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雨の日にはビールを――裏
ぽつんと冷たい滴が手の甲に落ちた。
雨粒はすぐに大きく、大量に黒い空から俺の上に降り注いだ。
俺はあの人がコンビニの軒下に入るのを見てほっとした。
(買い物かな?)
その隙にバッグから折りたたみ傘を、とバッグの中を探って傘がないことに愕然とした。
(昨日使って風呂場に干したんだ!)
あの人は店の中には入らず、折りたたみの傘をさして、すぐに再び歩き始めた。
(あのコンビニに寄って傘を買ってたら見失う!)
それは絶対に許されなかった。
俺は叩きつけるような雨の下へノーガードで飛び出した。雨で視界が悪い。これ以上もたもたしていたら姿が見えなくなりそうだ。
夏用スーツはすぐに重くなった。薄手なのに上着は肩から背中におんぶだし、スラックスは腿に貼りつくし、裾もビラビラと揺れる。
それでも目だけは傘を差したあの人の背中を真っ直ぐ見ようとした。が、雨が目にも入ってくる。
(梅雨に傘を忘れるなんて最悪だー)
己のうかつさを呪いながら、俺はあの人を追った。
あの人――鳴上さんは同じ開発部の先輩だ。といっても転職組なので年は六歳上だけど、入社は1年先なだけだ。元が東京の上場企業の出身だけあって、仕事ができる。顔もいいし背も高い。178センチときいた。俺は169だ。せめて後1センチが欲しかったとコンプレックスを刺激される差だ。
でも、いい。
好きになっちゃったのは仕方ないし、今更俺の背は伸びまい。
「俺は仕事とプライベートは分ける主義」と言って女性社員の住所聞き出し作戦を交わしているのを耳にし、「これは足を使って調べるしかない」と決心したのが昨日。
思いたったら即実行で今日。梅雨寒の雨の中、海から上がってきた半魚人よろしくびしょ濡れで俺は鳴上さんをつけてる。ずぶ濡れの俺とすれ違う人の気の毒げな視線が痛い。
馬鹿は承知だ。いや、好きでやってるんです。気にしないでください。
アタックしなけりゃ何も始まらない!
それにしても鳴上さんは歩くのが速い。足の長さ以上の問題だと思う。明らかな早足だ。時々小走りにならないと追いていかれる。
(雨でよかった。晴れでこの距離なら絶対ばれてる)
俺は一途な思いを抱えて後を追った。
やがて鳴上さんは大きなマンションのポーチに入った。屋根の下で傘をたたんで、少し滴を振り払うと、自動ドアの中に入った。隅の何か機械を操作している
(まずい! オートロックか!)
俺は慌てて自動ドアの中に入った。
「鳴上さん!」
鳴上さんの背中がすくみ上がったのがわかった。振り向いた顔が凍り付いている。
が、すぐに溶けた。
「坂下?」
「はい、坂下です!」
「なんでここにいる? なぜびしょ濡れ?」
その時他の住人らしき人が入ってきた。鳴上さんは慌てて「今晩は」と挨拶すると俺の腕をつかみ、開いた奥の自動ドアを「お先に」と中に入った。
俺が歩くと半魚人の通ったような跡がずーっと続いた。
鳴上さんは無言だ。
エレベーターで五階に上がって、廊下を通って鳴上さんは511号室の前に立ち止まった。キーで鍵を開けると先に入って、初めて俺を振り向いた。
スポーツタオルを投げつけられたり、髪を乱暴に拭かれたりしたが、結局シャワーを浴びさせてもらい、バスローブを借りて、会社のデスクと同じくらいきれいに片づいた部屋でグリーンカレーをごちそうになった。
鳴上さんは落ち着きなく缶ビールを飲んでいる。飲み会で観察した限りそれほど酒に強くないらしいと知っている俺にはひどく危うく見えた。
その話はまるで誰かに聞かせたくてたまらなかったように唐突に始まった。
前の会社でストーカー被害に遭った話。
だから会社を移って、東京を出てこの街に来たのかと納得した。
そして、今日声をかけた俺に怯えた理由も。
思いを込めて抱きしめて、キスをして、背中をさすって慰めて――
俺は誓った。
「好きです、鳴上さん。俺はあなたを守ります」
その言葉を信じてくれて、寝室へ行って、ベッドに倒れ込んで、いよいよこれから、というところで。
「きもちわるい、はきそう」
鳴上さんが口を押さえた。
後は酔っ払いの世話に終始した。
あー……
それで終わった。
頭が痛いと言うので濡れタオルを絞って額に乗せた。
「ありがとう」
鳴上さんは目を瞑っている。
俺は訊きたかったことを口にした。
「どうして俺にストーカーの話してくれたんすか? 話したくなかったでしょう?」
「話したかったさ。吐き出したかった。でもうかつに話せない。俺が気を持たせるようなことをしたんじゃないかって前の会社ですら言われたからな」
「なら、どうして」
目を開けた鳴上さんが俺をじっと見つめた。
あ、瞳の色が濃いな。
「お前なら俺の言葉を信じてくれる気がしたから」
「信じますよ。鳴上さんは嘘つくような人じゃない」
「だからさ」
やさしい微笑みに見とれた。
この人が好きだ。
会社で俺を叱咤激励してくれるときも、飲み会で愚痴や相談に付きあってくれるときも、雨に怯えていたときも、好きだ。
外は今も雨だけれど、もう鳴上さんを家に逃げるように帰らせて、浴びるほどビールを飲ませたりしない。
梅雨で毎日が雨でも、安心させてあげよう。抱きしめて、キスをして、慰めてあげよう。
「あっ!」
俺は愕然とした。
「どうした?」
鳴上さんが視線を流してくる。酔いに潤んだ目が色っぽい。
「俺が守っていいですか?」
きょとんと俺を見つめる鳴上さん。それからむくれたように「今更何言ってるんだよ」と。「自分から言い出したんだろ」と。
俺は頭をかきむしった。
そうなると告白からの空振りは痛すぎる。恥ずかしすぎる。
八つ当たりを鳴上さんに向けた。
「だから飲み過ぎって言ったじゃないですか! 一世一代の告白だったのに!」
鳴上さんが笑い出した。笑うところじゃないはずなのに、げらげら笑って、額のタオルも落ちた。果ては涙までこぼしだした。
明るい表情の鳴上さんに俺は自分のこだわりが馬鹿らしくなった。つられるように一緒に笑った。
そして鳴上さんの首を抱え寄せてキスをした。
「楽しみは先に取っときます」
「ああそうかい」
鳴上さんの目がやさしい。
「それからしっかりボディガードしますよ。安心してください」
胸を張った俺に鳴上さんのツッコミが入った。
「忠犬かよ」
「わん!」
ふざけて吠えたら鳴上さんに引き寄せられた。そして初めて鳴上さんからのキスをもらえた。
ああ、鳴上さん、外がどんなに激しい雨でも俺は絶対にあなたを守って幸せにします。それが俺の幸せですから。
ほんの少しの後ろめたさを覚えながらも、俺は心に強く誓った。
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