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「こんな先の無え、割に合わねえ、かぶれて辛え仕事なんかとっとと諦めて、」
ぼやきは、そこで途切れた。
続く言葉は、「さっさと嫁に行っちまえ」なのだが。
『折を見て、千都香さんに交際を申し込みたいと思っている。もちろん、結婚を前提として』
『はい、さっさと嫁に行きます!ちょうど今日そういう話になったんですよ……毅さんと!』
またセクハラだの弟子ハラだのと言われたら困ると思うよりも速く、実際に聞いた台詞と単なる妄想が二重の幻聴として聞こえてきて、最後まで言うことを妨げた。
……今のは、何だ。
「私はたとえ金継ぎが衰退しようが何が有ろうが、先生の事は、見捨てませんよ」
今のは何だ、の答えが出ない内に、幻聴ではない本物の呟きが聞こえた。
「……何言ってんだか。」
まさに、何言ってんだか、だ。
嫁に行けと言っている癖に、ほんとうに嫁に行くと聞かされると、それが幻であっても動揺するとは。
しっかりしなくてはいけない。
いつか、幻聴は本当になるのだ。
漆に接する環境に身を置く事は、千都香の為にならない。それがはっきりしている以上、ここを去る事はめでたい事だ。壮介がうろたえる理由など、何一つ無い……だが。
今ここに居る限りは、自分は千都香の師匠──ではなくとも、何かしら保護者的なものではあるだろう。
壮介は千都香をねぎらう意味で、貸してやる予定だった手拭いを綺麗に整えられた髪の上に乗せてから、くしゃくしゃっと手荒く頭を撫でた。
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