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「そんなんじゃ無ぇよ。このあと、先約の客が来る。……嘘じゃねぇぞ、本当だ」
壮介は、眉間に軽く皺を寄せて千都香を見た。意地悪や嫌がらせではなく、本当に困っている顔だ。
残念だが、長居するのは無理そうだ。千都香は居座る事を諦めて、用件だけでも済まそうと思った。
「……納戸に、」
「あん?」
「納戸に、忘れ物したんです。見に行っても、良いですか?」
「……忘れもんしたら捨てるって言ったよな」
今度のは、意地悪だ。同じ様な眉間の皺でも、千都香には見分けが付く。
「良いでしょ、最後に私のお部屋を見に行くくらい」
「なんでお前の部屋だよ」
「あ!」
ぶつぶつ言う壮介を無視して戸を開けると、そこには見憶えの有る袋が見えた。
「ありがとうございます!捨てないでくれたんですね?」
「ゴミ出しの日に寝坊した」
千都香がはしゃぐと、壮介はわざとらしく目を逸らした。
「これ、持って帰って良いですか?」
「お前んだろ、勝手にしろ。ゴミ出ししなくて良くなって俺は助かる」
「先生」
しばらく使っていない呼び名を口から出すと、抑えていた何かもこぼれそうになる。千都香は慌てて唇を噛んだ。
壮介はと言えば、余所見をしていて返事をしない。
「お世話になって、ありがとうございました」
「……ああ」
「たくさん……ご迷惑も、お掛けして」
荷物を持って廊下に出た千都香は、壮介に頭を下げた。
あの時──復帰したいと願い出た時も、この着物で、頭を下げた。
あんなに望んで、訴えて、一度は許して貰った仕事から永遠に離れるのだと、千都香は目を閉じた。
『壮介に傷を付ける前に、壮介の所を辞めて頂戴』
自分がいくら傷付いても構わなかったが、壮介に傷を付けたくは無かった。
最後に一度だけ、平取千都香として壮介に会って別れたかった。きちんと礼を言い、挨拶もして、弟子としてのけじめを付けたかった。
次に会う時は、千都香は壮介のただの知り合いになっているか、壮介の友人のパートナーになっているか、おそらくそのどちらかになるだろう。
「お元気でご活躍を」
「……あ?」
神妙に千都香の挨拶を聞いていた壮介が、不意に訝しげな声を上げた。
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