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雨の日にはビールを――梅雨明け
まだ明けない梅雨に、俺は毎日坂下と一緒に帰った。
「俺が一緒だから買い物もできますよね」
そう言ってくれて、スーパーに寄って二人で食材を買うことができるようになった。二人で夕飯を作りその後のひとときをともにした。
残業で遅くなった日は坂下は泊まることになり、俺の部屋には坂下のためのものが増えていった。
それが嫌じゃない。
大学に入ってからずっと一人暮らしで、それが一番気楽だと思っていたのに。
それどころか、帰る坂下と別れがたくキスをしてから送り出すと何だか寂しくて虚しくて、一人だったときはどうやって時間を潰していたかわからなくなった。
(駄目だなあ)
そう思う。
こんなに自分が甘ったれだとは思わなかった。六つも年下の恋人にこんなに惚れ込んでしまった自分が怖い。
そんな時、電話が鳴った。スマートフォンではない、家電だ。
「はい?」
男とはいえ名乗ることはしないで、相手の出方を待つ。
しかし電話の相手は何も言わない。
雨音がかすかに聞こえる。
全身がぞわっと粟立った。放り出すように受話器を置く。
呼吸が乱れていた。震えが止まらない。
(まさか)
悪夢が現実を侵食するホラー映画のようなおぞましさに体が震えだしていた。
俺が前の会社を辞めた頃、彼女も辞めた。俺に対するさまざまな職権乱用が決め手となって依願退職させられたと聞いている。俺に切りつけた後は入院させられたとも聞いた。
だが、その後のことは知らない。
俺のその後が彼女に伝わらないように、彼女の家族に引っ越し先も新しい電話番号も伝えていないのだ。
だから俺は彼女の今を知らない。
知ることも怖いが、知らないということがまるで目隠しをされたかのように、今は心もとなく恐怖だった。
カーテンの向こうのバルコニーで雨音が強まっている。
彼女だとは限らない。だが、そうでないとも言い切れない。
一人はこんなに怖かったか?
俺は久しぶりにビールを三缶あけた。
「昨夜、スマホに電話したのに出ませんでしたね」
朝イチで坂下が車輪付きの椅子を近づけてささやいてきた。
「悪い。ビール飲んで寝た」
坂下が眉間にしわを寄せた。
「寝るほど飲んだんですか? 何かあったんですか?」
「雨音が、うるさかったから……」
坂下が声を一段低くした。
「今夜泊まります」
俺の返事を聞かずに、坂下は椅子を転がして自席に戻っていった。
(坂下が側にいてくれる)
そう思うと急に気が楽になった。仕事が手に着かないなどということもなく残業までこなせた。
坂下が「今夜はあのグリーンカレーが食べたい」と言うので、買い物はせずに真っ直ぐ帰った。
二人でマンションのポーチにさしかかった。
傘をたたもうとした、その時――
「見つけたぁ」
雨音に混じって声がした。
ひっと息を呑んだ俺に、坂下が警戒したのがわかった。
ガクガクと体が震えている。
それでも、振り向いてしまった。
彼女が、いた。
フリルのついたピンクの傘をさしている。着ているものはやはりピンクのスウェットの上下で足元はスニーカーだ。
「探したのよ。私、病気だなんて言われて、変なところに入れられちゃって」
「鳴上さん、下がって」
落ち着いた声の坂下が傘を投げ捨て、俺と彼女の間に立った。
彼女が小首をかしげる。
「あら、お友だち? 初めまして、秋央さんの婚約者の北条美幸です。よろしくお願いしま――」
「この女、ナイフ持ってます」
「あら」と言って美幸が笑い出した。
「秋央さんを守るのに必要でしょ? 悪い虫はやっつけなきゃ」
傘を捨てた美幸の手に坂下の言うとおり、銀色に輝く鋭いナイフがあった。
瞬きもせずに美幸は坂下を見つめている。
「秋央さんの一番は私なの。あなたはいらないの」
美幸はためらいもなく腰のあたりに両手でナイフを構え、坂下に体当たりをかけた。
辺りに悲鳴が上がる。野次馬がいたのか。
坂下の体がひらりと美幸の攻撃を躱した。そして手首をつかんで沈み込むように腰を落とすと、ふわっと美幸の体が持ち上がった。
「怪我をさせるなっ」
とっさに叫んでいた。
武道の有段者はその体自体が武器と見なされると聞いた覚えがある。
宙を回った美幸の体は次の瞬間にはやわらかくポーチに落ち、坂下の片手に両手首をまとめてつかまれ、背を膝で押さえつけられていた。
美幸の手からナイフが落ちたのを、坂下はもう一方の足で器用に蹴り飛ばした。
「放せ、放せ、泥棒猫! 秋央さん助けて! 誰か、誰かぁぁぁ!」
美幸が暴れようとしているが、拘束はびくともしなかった。
歓声が上がった。
「どなたか警察を呼んでください」
地面を叩く雨音の中、坂下の声はあくまでも落ち着いていた。
事件が一区切りついたのは梅雨が明けるか明けないかの頃だった。
美幸に俺の情報を知らせたのは彼女の家族。美幸の求めるまま探偵を使って俺を探させたそうだ。坂下の存在も探偵の調査結果にあったとのことだった。
美幸はまだ入院していたが、家族との外出を悪用した。ナイフは彼女の父親の物で自宅に帰ったときに手に入れると、一人で自宅を抜け出し、俺のところに来た。
電話も美幸だった。病院の窓際にある公衆電話から掛けたものだった。探偵の情報が真実か確かめるためだったらしい。「らしい」というのは病気の美幸の言うことが二転三転するからだと言われた。
当然のことながら罪に問うことはできない。
坂下は美幸にすり傷一つ付けなかった。ポーチ上だったのと美幸が長袖長ズボンのスウェットを着ていたのが幸いした。だが何より、さすが合気道四段としか言うほかはない。
また野次馬が一部始終を動画に撮っていて、美幸が一方的に攻撃しようとしたのも明らかにされた。
俺が危惧したようなことは何もなかった。
土曜日の夏の日差しの中、連絡もなしに坂下が訪ねてきた。
俺は冷蔵庫のビールを半分に減らして冷やしているペットボトルのお茶を一本出してやった。
が、なぜか坂下はもじもじしているばかりで、用件を言わない。
俺は自分の分の茶を開けて飲んだ。
「すみません!」
そう言って勢いよく頭を下げた坂下がダイニングテーブルに額をゴンとぶつけ、俺は茶を噴いた。
「なんだよ、いきなりー」
ティッシュの箱を取ってきてテーブルを拭く。
「俺、嘘ついてました!」
手が止まった。
「嘘?」
穏やかじゃない。
俺はテーブルに伏したままの坂下の前に座り直した。
「はい。俺、だましてたんです、鳴上さんを」
頭の中で嫌な考えがぐるぐる回る。
「本当は俺――」
もしかしてこれは、別れ話なのか?
「三段なんですっ!」
「は?」
意味がわからない。何の話だ?
「合気道四段て言いましたけど、まだ三段なんですっ」
全身の力が抜けた。
「お前ー」
坂下が顎をテーブルに付けたまま、上目にまくしたてる。
「四段の昇段試験て二十二歳で受けられるんですけど、大学四年の時親父と大喧嘩してそんな面倒くさいことできるかって、昇段試験自体受けたことないんです。でも、鳴上さんに頼もしく思ってもらいたくてつい四段て――」
また顔を伏せてしまった。
「すみません!」
俺は呆れて坂下の後頭部を見ていた。それから、思いきりため息をついた。
「お前にとってそれは重大なことかもしれない。でも俺からしたら、そんなこと?って感じだぞ」
「段位を嘘つくなんて、懲罰ものです」
「お前が四段て言ったのを聞いたのは俺だけなんだろ」
「はい……」
「俺はお前が彼女を怪我なく捕まえてくれたのがありがたくて、うれしくて、段がいくつでもでも十分感謝してるぞ」
俺の言葉に坂下はまた上目に俺を見る。
ああ、やっぱりコイツは犬っぽい。
手を伸ばして頭をよしよしとなで回す。
「お前のおかげで俺は本当に助かった。何段かなんて関係ない。ありがとう――」
俺は身を乗り出して坂下の前髪辺りにキスをした。
「――肇」
肇の目が丸くなる。
「鳴上さん」
俺は微笑む。
「秋央、だよ、俺は」
「秋央さん!」
「あ・き・ひ・ろ」
「秋央!」
忠犬がぴょんと立ち上がって、テーブルを躱して抱きついてきた。
やっぱりコイツは犬だ。尻尾が見える。
「秋央、あきひろ――」
繰り返される口づけに俺は肇の名前を呼ぶ隙がない。
(まあ、いいか……)
俺は肇の舐めてくるようなキスに答えながら、恋人の体を確かめるようになでさする。
今年の梅雨明けはじきに発表されるだろう。
もう来年の梅雨が来ても俺は怖くない。大切な忠犬が絶対に守ってくれるから。
――了――
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