に引き戻されて、宥める様に背中をとんとん叩かれた。
「大丈夫だから。気にすんな」
「でもっ」
「その位は、当たり前だろ。俺はお前に酷い事をした」
「けどっ、それはっ……」
「ごめん。帰るね、ほんと。……で、『先生』?」
雪彦はうんざりした声で二人の会話を遮ると、壮介にだけ向かって告げた。
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